ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

三笠宮殿下のみ教え

三笠宮崇仁親王殿下のご薨去の報に接したのは、昨日の午前10時半前のことだった。
すぐに、1985年にNIRA奨学金で身重の奥様と一緒に日本で3ヶ月、調査留学されていたダニエル・パイプス先生に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)メールでご連絡を。滞日中、たくさん会った日本人の中で、ほぼ唯一の「親イスラエルの日本人」として最も印象が強かったと、2012年1月のメル友開始直後に教えてくださったからだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151203)。
何と、その14分後には、ツィッターに掲載したとのメールが入った。
実は、先月下旬の公式の欧州旅程が終了した10月1日のストックホルムhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161009)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161014)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161017)のホテルのロビーで、夜の一時間ほど二人でお話していた時、遠慮がちに「お元気...ですか」とおずおずと尋ねて来られた。100歳というご年齢を配慮してのことであろう。最初の奥様は、今は退職されているが、もともと日本文化に深い関心を抱き、公私の用件で時々来日されていたので、自然とそのような運びになったのであろうと思われる。
「お元気ですよ」と礼節に則ったお返事ができたことは、時期的に非常に幸いなことであった。
三笠宮殿下にはお目にかかったことはないが、故高円宮憲仁親王殿下には、国際交流基金のご総裁であられたので、1990年代初期に、クアラルンプールで直接、ご謦咳に接したことがあった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)。同僚と一緒だったが、こちらは非常に緊張していたものの、気さくに私達とほぼ変わらない調子でお話しになられたので驚いたことを、今でも懐かしく思い出す。
また、三鷹市にある三笠宮殿下が設立された中近東文化センターにも、池田裕先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070629)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070701)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070714)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070715)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070805)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070831)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080406)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081229)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150516)から度々パンフレットを送っていただいていた。数年前にICUでの学会発表の折、短時間ではあったが訪問できたことも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091126)、今から振り返れば、恵みであった。静かで落ち着いた雰囲気で、過不足なく貴重な展示があり、受付のご年配の女性も品よく丁重だったのが、今でも忘れ難い。
中東と言えば、今ではおどろおどろしく血なま臭い、宗教と政治の紛争が絶えない場としてのイメージが先行しているが、古代に遡れば、中東地域は文明の揺籃の地である故、考古学的な調査によって、悠久の念を持って人類史を見ることの大切さを日本人に示唆されたものと思われる。
また、殿下の師であった大畠清教授の『萬葉人の宗教』山本書店(1979年)が手元にあるので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081229)、これから日課の読書に加えることで、殿下のご学問の足跡を偲ぶことができればと願っている。
このように、ごく一部かもしれないが、日本には、中東地域の本質を早くから捉え、学問的に追求した形跡が確かにある。現在のインターネット上のニュース情報のみで右往左往されない精神は、やはり学問に始まり、学問に終わるのであろうと改めて思うことである。
随分前に立ち読みした三笠宮殿下のエッセイには、戦時中、陸軍将校として赴かれた中国のある地域が、他とは違って治安と秩序が保たれ、清潔だったので、その秘訣は何かと探ったところ、熱心な西洋のキリスト教宣教師の働きによるものであるとわかり、そこから、聖書にヒントがあるとお考えになられ、オリエント文化の研究に進まれたというお話が、格調高く、平易かつ気品溢れる文章で綴られていた。
最初はキリスト教史(宗教改革)から始め、ヘブライ語へと進み、ユダヤ教に触れたことによって、ユダヤ人こそが西洋文明の基であると認識され、ユダヤ精神によって、敗戦で傷ついた日本人としてのご自分のアイデンティティに再び誇りが持てるようになったとのことである。
手元にある製本されたキリスト教史学会の古い手書きのガリ版刷り会報には、三笠宮殿下も懇親会に参加され、「おなかがいっぱいで言葉も出ない」などとおっしゃったとの微笑ましい様子が記録されている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100712)。
その他、三笠宮殿下にまつわるエピソードを含む過去ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)。
激動の昭和などと言われていたものの、よろず物事が平板になり、機能的だが混沌としている平成の現状よりは、遥かに日本らしさが残っていたのではないだろうか。
以前、京都御所を一人でぶらついていた時、桂宮殿下のお住いのそばを通りかかって、改めてしみじみと感じ入ったことも合わせて思い出す。質素な木造の日本家屋なのだが、全体に清掃がよく行き届いていて、静けさが漂い、落ち着いて晴明という雰囲気だった。
本当に、日本に生まれてよかったと、つくづく思う。

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『新版 茶道文化検定 公式テキスト 4級: 茶の湯をはじめる本』今日庵茶道資料館(https://www.amazon.co.jp/dp/4473038793/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_q5YeybMZW19NG …)が中古で届いた。2007年前から(ママ)、裏千家が茶道検定試験を開始したようだ。何だか中学校の教科書みたいな本だが、慢心せず、基本を学び直そうと思って入手。

(転載終)
(ユーリ後注:「2007年前から」は「9年前から」と「2007年から」のドッキング・ミス)
9月下旬の正味8日間(実際は10日間)の欧州旅行から帰り、まだ整理がついていないのは相変わらずだが、家の中の整理整頓と同時並行して、少しずつメモをまとめ、思い巡らしつつ、書けるところから書き留めている状態。
そして、中東情勢でもそうだが、欧州のムスリム移民に対する反応を見ていて、政治が何よりも要であることを痛感すると同時に、では日本はどうあるべきなのかを考えている。

欧米の旅団と行動を共にしつつも、やはり文化が異なるので、横のものを縦に直しただけでは、私の役目はどうしても不足だと思うのだ。ムスリム移民の問題に対しても、アンチ欧米あるいは反イスラームというような安易で極端な態度ではなく、西洋に寄り添いながらも、我が国としては違う対策を考えていかなければならない。

幸いなことに日本には、古来から面々と続く民族宗教神道)および理論教化としての伝統仏教があり、日常の振る舞いを身につける嗜みとしての茶道もある。その魂と精神を今ここでしっかりと身に付け、実践を繰り返すことで、自己および社会を強化する術となるのではないか。それこそが、国防の一端を担う民族意識を醸成するのではなかろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160321)。

こんなことを考え、来月から早速、久しぶりに茶道教室へ通うことになった。月二回なので、4月から始めた町内での月三回の簡易テニスと両立できそうだ。茶道は裏千家で唐物まで許状をいただいているが、それほど長く習っていたのではない。結婚する前後に、自分の至らなさを痛感しつつ、必死で通っていたという感じだった。その後、先生のご自宅でお炭の換気が悪かったために一酸化炭素中毒で倒れて以来、深層意識で何か避けたい気分もあったようだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)。

ただ、欧州文化に久しぶりに触れて、現在の問題点が浮き彫りになってくると、やはり、横並びに同じことをしていてはいけない、とつくづく思うようになった。

パリやベルリンやストックホルムムスリム移民地区はどうだったのか、という視察報告を避けているのは、実のところ、予想通りだったというのが私の実感だったからでもある。イスラミストは、マレーシアでも日本でも欧州でも、同じことを飽きもせずに、繰り返し話し続ける。
パリのフランス内務省は、まずい英語通訳付きで(とアメリカ出身者が言っていた)、だらだらと説明をするのだが、要するに構造を話しているのみであり、形式主義の最たるものであった。所詮、どこの国でも政府のお役人とはそういうものだと思っていたこともあり、ちょうど時差に伴う疲れが出たのか、場所柄をわきまえず、ついコクリコクリと頭が揺れてしまったのは、申し訳ないことではあった。
ベルリンのドイツ連邦議会では、緑の党の政治家から話を聞いたが、思わず外に出てから「大変に結構でした」とドイツ語で言ってしまったほど、左派思想バリバリであった。
ストックホルムスウェーデン国会議会堂では、二人の議員が対論している様子を拝見したが、何だか我々の到着に合わせてシミュレーションしているかのような、静かで退屈なものだった。

だから、武士道の国であり、茶道文化も根付いている日本にせっかく生まれ育ち、一貫して公教育を受け、納税もしている国民の私が、ムスリムの難民や移民の政策についても、欧州と横並びになって、同じように正面からぶつかっていてはダメだ、と思ったのである。