ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

先週の日誌

閑話休題http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130401)。
3月26日(火)in 東京
午前中はパイプス訳文の下訳数本をプリントアウトし、掃除や洗濯などを済ませ、簡単にスーツケースを詰める。一泊二日の東京行き。幸いなことに、主人も同じく鎌倉へ一泊二日の出張だったので、家事で迷惑をかけることもなく、助かった。
夕方6時に広尾のユダヤ教団へ。このシナゴーグへは、13年前、東京外国語大学の共同研究員だった2月に、せっかく東京に滞在しているのだからと思い、大学の証明書を持参の上、訪問したことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)。警護が厳重で鉄格子のような柵で覆われていて、インターフォン越しに訪問理由を述べた。受付の日本人女性が「関係ないですもんね」と、証明書を調べた上で中に通してくださった。「変な人が時々来るので」門を厳重にしているのだとの由。きちんとした背広姿のユダヤ系男性が出てきて、会釈するとにこりと会釈を返してくださったことを思い出す。
昨年、パイプス先生が日本滞在中に「イスラエルに対する敵意を感じた」件で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)、一端は終了したかに見えたメール交換が再開してしまい、「先生、それは奇妙な話ですねぇ。確かに、反ユダヤ主義の変な本が日本でも出回っていることもありますが、私は最初からそんな本を手に取ることさえないし、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団の来日公演はいつも成功していますし、日本人の大半はイスラエルから学びたいと思っているはずですよ」と書き、ついでに「日本イスラエル親善協会があるので、私はこれから入会を申し込むつもりです」と添えた。めでたく会員になる許可が下りたところで、再度お知らせしたところ、パイプス先生から「おめでとう!」とお返事が来た。
とはいえ、会費を払って薄い会報を定期的に受け取っているのみで、何ら活動らしきものをしていなかった。そこへ今年に入って、父の逝去一日前の2月14日、親善協会からペサハ(過越祭)の儀式(セデル)が3月26日にあるという連絡が入った。父の入院などもあって、この頃は毎日、予定は未定。葬儀が済み10日ほど経って考えた末、せっかくのチャンスをふいにすることになってはと思い、参加を申し込んだ次第。その意味でも、お父さんは子ども孝行なのだ。
夕方6時からとのことで、それ以前に来ても外で待つことになる、と事前にご連絡があった。13年前は歩いて行けたのだが、周辺がかなり変化していて、歩き回っても見つからず。遅刻してはいけないと思って、タクシーに乗ったら「よく知っていますよ。時々、ユダヤの人達があの辺を歩いていますよね?」と運転手さん。「ここからすぐ近くで申し訳ないんですけど」と。しかし、遅れるよりはましだ。
さすがに、既に外で待っている方達が数名。大使館の日本人男性が、テキパキと指示を出し、些かも間違いなきよう気を配っていらした。行事の成功には、このような影ならぬ努力が不可欠なのだ。
一人なので緊張もした上、どのような服装が適切なのだろうかと気にはなったが、これもそれも、政治シオニズムとはいえ、ダニエル・パイプス先生から訳業を依頼されて一年以上経ったのだから、誰かから何か言われたとしても、「基盤となるユダヤ教理解をもっと具体的に深めたくて来ました」と応じればよい、と自分に言い聞かせながら待っていた。
ところが、杞憂は不要で、外にいる間に、同じく待機中の女性の一人がミルトス社長夫人だということが判明。同伴の女性も、最近のミルトス企画でイスラエルに旅行された方だとの由。「教会教会していなくて、よかった」とおっしゃり、なんと『みるとす』誌のバックナンバーを全部取り寄せて読んでいらっしゃるとか。日本のキリスト教共同体は小さな群れだと言われるが、実際には聖職者やキリスト教学者のあずかり知らぬところで、個人レベルで非常にご熱心な方が含まれるのが日本の特徴だと思う。というわけで、『みるとす』一読者として、会話に加わることができて幸いだった。
ヘブライ語は?」と尋ねられ、「ミルトスさんから、聖書の対訳本を何冊かとヘブライ語の聖書朗読のCDを購入しました」とお答えした。時間がもう少しあれば、以前のように毎日少しずつ日課の勉強に組み込みたいところだが…。また、あしながおじさま(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130116)から何年か前に紹介していただいた講座で、ヘブライ語(およびギリシア語)の通信教育があり、受講を考えたことがあったが、結局、時間の関係で延期しているのが残念だ。
それはともかく、礼拝所の入り口には金文字のヘブライ語表記があり、聖書のどこなのかと意味を尋ねたら、親切なご年配の日本人男性が、わざわざ「詩編113」と教えてくださった。
英語とヘブライ語の厚い祈祷書も興味深かった。これは、キリスト教で呼ぶところの旧約聖書に親しんでいれば、特に違和感なく読めると思った。
さて、夕食会(セデル)。赤いチケットを受付でいただいていたので、その番号テーブルに座ることになったのだが、日本人参加者も含めて約100名とうかがった(後注:2013年5月3日に届いた日本イスラエル親善協会広報誌2013年5月6月号 p.6によれば、総勢98名とのこと)。特別の食事が整えられた丸テーブルに着席すると、なんとミルトス社長様自ら、2007年3月上旬のイスラエル旅行以来の購読者に過ぎない私の隣に来てくださった。「前から、どんな人なんだろうと思って」との由。
確かに、執筆者の佐藤優氏にも京都でお目にかかっているし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)、池田裕先生からも、聖書フォーラムや大学講演などを通して、研究上のお励ましをいただいてきたし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081202)、狭い世界とはいえ、本当の意味で価値観が一致していなければ、なかなか続かないだろうとは思う。聖書知識や中東理解が不足しているばかりか、一部のジャーナリストや中東研究者が「公平」の名の下に、アラブ・パレスチナ中心の反イスラエル見解や低俗な反ユダヤ主義の言論を張っている日本において、しっかりしたイスラエルユダヤ文化の専門出版社を経営するとなれば相当の激務だ。謹厳な方なのかと想像していたが、実際にお目にかかってみると実に深い信仰の温厚な先生でほっとした。
ちなみに、京都の講演会の時、佐藤優氏が私の求めに応じて『みるとす』誌のご自身の記事の上にサインをされ、「ミルトスの社長さんはどなたでしたっけ?」と私を試された後、「河合さんはすごい人。東大の数学科を出て、アメリカで博士号を取られて、聖書をヘブライ語で読んでいる」と。かつては石油会社にもお勤めだったようで、一般世間をご存じだというところが、同じ聖書関係でも、大学神学部のキリスト教学者や聖職者一筋の人々とは違う。無教会系とはいえ、主流キリスト教会からは一部異端視する人達が皆無ではない中、イスラエル大使館にも認められて、常に出版をたゆみなく続けるというのは、生半可ではできないお仕事だ。しかも、イスラエル旅行を定期的に企画されているようでもある。翻訳出版の関係で、ネタニヤフ首相からもお手紙をいただいている方だ。
しかもありがたいことに、「ダニエル・パイプスさんとも関係があるんでしょう?」と、よく覚えていてくださった。「時々、ブログも読んでいますよ」と。これだけでも舞い上がるほどなのに、売り切れて在庫なしだというミルトス出版の『ハガダー』(ヘブライ語・英語・日本語訳)を開いてラビ様の祈祷を聴くと、何とも心強い気がした次第。
このシナゴーグは保守派だとのことだが、日本滞在のユダヤ共同体の人数そのものが少ないために男女同席で、かなり自由な印象。もっと厳かな雰囲気なのかと想像していたが、実際には明るく陽気で楽しい演出。今回は、セデルに出席した日本人をもてなすために、2009年から日本にいらっしゃるというラビ様(アントニオ・ディジェス氏)が日本の有名な旋律「ふるさと」にヘブライ語の祈祷文をのせて讃美歌アドン・オラムを歌ってくださった。
セデルの儀礼食事の具体については、いろいろな本にも書いてあり、他のサイトでも詳しく説明があるので、そちらをご参照いただきたい。私にとっては、これで晴れて聖書の儀式や食物のこまごました規定の記述が立体的に理解できる機を与えられたことになる。
同じテーブルには、農業関係のイスラエル訪問がきっかけで参加された方、神戸のシナゴーグでもお祭りに参加したことがあるという方、元イスラエル大使の娘さんで東京芸大の美術系教授と結婚された方、ドイツ人のクリスチャンだが、思うところがあってユダヤ教のルーツに興味が出てきたという方、さまざまな背景の方々と話が弾み、とても楽しい有意義な時だった。
パイプス先生には、予め「今夕、日本イスラエル親善協会の会員として、東京のシナゴーグでの過越しの儀式(Passover ceremony)に初めて出席します」と出発前にメールしておいたところ、すぐにお返事が来て「あなたがセデルに出席するなんて、なんて愉快な(cheerful)んだろう」と。それで、帰宅後すぐに報告をしたためた。

確かに3月26日の夕方遅くに出席いたしました。日本在住のユダヤ人と日本人込みで約100人が参加しました。13年ほど前、この同じシナゴーグを短期間訪問し、中を見て回る許可をいただきましたが、そのシナゴーグで保守派のラビ様によるユダヤ祈祷を観察するのは、私にとって初めてのことでした。セデルは大変活気があり楽しいもので、それは私の期待とは異なっていました。ラビ様のおかげで、その雰囲気は私にとって、通常の教会儀式よりも、ずっと良好で快適でした。幾つかの祈祷歌には日本の有名な旋律が使われ、再び私は、ラビ様の親切なおもてなしに感銘を受けました。ハガダーはヘブライ語と英語と日本語訳で書かれていましたが、基本的な内容は、私がかなりなじんでいるようなヘブライ語聖書とその解釈に基づくことに気づきました。私のお隣に座られたミルトス出版の社長さんは、私が先生に常に温かく受け入れられてきたことを喜ばれました。エル・アル機の日本支部の社長さんも兼任されているのだそうです。私もいつかエル・アルに乗ってみたいです!

パイプス先生からは、「報告をありがとう。あなたの経験がよいものであったことがうれしいよ」とお返事が届いた。エルサレムのレヴィ君にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130125)、もっと短縮した報告を書いたところ、「それは楽しそうだね。僕達も自宅でよいセデルの時を過ごしたよ」と。これで、少しは心理的にも近づけたかというところか。
数日後、日本イスラエル親善協会にお礼のメールを書いたところ、「あの場が素晴らしいものになりましたのは、ひとえに、ご参加下さいました会員の皆様のお陰と感謝しております」と。こういう礼節に触れると、申し訳ないが、大学や学会で出会う人々とは、何かが根本的に異なる気がする。

3月27日(水)in 東京
ホテルは赤坂を主人が選んでくれたが、大変に正解で、広くて一人で泊まるにはもったいないような所だった。前日、ミルトス社長の奥様に「え!わざわざ東京まで?」と驚かれたが、実は東京へは用事をかためて来たのだ。国会図書館や聖書図書館でのリサーチ関連の調べ物。ところが、出発前にネット検索で調べてみたところ、実は関西館の方に大半の資料があることが判明。聖書図書館も、後日郵送で複写を依頼すればいいことにして、予定を変更。ミルトス社が靖国神社の近くにあると知っていたので、前日の思いがけない出会いを記念して、故橋本龍太郎首相が建てられたという昭和館大村益次郎銅像がある靖国神社を散策することに。
朝から大雨。私にしては珍しく傘を持たずに来てしまったので、近くの書店で予備の小さな折りたたみ傘を、何かの賞品でいただいた図書カードで購入。案外に私、それほどお金を浪費してはいない。前日の昼食もこの日の朝食も、自宅から持参したパンと野菜ジュースで満足だったから。
無料で入館した昭和館では、まず給食のパネルが目に止まった。昔、国立大学で留学生に教えていた頃、日本の学校給食の簡単な歴史を教材にしたことがあったが、マレーシアのマレー人男性留学生が「給食なんて、貧しい家の子が食べるものであって、自分達には関係がない」と言ってのけたことを思い出す。確かに、日本でも最初の開始理由は、貧困家庭の児童救済が目的で、国民全体の栄養改善と体力向上を目指さなければ、ということだったとは理解していた。しかし、このパネルを見ていると、日本は戦前からかなり洋風混じりのリッチな給食献立が導入されていて、戦時中はすいとんや、運動場で作ったサツマイモなどのおかずで凌いだものの、それでも昭和20年の終戦(敗戦)後や21年辺りには、ララ物資も含めて、予想以上に立派なメニューに切り替わっていた。
そこが、マレーシアの意識とは違うのだと思う。そして、改めて思うに、給食一つ見ても、あの戦争は一体何だったのか、ということ。戦前は古風で貧しい食事のように想像する人がいるかもしれないが、案外に日本人は洋風を導入するのに抵抗感がなく、給食までハイカラな面があったとは、案外な盲点だった。まさに「世界に誇る日本の学校給食」だ。
図書館で何冊かの雑誌に目を通し、ざっと本棚を眺めた後は、昭和20年、21年のGHQフィルムを何本か見た。ちょうど父のすぐ下の妹に当たる叔母が、葬儀の時に「兄とは一緒に岐阜に疎開していたからねぇ。妹達は違うけど」と私に言われたので、その思い出としても見ておこうと。グアム島から東京へ飛行して空襲するB29、大阪空襲後の焼け野原の様子、そして長崎原爆(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)を上空から映した映像、極めつけは、空襲を免れた日本家屋と寺社が整然と並ぶ京都ののどかさ。特に、小紋のような木綿の着物を着た母娘が歩いて知り合いの家を訪問する場面が印象的だった。もちろん、カメラをチラチラと目で意識しているので、一種のやらせでもあるのだろうが、大阪では一面焼け野原の心斎橋辺りで、リヤカーを引いてとぼとぼと歩いて荷物を運んでいる人の光景と、東日本大震災のように、ぽつんと残っている家が点在している情景とのあまりの対照に、何とも言えない衝撃を受けた。
ちょうどあの心斎橋は、主人の父方の祖父が家具店を開いていた場所だった。あのまま何も発生しなければ、財産を失うこともなく、ゼロから生活を立て直す必要もなかったばかりか、土地の資産としても相当な額になっていたかと思う。それでも、主人の家の人々はアメリカに文句も一切言わず、主人を東海岸の大学へ留学のために送り出したのだった。これが敗戦国の立場である。
結構、疲労感を伴う映像であり、眠気も襲ってきたので、他の資料はさっと目を通すのみで終了。
その後は、靖国神社へ。戦後の価値観から右翼だとか何とか理屈をつける人々も世の中にはいるが、一方で、世界各国の要人が宗教の違いを超えて参拝してくださっているとも聞く。また、あの戦いで命を落とした人々が、家族以外に世から忘れ去られるとするならば、単なる無駄死にだったことを意味することになり、これほど虚無感やるかたないことはないだろう。つまり、死による忘却があるとすれば、ひいては自分達の人生をも現世をも軽視することになるのだ。だから、葬儀は生きている人のためのもの、という人類学の知見は、その意味ではまんざら間違いでもないかと思う。ただし、生きている人のためのみならず、やはり弔いが優先されることは言うまでもない。
ちょうど桜が満開で、雨降りにも関わらず、屋台がたくさん並び、人出も多かった。皇后陛下硫黄島で詠まれた御歌が記された説明書もいただいてきた。改めて、都内に位置する神社としては、広大な敷地で金の菊の紋章のある立派な神社だと思った。
かなり疲れたので、お土産に桜せんべいを二袋購入。南青山まで出かけ、コーヒー店で一服。新たにできたというバイブル・ハウスを見てみたかったからだが、都心らしく、こぢんまりとしたお店で、特に目新しいもの、購入意欲をそそるような本も商品もなかったのが残念だった。キリスト教書店の将来、今後は一体どうなるのだろう?世間のニーズをよくキャッチする必要があるのではないか?
赤坂のホテルに早めに戻り、預けてあったスーツケースをもらって東京駅へ。指定席を予約してあったが、山手線の上野駅で人身事故があり、全線不通だとの連絡があったこともあり、帰れるうちに早めに京都へ帰ろう、と。主人の帰宅よりは早く家に着きたいから、自由席で我慢することにして、1時間以上早く、帰りののぞみに乗り込んだ。
幸い、座ることができ、最終バスにも間に合い、自宅に到着してから主人から電話がかかってきたので、何事も全ては良きに計らえ、我ながらグッド・タイミングだった。

3月28日(木)in 神戸
午後からは、久しぶりに神戸バイブル・ハウスへ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110224)。ユダヤ学がご専門のT先生が講師だということは、チラシを見て以前から知っていたが、いろいろと都合がつかず、4回目だという今回だけ出席。学会の方も昨年は失礼していたので、ご挨拶だけでもと思って出かけることを決心したが、パワーポイントが充実していて、資料も興味深く、ちょうどペサハとセデルに関して、聖書記述に基づいた解説だったのがよかった。休憩時間にご挨拶を。そして、質疑応答では、一般人としての基本的な質問を。
帰りにはリュックを背負ってさっさと帰途に向かわれる先生を走って追っかけて、三宮駅までお話しながらご一緒させていただいた。
セデルの経験を一度すると、聖書が立体的に理解できるようになるという点で意見が一致したのがよかった上、かつて立場は異なるものの、同じ職場で研究会に何度も同席させていただき、いろいろとお世話にもなっていたので、あれから数年経ち、先生にとっても残念だったな、と少し思う。ただ、学問に対する姿勢は相変わらず燃えさかっていらして、さすがはユダヤ人の先生について学ばれた生き字引のような確証を。
また、私にも「学会で発表を出してください」ともおっしゃり、「合宿も参加してください」と。このようなお声がけがあるかどうかで、こちらの一歩が違うので、やはり人間関係は大切だと思う。それに、イスラーム主義に対する考え方も、パイプス先生と全く一致していたばかりか、シオニズムに関して西岸(ユダヤサマリア)も信仰的にはイスラエルの地であるとおっしゃった点、まるでパイプス路線を地で行くような会話だったのがうれしかった。「あの国名をイスラエルにした、というところが凄いな」とも。
それに、本当に久しぶりに、私の本来の研究テーマであるマレー語聖書やマレー人の定義についてなども、T先生みずから話題を振り向けてくださってありがたかった。「マレー語で聖書を読むと、キリスト教は中東由来だってわかります。アラビア語の聖書と似ているんです。でも、キリスト教系の学会で発表すると、マレー語は単純な言語だという思い込みが先生方の間にあり、ご自分達の方が西洋由来の上等な研究をしているという雰囲気があって、なかなか通じないんです」と申し上げたら、そのまま受け止めてくださった。こういう会話ができる限り、私も一応は研究者であり、先生はやはり学者なのだと思う。

3月29日(金)at 自宅
さすがに、物理的な時間としては緩やかな予定であったものの、この濃厚だった一週間の疲労感はバカにならなかった。一日ゆっくりと休息。2001年から2008年上旬まで父と交わした37通のメールを検索して印刷。
いつの間にか、自分でも書いた内容をすっかり忘れていたが、父は父なりに、病気になったことで私に負担をかけまいとして気を遣っていたことが、今ではよくわかる。私達の世代ならば、社会福祉制度がせっかく存在するのであれば、ありがたく有効活用していくのも、制度を勝ち取るために尽力した先輩方の恩に報いるために必要である上、生活の質を少しでも維持し、金銭的にも心理的にも安定するならばと前向きに考えるのだが、父の世代は、猛烈社員としてあれだけ勤勉に働いていたのに、社会の公金を使うことが自立を削ぎ、何か恥ずかしいことのように考えていたようで、どうも高価な薬代をかなり自分で支払っていたらしい。また、私が勧めた患者友の会も、せっかくだからと挨拶までして、旅行にも参加してくれたようだ。
妹や弟はメールを出さず、私だけが書いていたと記されてあるので、もしかしたら知らなかったかもしれない親の姿を思い出すよすがにでもなればと、メール交換の一部を印刷複写して、手紙を送った。電話とは違い、文字が残るというのは、たとえ電子メールであってもいいものだと思う。

3月30日(日)at 自宅
主人が登録しておいてくれたイラン革命のドキュメンタリー風映画を見る。またもや、パイプス路線。すっかり二人とも夢中になって、いろいろと視野を広げている。私が頼んだのではなく、訳業の傍らパイプス先生の話をしているので、主人も興味を持つようになり、自分で選んで購入したようだ。
故オリアナ・ファラチのインタビュー集を読んでいたら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130319)、パーレビー国王時代に、イランは文盲率が75パーセントだとの言及があった(p.158)。私にとってのイランは、まずはペルシャ文学やペルセポリスの文明(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080131)や聖書に出てくるキュロス王なのだが、あまりにも一部の高等文化だけを日本に紹介することは誤りだ。だからこそ、極端から極端へ走る現代イラン社会の本質を正確に観察し分析することが、大学レベルで失敗しているのではないか、と私は思う。ひいては、それが外交政策にも負の影響を及ぼしているのかもしれないのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130112)。
その意味で、米国大使館が占拠されて人質となったイラン革命で、大使館員6名を救出するためにCIAの一人の勇敢な男性が、実に奇抜で冷静な戦略を練り、見事成功したという映画の筋書きは、それなりに説得力を持つ。
本を読むだけではなく、たまには映画を見ることも必要だ。
(この項終わり)