ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

気晴らしではない

お茶とは気晴らしのためにするのではない。
1996年11月14日に名古屋のお茶教室でご一緒だったGさんからいただいた「七事式」の切り抜きを読むと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)、思い立った時に、少しでも習おうと思うか、全く習わないで済ませようとするかの大きな相違がわかる。
先代のお家元が監修された文章には、以下のようにある。

「客の座について、安閑としておりましても、札の出方によって点前座につき、茶を点てなければならないので、始終他の動きに注目して、どのような変化があっても、それに応じて、はたらきの出来るように、仔細に動作を見なければならないというので、これは実社会の処世の上に、人と人の折衝に移して考えると、味わい深いのであります。」
(平花月之式・炉(一))(p.57)

(部分抜粋引用終)
ここに書かれている一文を、文脈を広げて考えるならば、日本のことだけ考えていては到底生きてはいけないため、世界情勢の変動に始終注目して、どのような変化があっても対処できるように、という教えでもある。また、個人レベルに限定するならば、自分のことだけ考えていては到底まともに生きていけないため、家族や親族の状況にも始終注目して、どのような変化(誕生、成長、老化、病、事故、金銭問題など)があっても、それぞれに対処できるように備えておく、という戒めでもある。職場があるならば、社会動向や国の政策なども踏まえた上で、職位職階や能力や人柄の相違と、どのように折り合い、相互に補い合って、仕事(傍を楽にすること)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161216)として進めていくかの知恵でもある。
簡潔にまとめれば、自分一人だけで生きているのではない、ということを、型を繰り返し稽古させながら、精神と心を養う修行が茶道なのだ。

「茶道は芸術の一分野とみられていますが、それはあらゆる伝統的な芸術の総合されたものであり、日本の伝統文化のひとつの融合体とも考えられます。茶道を通じて、書画、陶芸、漆器、織り物などに接する機会が多く、また日本文学の素養がなければ茶事の楽しみも半減というところから、古典文学に興味を持つ人も多くなるでしょう。茶道はまさに生活の知恵の宝庫であり、豊かな暮らしのための絶好の手引ともいえます。」
千宗室新版 裏千家 茶道のおしえ日本放送出版会1984)p.43)

(部分抜粋引用終)

ところで、夫が進行性難病患者で、という話になると(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BF%CA%B9%D4%C0%AD%C6%F1%C9%C2%B4%B5%BC%D4)、病名や具合を尋ねることをせずに、すぐに「介護ですか?」「お金に困っているんですね?」というパターン化した即物的な応答が返ってきたのは、実は三十代から四十代前半にかけての大学や研究会や学会の場であった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160108)。
今から振り返っても、まだ若かった(であろう)三十代の私に対して、「難病=貧困」「難病=介護」という単線的な反応になったのは、なぜなのだろうか。また、「だから非常勤でもやっておけばって言ったのに」「生活に困っているなら、科研費取ればいいのに」という表面的かつ無茶な助言も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100303)、今ではその発言の深刻さを再確認させられている。
要するに、そのような硬直した発想しかできない人々が、今の日本の大学を形成しているという意味なのだ。大変に失礼な話だが、冒頭の基本的なお茶の本さえ、もしかしたら読んだことがないのではないかと疑ってしまう。読んでいたら、そのような会話運びにはならないだろうからだ。
ヨハネ・パウロ二世(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%E8%A5%CF%A5%CD%A1%A6%A5%D1%A5%A6%A5%ED%C6%F3%C0%A4)と同じ病気なんですよ!
ということもあって、対共産主義の知的闘士だったワルシャワ出身のパイプス家(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141125)とつながりができたことを、私はこの上もない精神支柱だと考えている。
それに、9月の欧州旅団でご一緒した女性のご主人が、アメリカの有名大学の医学部教授で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161016)、何とうちの主人の病気を研究されているということまでわかった。その上、その女性のお兄さんが西海岸で一人暮らしをしていて、同じ病気だとのことだった。
その東欧ユダヤ系のアメリカ人女性は「本当ならハーヴァードに行きたかったんだけど、私はコロンビアになった」と私におっしゃっていた。帰国後に調べてみると、昔の『ニューヨーク・タイムズ』紙にも大きな記事が掲載されていたご夫妻だった。
というように、長らく自家製日の丸弁当で頑張ってきた私は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161217)、パイプス旅団で知り合った方々とは身の程違いという感覚が抜け切れないのだが、恐らくは、深層のどこかで何かが共鳴している面があってこそ、今でもパイプス先生は私に訳文を頼んでこられているのだろう、と解釈している。
2012年3月下旬から(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120330)、本業をしばらく脇において、ずっと集中してパイプス訳文に専念してきたが、昨年辺りから今年にかけて、二ヶ月ほどの休みを時々取っている。機械訳ではないのだから、頼まれた以上は、訳す自分についても、周囲を広げ、掘り下げつつ、成長し続けていかなければならないと思ってのことだ。
これからがいよいよ本番だと、手綱を引き締めている。

http://www.fsight.jp/articles/-/41818


「スーパー研究者」育成法に関する年末の夢想
平野克己
2016年12月14日


・多彩多様で密度の濃い経験を積むことの大切さ。


経験値の小さい人間はどうしても思考の幅が狭く、汎用性に劣る若いときに埋め込んだ知識や理論の芽がないと、あとからでは吸収力がつかないものだ。修行が薄くて引出しが少ない人は、新しい知識を記憶することすら段々と難しくなる。


・研究者を含め有識者に求められるのは、まずなにより豊富な知識である。知識量の多い研究者は研究テーマの多い人であり、研究トピックが少ない人は概して知識量も少ない。


・他方、学界に根強い指向性は「狭く深く」であろう。だが、知識の幅が狭い人には多種多様な職業の人々を納得させられるだけの実効性をもった深みは、なかなか期待できないのが実情だ。深い穴は広く掘らないとつくれないものである。


・私の経験では、一流の学者ほど硬軟軽重いろいろな仕事をホイホイ引き受けるもので、專門が違うだの思想が合わないだの言って腰の重い人は、まず二流だ。だからますます差がついていく。

(部分抜粋引用終)

上の「專門が違うだの思想が合わないだの言って腰の重い人は、まず二流」について。
私が学生だった頃、よく教授から諭されたのは、「知らないことについて、根拠なしにいい加減なことを言うな」だった。従って、「腰が重い」というよりは、自分の領域を守り、分に応じて、その中で精一杯の務めを果たせ、ということだった。当然のことながら、知らないから黙っているのではなく、自分の専門領域ではないから控えるという、専門性に対する敬意と慎みと責任感のようなものだった。但し、水面下で他分野の勉強を幅広くしておくのは、嗜みとして暗黙の前提であった。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=pb&hc_location=profile_browser


30代半ばから40ぐらいまでにいちど官僚のエリート養成と同じような情報飽和・過剰摂取のぎりぎりまで追い込むような機会を与えると、研究を基礎に多方面にわたってリーダーシップを取るようになる人が出てくるのでは、とは思う。研究者の場合はいくら一生懸命やっていてもそういう環境に自然に置かれるわけではないので、選定して導く馬喰が必要ですが、それが大学の世界に今少なくなっているんじゃないかと思う。グループ組んで予算獲得競争をさせられているので、若手は派閥の頭数と鉄砲玉の駒でしかない。ボスの方もそういうエリート養成の機会はなかった人たちなのだから仕方がないが。

(部分抜粋引用終)

https://twitter.com/ituna4011


『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの』(1956年) (カッパ・ブックス) 三笠宮 崇仁 (https://www.amazon.co.jp/dp/B000JB1AIG/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_8mIvybKAT0M22 … via @amazonJP)


『一冊の本』(1967年) 朝日新聞社学芸部 (https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA5NSA/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_.nIvybPK3PBQ0 … via @amazonJP)


『知の教室 教養は最強の武器である』(文春文庫) 佐藤 優 (https://www.amazon.co.jp/dp/4167904276/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_DoIvyb84R4E58 … via @amazonJP)

(転載終)

上の二冊は、近所の図書館経由で借りたもの。最後の本は、書店で見て、中古で注文して届いたもの。