ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ラビン首相暗殺の二十年後に

シオンとの架け橋(http://www.zion-jpn.or.jp


2015年 11月1日(日)


*土曜夜にテルアビブのラビン広場で、ラビン首相暗殺から20年の記念式典が行われ、当時の米大統領だったクリントン氏も来賓として講演。平和の道を選ぶように、イスラエル国民に呼びかけた。(H,P,Y)


*ベエルシバで1917年の激戦を記念する行事。オーストラリアとトルコの大使館がベエルシバ市と共に主催し、関係国の代表を招いた。オーストラリア軽騎兵隊の活躍は、戦争の流れを変えた。(P)

(部分抜粋引用終)
上記の二つのニュースに関しては、今年春のイスラエル旅行で現地を訪れたので、身近に感じる。
1.ラビン広場には、時差調節のため一足先に近くの中流ホテルに到着し、半日休んだ後、4月24日に一人で出かけた。バリー・ルビン先生のお墓参り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150830)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151023)で利用したタクシー運転手のおじさんが、「他にどこに行きたいか?」と尋ねてくれたので、ホテルでいただいたパンフレットを広げ、「ラビン広場って、ここから遠いでしょうか」と尋ねると、「いや、遠くはない。○○シェケルだ」と、お勧めスポットとして早速、喜んで連れて行ってくれたのだった。よい運転手さんで助かった。
ラビン広場といっても、暗殺当時のフィルムや記念式典の映像を見る限りでは広そうでも、平日に訪れると、実際には(え?ここがあの世界が注目した場所なの?)と一瞬拍子抜けするほど狭い場所で、イスラエルらしく、ごたごた飾り立てたりしない、あたかも普段着姿のままだった。もちろん、白いお花が四本、現場に作られた黒い石に寝かせてお供えしてあり、近くの壁や柱には、殺害状況の説明が、淡々と過不足なく刻み込まれていた。
向かい側の壁には、スプレーで描いた変な落書きが派手に目立っていた。また、すぐそばには少し古びた感じのショッピングモールが建っていたが、中をブラブラ覗いてみると、水着にしろ、女性用の下着にしろ、ワンピースやスカートなどにしろ、化粧品も含めて、日本の方が遙かに洗練されて垢抜けしていると思った。食料品売り場では、イギリスやフランスやアメリカで見たような食材が並んでいて、干果物や麺類や香辛料などが豊富だった。
モール前では、あたかもマレーシアのカンティーンかと間違うほど、似たような中東風の煮込み料理や炒めものなどのお総菜が、アルミかステンレス製の四角い容器にたっぷりと並べて売られていた。
ラビン首相の悲劇的なシーンと、この垢抜けない普段着スーパーの取り合わせが、何となく意外だった。テル・アヴィヴと言えば、「イスラエルのニューヨーク」を目指すのだという建国当時の指導者の意志表明を、町沿いを歩いていた時にプレートで見かけたが(確かにカメラのシャッターを押した記憶があるのに、写真に撮れていなかったのが残念)、この実態は、現場を訪れてみなければわからないことだと思う。
ただし、そこから海岸方面に向かって少し歩くと、確かに建物に囲まれた広場があり、恐らく私が以前、フィルムで見たのは、こちらだろうと思われた。蝋燭を持ってヘブライ語の歌を歌いながら、和平を祈る集会だった。その直後に、ラビン首相は暗殺されたのだった。
自宅には、孫娘さんのノア・ベンアルツィ・ペロソフさんが書いた『悲しみと希望』(In the Name of Sorrow and Hope)(石坂廬(訳)ミルトス発行 2013年10月10日初版)がある。
一方、ラビン首相の葬儀で、アメリカでは、ダニエル・パイプス先生がCNNテレビでコメントを出していたのだった(http://www.danielpipes.org/4255/text-of-israeli-prime-minister-yitzhak-rabins-funeral)。
そのパイプス先生と、4月26日以降、5月5日までイスラエルをご一緒することになったのは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)、今から考えても信じられないほど不思議な成り行きである。もちろん、ラビン広場で撮った写真も、後でお送りした。
2.ベエル・シェバ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140614)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150812)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150821)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151020)の兵士記念公園には、4月末にパイプス旅団と訪れた。
イスラエルは、アメリカとの外交関係のみが云々されやすいが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120803)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120807)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151027)、オーストラリア兵士の活躍を誇り高く顕彰している広い公園で、オーストラリア出身の旅行メンバーが嬉しそうに記念写真を撮っていた姿に間近に触れ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150823)、視野をもっと広げなければと痛感した次第。ついでながら、テル・アヴィヴを旅の前後に一人で歩き回っていた時、カナダからも相当の支援がイスラエルにあったことを感謝し、記念するプレートを見つけ、改めて感じ入った次第。
だから、今回の旅も、アメリカ、カナダ、オーストラリアの出身者が集合したというわけである。