ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

江口先生のこと

三十代から四十代にかけては、結婚後一年で診断を下された主人の進行性難病のこともあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151228)、最低限の家事をする他は、あるかないかもわからない将来に備えなければと思い詰めていた。
子ども時代から、本を読むことと音楽を聴くことが好きだったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160904)、とかく狭くなりがちな視野を広げるため、自分にはこれしかない、と決めた。
盛んに図書館から本や論文を借りて、貪るように読んではノートを取り、せっせと複写を作り、ファイリングをしていた。
同時に、楽器は無理としてもせめて聴くことだけはと、クラシック音楽の幅を広げるために、いろいろなCDを図書館から借りたり、ラジオやテレビで音楽番組の時間を確保したりして、これまたファイルやノートを作り、せめてもの精神安定に努めていた。
その他は、せっかくご高齢の名誉教授からも褒めていただいたのだから(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070722)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080325)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110330)、マレーシアに関するささやかなリサーチを何とかまとめなければと必死になって、時折、シンガポールやマレーシアで資料を集めたり、関係者との面会で直接お話を聞いたりしては、学会や研究会での発表を繰り返していた。
共倒れにならないように、体力作りとして数年間、近所の体育館でバドミントンをしたり、ヨーガを習いに行ったり、極力歩くようにしていた。
全体的には、非常に地味で平凡な暮らしを送ってきたが、もともと、こんな予定ではなかったのである。
....と、どうやら私が口走ったらしく、昨日の今年最後のお茶のお稽古では、長らく続けているという人が近づいてきて、「吉本」並みにおもしろいと喜んでくださった。
事の起こりは、最初のお稽古の日に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)、足が痺れて立てなくなったことに発する。娘時代に比べて、年齢相応に太って体重がかかり、痺れて無感覚になって立ち上がれなくなったのだ。先生は、転んで怪我をされても困るので、「ゆっくりね」と言ってくださったのだが、その際、つい「こんな予定ではなかったんですけど」と私が応答したようなのだ。
「吉本」ねぇ...関西に住んでいるとはいえ、元は父方母方の両方共、祖父母の代から名古屋なので、私は今でも標準系アクセントに近い話し方が抜けない。それに、表面上はともかく、主人の方も岡山のお堅い家で、皆、生真面目なところがある。だから、全く「吉本」にはふさわしくないと自分では思っているのだが、「では、来年はお笑いネタをまた考えておきます」と笑顔で応じた次第。
堅苦しい本ばかり読んで、張り詰めた気持ちで重い荷を背負ってトボトボと歩いている毎日なのだが、見方を変えれば、結構、他の方々に無料お笑い高座を提供しているのかもしれない。
お茶と言えば、お金も時間もかかって、形式張っていて、着物の品評会もどきで、先生との相性やお付き合いも難しくて、などとという評判を若い頃にはいろいろと聞いていたものだが、今にして思えば、世相の変化もあり、やはり嫁入り前に少しは習っておくことの意味をつくづくと感じさせられるところである。昔は、親が躾の一貫として、娘に習わせるのが責務のようなところがあった上、何よりも、日本文化の伝統である。さまざまなレベルであっても、それぞれに習う人が続くことで、伝統が広まり、継承されていくのだ。それを思えば、(多少の無理をしてでも、何とかして続けなければならない)と、民間防衛隊(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160321)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)並みに気持ちを引き上げたところである。
あの時、祖母が勧めてくれなければ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)、「いえ、私にはもったいない話ですから」などと引き下がってばかりで、今頃、私はもっと恥ずかしい思いをしていたに違いない。
祖母は、自分が勧めた手前、自宅でのお稽古用にと、お茶道具一式を揃えてくれたのだった。そして、もし本気で習うつもりならば、「お稽古代は、おばあちゃんが出してあげてもいい」とも言っていた。
だが、お金の出所が原因となり、家の中で騒動になることを懸念していた上、「若い時の苦労は買ってでもしろ。依存心は極力避けよ」を自分の戒めとしていたので、丁重に遠慮した。
その代わり、アルバイトと仕事で得た貯金を使って、文化センターへ週一回習いに行くことから始めた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/about)。自分のお金で習うならば、誰にも文句は言われないだろうと、当時は単純に思っていた。
だが、早速、妹から「あんた、お茶なんか習っているのぉ?」と怪訝そうな声で言われた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)。
嫁入り支度として、祖母から「娘達には、着物をたくさん揃えて持たせた」と聞いていたが、現実には、このように孫の代になると、お着物どころではなくなった。成人式と大学の卒業式の時以外、私には全くご縁がなくなってしまったのである。
「お茶なんか、習わなくてもいい!」「着物なんか、贅沢だ!」「お茶会で恥をかいていらっしゃい!」という調子だったので、譲られるも何も....。それに、「養育費の返済」として、毎月のように何かとお金を万単位で取り上げられていたので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161117)、いくら貯金をしておいたつもりでも、行く末が先細りで、不安感ばかりが募る日々だった。
だから、お茶会では一人だけスーツだったり、許状をいただく時には、電話帳で貸衣装屋さんを調べて、レンタル着物だったりした。
例えるならば、代々相続されて余裕があるので、親はレストランでフルコースを堪能しているのに、その子になると、どういうわけか学校の教室の片隅で、早起きして自分で作った小さな日の丸弁当を恥ずかしそうに食べながら、懸命にニコニコと頑張っているようなものである。
その日の丸弁当組の私は、それでも虐められることなく、元気に学校を卒業できたのだから、幸いだと言わなければならない。
お茶の教室でご一緒した方々も、内心は思うところがあっただろうが、(未婚だから仕方がない)(途上国から帰って来た人だから、あの程度なのでしょう)と大目に見ていただいていたのだろうと、今でも思う。自分では、何か言われた時に「まだ初心者ですから」とかわしていた。
当時、お稽古が終わると、お着物姿の主婦の方達は、お互いに誘い合って、喫茶店などでお茶を飲んでいたようだが、勿論、私は一度も誘われたことはなかった。というのは、いつも図書館から借りた6冊の重い本を鞄に入れていて、三時に終了すると、真っ直ぐに地下鉄に飛び乗って、県立図書館へ向かうのが習慣だったからである。
地方新聞にも写真入りで大きく記事が掲載されたこともあったので、お茶の方達は、先生も含めて私の経歴やマレーシア体験をご存じだった。私の方はと言えば、帰国後は、マレーシア滞在のために、大学でも家庭でも居場所がなく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160905)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)、まるで追放された気分。もう一度、日本社会に受け入れていただくために、お茶でも習っておかなければという、思い詰めたような悲壮な気分だった。
前置きがすっかり長くなったが、梅田でお茶を始めるようになって、毎度思い出しているのが、名古屋にいた頃、最初に水屋の板敷きに座って割稽古から教えてくださった江口先生のことだ。
松尾流から裏千家に移られたという江口先生は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)、聞くところによればずっと独身で、名古屋の大手百貨店に定年まで勤め続け、弟さん夫婦と同居とのことだった。お嫁さんに遠慮して「朝五時起きで準備しないと間に合わない」とおっしゃっていた声を、よく覚えている。
あの当時の名古屋であの世代だから、世間の風当たりも相当なものだっただろうと想像されたが、私には何だか励ましのような、密やかな支えのような気持ちだった。
というのは、上記のような調子だったので、たとえ結婚の意志があっても、多分、全力を挙げて潰されていくに違いないという恐怖感を、私は子どもの頃から根底に抱いていたからである。従って、どうやって自分の身を落とさずに一人で生きていけるかばかりを、毎分毎秒のように考えている日々だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100301)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120225)。
今では、百貨店とは名ばかりで、ショッピング・モールとデパートの境界線が限りなく曖昧化しているが、昭和時代には、一定水準以上の専門店の集まりだった。江口先生が何を担当されていたのかはわからないが、ずっと百貨店勤務でいらしたならば、世の中を見る目が磨かれて鋭いのだろうと、当時の私は緊張していたものだった。
一方で、いかなる理由であったとしても、独身女性という境遇の中で、自分の食べる分は自分で働いて稼ぐ傍ら、何かとお金がかかると言われるお茶をずっと続けて、定年後は教える立場になられたというところに、気概や誇りを感じさせられた。
今から思えば、他の人達には甘く優しいように見えても、私に対して江口先生が容赦なく厳しかった理由は、恐らく(今の若い子はいいねぇ、学校にもスイスイと行かせてもらって)ということだったのだろうし、結婚する予定の彼がアメリカのノースカロライナ州に数年赴任が決まったので、お稽古を止めることになったという別の若い女性に対しては「私もアメリカ赴任するような主人が欲しかったわぁ」とおっしゃっていたことも、合わせて思い出す。
ひたすら恐縮しながら少しずつ習っていた名古屋のお茶だったが、ふと気づけば、私もアメリカ赴任した夫を持つ身になったのだ。
やっぱり私、感覚的に「吉本」なのでしょうか。