ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中東の旅

しばらくご無沙汰しておりました。
実は4月22日から5月8日まで、中東に行っておりました。中東といっても、イスラエルの南部を中心に、ヨルダンとトルコが少し追加された旅です。
例によってコクヨの小さなメモ帳を十数冊準備して(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140613)、一日一冊以上を書きつぶしながら、B5のクリアファイルに挟み込んだペンと旅程表と地図を片手に、灼熱の砂漠と都市部を移動する日々でした。パスポートとお財布とカメラとiPhoneとウェットティッシュとハンカチを入れたウエストポーチを巻き付けて身軽な体勢に。とはいえ、インフォーマルな場所から宗教施設(神殿の丘)や大学(ベングリオン大学・ヘブライ大学)や国会(クネセト)などのフォーマルな場所に行くことになっても充分に対処可能な服装を工夫し、色とデザインを組み合わせて、何とか無事、旅程全体を乗り切りました。
ともかく、異国での旅は、健康第一(睡眠確保と熱を通した野菜中心の控えめな食事と充分な水分補給)と時間厳守とガイドさんの指示に従うことが要諦。それ以外は、自分の明確な参加目的を忠実に遵守し、それこそ勝手に和を乱すことのないよう、心がけた毎日でした。そして、自分からも、積極的に質問したり、いろいろな方達と食事の席についたりして、一期一会の機会を最大限活用し、楽しみました。
現在の四ヶ国関係(①今回の旅行参加者は、半数が米国、残り半数がカナダ、オーストラリア出身で、いずれも日本とは良好な関係 ②イスラエル、ヨルダン、トルコと日本の友好的な外交関係)のお陰で、日本に行ったことのある人々や日本文化が好きだと伝えてくださる方も少なくなく、温かく受け入れられ、いろいろと親切にしていただきました。
まだ、帰国して三日目。気候の差違が激しく、環境も全く異なる穏やかで安定した日本に戻り、やはり自分が本流の日本人であること、日本のありがたさ、第二次世界大戦後の70年間の日本の歩みあってこそ、その恩恵に与っているからこそ、自分がこうして過ごせたことを、つくづくありがたく思う次第です。
特に、旅の半ばで、実にタイミング良く、安倍総理が米国議会で演説され、それが非常に喝采を浴びたことは、英語圏アメリカ・カナダ・オーストラリア)の旅行グループのメンバー35人中、唯一の日本人であった私にとって、実に感謝なことでした。その上、そのニュースを朝食の席で教えてくださり、「私、アベに賛成よ。日本はそうでなきゃ」とまで支持してくださったオーストラリアの元ジャーナリスト女性と旅を共にできたことも幸いでした。
日本が今後憲法を改正し、日米同盟をさらに強化した上で軍事力を高めていく方向性については、アメリカの投資家のおじ様も「それはいい。気に入った」と即座に賛同を示されました。
このように、私一人の力では到底及ばない、さまざまな好機と幸いに恵まれ、非常に貴重で忘れられない人生の一コマとなりました。
エルサレムマサダ以外は、初めての場所ばかりだったにも関わらず、また、全行程中、英語(とヘブライ語と一部アラビア語)のみに浸っての生活だったにも関わらず、正直なところ、旅の疲労感は、従来から慣れているはずのマレーシア帰国後とは比較にならないほど、とても楽です。疲れとは、中東の地中海および砂漠の気候と温暖な日本気候の差違および時差からくる体の適応の違いに過ぎません。知的精神的には非常に濃厚で深い経験だったにも関わらず、とても刺激的で、充分、今後の私の歩みに指針を与える内容だったために、むしろ若返ったかのような充溢した気分です。
それこそが、ユダヤ精神なのだろうと思います。
今回の旅は、昨年4月に参加させていただいた中東フォーラム二十周年記念の直後に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140625)、ダニエル・パイプス先生が公表された企画によるものです。あの後、おずおずと遠慮がちながらも、実に積極的かつ巧みなお誘いをいただき(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)、主人と相談の上、今年2月下旬の締め切り直前になって、私自身で参加を決断いたしました。
訳者とは、単に横のものを縦に直す作業だけでは不足です。最近は、翻訳言語の多さを競う風潮ができ、安易な機械翻訳やプロの訳者以下の素人翻訳者が世界的に増加してきましたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130524)、実に嘆かわしいことです。
パイプス先生の場合、特に辛辣で意地悪な批判が昔から多く(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)、日本側にとっても、相当な文化距離やギャップがあるからこそ、思いがけないことに、先方から翻訳を依頼されて二ヶ月間も逡巡の上、何とか決意してお受けした以上は、執筆者の背景や人となりをできる限り幅広く知り、その発想や行動の源泉を理解し、各著述と発話の意図を充分に汲み取り、各文脈を正確に把握する作業が不可決です。あれほど頻繁に国内外(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドイスラエル、フランス、アラブ、イラン、トルコ)のメディアに登場され、大量に執筆され、めまぐるしく地球を飛び回っていらっしゃる日々の中で、どのように正確に彼の執筆意図と戦略概念を理解することができるかが、訳業四年目に入った私の課題でした。ご多忙に加え、文字に依存するだけのメール交信では限界のあった部分を、今回初めて、10日間の旅を英語圏の35名の方々と共に過ごすことで、かなり補い、理解を深めることができたかと思っています。
私自身は、このブログ上で、差し障りのない範囲内で、パイプス先生のお仕事に関して、日本の一般読者に向けて、できる限りの説明と私自身の理解や解釈を綴り、不必要な誤解やトラブルを作らないように努めてきました。そのことは、今回の旅行グループでも、求められれば名刺でブログを紹介し、公明正大にしてきたつもりです。
最初は、怪訝そうな表情だったおじ様おば様方も、さり気なくさまざまな質問で私の素性に探りを入れ、旅の間、じっと私の行動を観察しつつ、最後には身元が判明して安心されたようで、すっかり打ち解けて仲良くなりました。
当然の警戒だろうとは思いましたので、問われるままに、事実に沿って、あるがままをお答えしました。ここのブログでも公開してきた内容を、繰り返したまでです。
主人が日本の大学で修士を授与された後、1990年代初期に企業派遣でMITで二年間勉強させていただいたこと、その後、ニュージャージーでも研究所を立ち上げて、ユダヤ系を含むエンジニアを採用して業務を展開したこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131216)。帰国後から今に至るまで、元の日本企業に勤務していること。私自身は、修士課程修了後に日本政府のプログラムでマレーシアに派遣されたことがきっかけで、まさにパイプス先生達の動向に沿ったリサーチ研究を主に一人で続けてきたこと。日本の大学でマレーシアに関して教えるよう依頼されたが、二年後に日本人のイスラミスト教授から辞めさせられたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)。そのイスラミスト教授は、ISIS関連で、昨秋から日本でもメディア出演をしていたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141019)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150401)。今は左傾化した大学とは距離を置いているが、昨年はハートフォード神学校やイェール大学でも文献調査をしたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)。知り合ったきっかけは、2012年1月に、パイプス先生が私の英語ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120113)をご自身のブログに引用されたこと(http://www.danielpipes.org/blog/2007/09/john-esposito-and-me)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)。翌日すぐに私がお礼状を送り、ペンフレンドのようになって三週間後、パイプス先生の方から日本語訳を依頼されたこと。初めは戸惑い(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120330)、二ヶ月間考えた上で、お受けしたこと。旅に参加した目的は、中東の専門家ではないので、もっといい訳文を作るために著者の背景や著述の文脈を知る必要があること。中東は日本から遠くて、理解が難しいために、現地を訪れることが重要であるが、日本の旅行団では機会が少なく、片寄りがあること。日本のイスラエル理解については二手に分かれており、親パレスチナ寄りのメディアやジャーナリストや研究者や一部のキリスト教関係者やNGO関係者もいること。反対に、親イスラエル派のクリスチャンには、聖書学の研究者や情熱的な全面賛美者も含まれること。大抵の日本人にとっては戦争の多い遠方の国という印象だが、日本と生活水準がほぼ同じであることを理解しており、特に国防やダイヤモンド産業やハイテク分野では、ユダヤ系の能力の高さを素直に賞賛していること。ホロコーストの中、日本人外交官の杉原千畝氏のように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120416)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130203)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130510)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130907)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140802)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150311)、ユダヤ人にビザを発行して助けたり、敦賀や神戸の市井の人々のように、言葉は通じなくてもユダヤ人を受け入れようとした事例を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)、普通の日本人は誇りに思っていること。日本には、東京と神戸にシナゴーグがあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140802)、日本に在住するユダヤ系は約2000人と少ないこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130405)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130927)。私のイスラエル訪問は二度目で、8年前の初回は主に北方であったこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070725)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070919)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120309)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120321)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121117)。昨年4月には中東フォーラム二十周年記念でニューヨーク市を訪れ、パイプス先生とお目にかかったのは今回が二度目であること、等々。
これらを随時、求められるままに説明したところ、「素晴らしいわ!」「あなたって、とってもいい訳者ね!」「あなたは特別な人よ!」「これからも訳文ができるのを楽しみにしているよ!」と大歓迎されました。

アメリカに二度しか行ったことのない私が、どのようにすぐに皆に溶け込み、親切にしてもらい、楽しそうにしているか、どのように旅に付加要素を有していたかには、パイプス先生も印象づけられたと書き送ってくださいました。英語に関しては、「パーフェクトだ」と太鼓判を。私自身、実は英語には全く困ることなく、講演やプレゼンなど、周囲の会話も含めて85パーセント以上は問題なく聞き取り、メモを取り、理解できたと思っています。
そして、私にとっては、自分で立ち上げたシンクタンクを率いる、高度に知的で有能で経験豊かな中東専門家としてのダニエル・パイプス博士の優れた資質と勤勉な仕事ぶりと戦略性には、本当に敬服し、日本では久しく味わえなかった心地よい知的刺激を味わわせていただきました。しかし、旅とは人の本性が現れるもの。ここだけの話ですが、素顔のパイプス先生は、相変わらず皮肉屋でパンチの効いた辛口コメントを適度に発散させながらも、実はとてもはにかみ屋で内気で温かい心根の持ち主で、人付き合い(特に対女性)は、私から見てもちょっと不器用。2012年当初の見立て通り、やっぱり「かわいいおじさま学者パイピシュ先生」でした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140731)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140802)。皆がわいわい一緒にテーブルで食事している中、時々、一人ぽつんとモグモグ食べていることがあり、その姿は、白髪がとみに増えた今でも、何だかかわいかったです。砂漠が好きだという理由も、恐らく本音はこういうところにあるのではないでしょうか。
日本は、西洋ではないけれども、明治以降、西側陣営に属すことを選択しつつ、第二次世界大戦後の数年を除き、厳然と独立とオリジナリティと現代先進性を保持してきました。現在のムスリム移民問題イスラームとの対峙についても、知的には西側に属しつつ、対応としては欧米および中東の双方の問題点を正確に理解し、把握した上で、同じ問題を日本国内に持ち込むことを断固回避する方向性を取るべきではないかと思います。そのためには、欧米と協調しながらも、むしろ欧米を上回る賢明な対策を練ることが妥当だろうと思います。その柔軟性と適応性と相互補完性が、日本人の知的独自性の発揮の場であり、世界から信頼され、好感を持たれる秘訣だろうと思うのです。
この旅でうまく対処するために、2月から4月上旬にかけて訳文提出を休み(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150318)、このブログで、アメリカ動向や日米関係や日本の中東理解の問題点について書き綴ってきたことが大変役立ちました。英語圏の西洋人の中で唯一の日本人として参加した私の矜恃と内的自信は、過去数年の鹿児島(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150209)や山口(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140723)や会津http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140519)などへの国内旅行で再確認し、培われたものです。そして、知的側面では、十代後半から二十代半ばにかけて、ドイツ語やアラビア語を含むマレー語を習得していたことが助けになりました。ユダヤ教ユダヤ精神への共感的理解については、子ども時代からのクラシック音楽への親しみと19歳からの聖書読み、および研究学会や講演会、聖書学やキリスト教の文献、普段の読書が非常に支えとなりました。
それに加えて、父方の大叔父が、第二次世界大戦中に、中国人を殺害したのではなく、医学教授として中国人の目を治療していたのみならず(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150215)、戦後は信州でアラブ友好協会を立ち上げていたという経緯(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150217)、母方の祖父も戦時中は国内勤務であり、旧制中学を卒業していた上に地主家系だったので、配属部署としては食糧不足を経験しなかったこと、主人の母方家系も土地所有者の士族だったので、戦後の農地改革の被害者ではあっても、特に中国やアメリカに対して攻撃を仕掛けた側ではなかったことなどが、西洋人に対して私が全く臆する理由のなかった次第です。
明日以降、荷物を片付けつつ、順次、旅の思い出と感想を綴っていく予定です。