ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(1)

2007年11月2日付「ユーリの部屋」で触れた教文館メールマガジンが、今日も届きました。繰り返しになりますが、宣伝がてら、その一部を以下に複写いたします(ただし、私は教文館の回し者ではありません、念のため)。

◆『前田護郎選集1−聖書の思想と言語−』前田 護郎/著 教文館出版部刊
 聖書学、とりわけ新約学を西洋古典学の一部門としてわが国に導入した第一人者として、佐竹明、八木誠一、荒井献など日本を代表する多くの新約聖書学者を育て、他方、無教会伝道者・説教者として日曜聖書講座(世田谷聖書会・現経堂聖書会)を主宰した聖書学者の業績の集大成。(全4巻+別冊1巻、責任編集:山下幸夫・新井明・月本昭男)第1巻では彼の多くの著作の中から、聖書の思想と言語に関わる文章を21編収録する。

遡ること2007年7月6日付「ユーリの部屋」で少しご紹介した‘聖書版あしながおじさま’が、2006年10月下旬にダンボール箱で送ってくださったものの一部が、故前田護郎先生の『聖書愛読−ひとり学ぶ友に−』シリーズの計16冊です。時事的な話題と聖書学的なお話がとてもおもしろく、いたるところで強い感銘を受け、夢中になって毎日のように読みました。こういう先生が私と同郷でいらしたこともさることながら、ご多忙の中、時間を割いて冊子を書き続けてくださったことを、心より感謝しています。
‘聖書版あしながおじさま’は、お孫さんもいらっしゃる無教会の方で東京在住です。まだお目にかかったことはありませんが、ある経緯を通して私の教会探しやら聖書学上の悩みやらを気に掛け、どっさりとご蔵書を分けてくださったのです。その時以来、私の心に微かではあるけれども確実な灯火がともり、安定して日々を送れるようになりました。キリスト教といっても、的外れな発言をする訓練不足の指導者に当たると、当事者をひどく路頭に迷わせることになります。しかし、的確な師と出会うならば、これほど力強い前進の助けになるものはありません。そういう意味で、前田護郎先生の謦咳に接して聖書の学びを続けられた‘あしながおじさま’の親切なお心遣いは、私にとって望外の喜びでした。
一人一人の力は小さくとも、その人の誠実な働きのために周囲に光が点るなら、貴重な一歩となります。‘あしながおじさま’の場合も、お仕事で非常に難しい立場にあられた時、聖書を開いてよく祈ってから出勤され、勇気を出して事に当たられたところ、思いがけず事態がよい方向に進展したとの証をされていました。組織の行く末を大きく左右する問題であったため、神に感謝したとのことでした。
こういう話は、昔からとても大事な人生上の心得と考え、自分でも実践したいと思う私ですが、学生の頃ならいざしらず、今のように多様な価値観が混在する状況を一端知ってしまうと、個々の判断に苦しむことも多々あります。けれども、そんな時に『聖書愛読』を読めば、大きな慰めや指針が与えられるのが不思議です。当時、先生が書き記された話題が今でも世界情勢や聖書学やキリスト教界などにおいて続いている節が見られるところに、新鮮な発見があり、とても興味深いです。
聖書愛読』は1964年(昭和39年)1月に創刊され、1980年(昭和55年)2月号で惜しくも終刊となっています。先生ご自身はお続けになりたかったのだろうと思いますが、突然のご病気であっという間に逝去されてしまったそうです。戦時下のヨーロッパ滞在や大学紛争など、長年のお疲れがたまっていらしたのでしょうか。
とりあえず、今日のところは、私の研究テーマと関わる文章を一部抜き書きしてみましょう。

・第7号 1964年(昭和39年)7月 「書斎だより」(p.16)
二宮のアカデミーでアジアの教授たちの会に出席。回教圏の其(ママ)大学長がわたくしの両肩を手で圧えて、あなたの国ではこのような圧迫を感じないでしょうといった。(5月29日)

・第112号 1973年(昭和48年)4月 「書斎だより」(p.14)
オリエント学会に出席したところ、教養あるアラブ人から中近東の状況を切々と訴えられた。日本人も気をつけないと石油が来なくなるかもしれない。(11月19日,日曜)

・第127号 1974年(昭和49年)7月 「書斎だより」(p.7)
東南アジアの学生4人をわが家に迎えた。回教徒の盛上がりに対して少数党のキリスト教徒としての共通の悩みを訴えられ、日本人として何をなすべきかをあらためて考えさせられた。(2月13日)
・第129号 1974年(昭和49年)9月 「アフリカ・ヨーロッパ通信1974(Ⅱ)」(p.5)
砂漠の国へ来て、白衣のイスラム教徒に接しますと、きびしい風土とたたかう彼らに同情させられます。彼らが失地回復を目ざしていわゆる先進国と対決しようとするので、昨秋来の石油危機はほんのその一部にすぎません。巻きぞえを食った日本のやり方もどうかと思われます。
・第130号 1974年(昭和49年)10月 「アフリカ・ヨーロッパ通信1974(Ⅲ)」(p.9)
床につく前に机をかたづけていますと、一昨日着いたときにもらった回教徒からの招待状が出てきました。ガーナ大学モスク新築計画についての会合があったのです。到着早々なのでそのままにしておいたのですが、これは根強い回教徒の動きの一部であることがわかってきました。太西洋(ママ)から印度洋を経て太平洋の南にいたる広い地域にのびているイスラム失地回復運動は、これからもますます盛んになるでしょう。政治と宗教の結びついたこの強力な動きにキリスト教徒がどう対応するか−これはいわゆる教会の行きづまりと世界平和の危機にかかわる重大な問題で、今度の会議の底流のひとつをなしているのです。
・第150号 1976年(昭和51年)6月「ヨーロッパ古来の伝統と現代(下)」(p.7-8)
ここでアラブのことを歴史に遡って考えてみましょう。(中略)碑文等の資料によれば紀元前1000年ごろから砂漠地方にメネア人やサバ(シバ)人がいて、これらもアラブ人の一部であったとされています。(中略)アラブのことは預言書(イザヤ21:13以下、エレミヤ25:24など)にも出ます。ネヘミア記(6:1など)ではアラブが敵視されています。アラブ人は紀元前400年ごろからナバテヤ王国を建設して数世紀の間活躍しました。パウロはナバテヤのアレタ王のことに触れています(Ⅱコリント11:32)。アレクサンドロス大王の進軍やローマ帝国の拡大もアラブ地域の制服という面があります。
このようにアラブと西方との対立はアラブの先祖が砂漠に追われたと伝えられる段階からであり、沃地に勢力を築いたイスラエルにせよ、ギリシア・ローマにせよ、後のキリスト教徒にせよ、砂漠的な地域に住むアラブ人が対決したのであります。このことは今日までもいろいろな形で続いていることであります。
アラブの勢力が強大になったのは紀元前(ママ)6世紀におけるマホメットの出現によるイスラームの成立以来であります。イスラームはアラブ人以外にも伝わってアラブを強化したのであります。(中略)イスラームは西は大西洋岸から東はフィリピンまでの広い地域に3億の信徒を有する一大勢力でありまして、さらに広く拡大することを企てております。(中略)その経典コーランには聖書が取り入れられておりまして、モーセやイエス預言者とされていますが、十字架上死したイエスの贖罪は受け入れられていません。イスラームは三位一体論も拒否しています。現代が第2の中世であるといわれるのは、ヨーロッパの一体性とともに、キリスト教徒の多いヨーロッパとイスラームを中心とする世界との対立関係に中世と似た点があるからでもあります。
石油危機などアラブの諸問題もこのような歴史をふまえて観察すべきであります。砂漠的なアラブ圏と沃地的なヨーロッパという風土的条件は変わりませんが、植民地帝国主義を精算し、平和と協調のうちに相互の繁栄を築くことが、現代のヨーロッパ人多数の願望であるといえます。
・第163号 1977年(昭和52年)7月「書斎だより」(p.16)
大正大での講義のとき、イスラム教徒は他宗教の偶像を攻撃するけれども、モスクという建物やメッカという町が偶像化されていないか、といったら驚いた学生がいた。(1月10日)
・第170号 1978年(昭和53年) 2月「インド・タイ通信 1977 (Ⅴ)」(p.5)
(ユーリ注:インドのバンガロールにある南インド連合神学大学での話)無事に公開講演を終えた安心感と、元気で親切な学生たちと近しくなれたよろこびとで時がどんどん過ぎてゆきました。学問のこと、時局のこと、アジアの諸宗教、ことにイスラムの進出などについての若い世代の夢と現実に接しえたと思います。

(引用終)

今日はこの辺にとどめます。また折をみて、印象的、示唆的、奨励的な箇所をご紹介したいと思います。今、文系の関連分野で科研費やCOEの莫大な費用(私達の税金!)を使ってなされている議論や研究の萌芽的な点は、基本的にこの『聖書愛読』誌上でほぼ網羅されています。驚くべき慧眼というべきなのか、昨今の研究がいかに先行研究を無視しているかというべきなのか、私にはわかりません。いずれにしても、今後をどうぞお楽しみに!