ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アラブのキリスト教とマレーシア

以下は、2003年に書きかけて、結論に至らないまま放置してあった下書き原稿です。(ユーリ)

「アラブのキリスト教とマレーシアのクリスチャン
――ムスリムとの共存過程における比較――」
 (2003.4.2.− 未完原稿)
  これは、マレーシアのキリスト教会におけるマレー(シア)語使用問題をリサーチする中で、派生的に関心を寄せたテーマである。しかしそのルーツを辿れば、確か高校生の頃、家の本棚にあった新約聖書のページのそこかしこに、「エジプト」「シリアのアンティオキア」「アラビア」「メソポタミア」など、学校やマスメディアで教わった「西洋のキリスト教」のイメージとは程遠い地名を見出し、なぜ公教育ではこちらの方を教えないのだろう、と素朴な疑問を抱いた経験に由っている。それが、後年思いがけずマレーシア滞在の機会に恵まれたことで、ささやかな一考察へと結びついたわけである。
  文末に挙げた二冊の文献の記述によれば、アラブのキリスト教は、一種悲劇的な存在であるようだ。新約聖書に基づく使徒伝承のキリスト教信仰を維持し、イスラームの始まる6世紀も前から存続していたにも拘わらず、神学論争で主流を占めることができず、イスラームが興った後には、最終の完成された宗教であるイスラームを受け入れないために、ムスリムの政治的覇権の下で、少数派集団のズィンミー(庇護民)として常に劣勢に位置づけされた《1》。また、ムスリム支配下で、使用するアラビア語クルアーンに基づいた正規のアラビア語ではないという理由で蔑まれた《2》。シリア語ギリシャ語などの文献をアラビア語に翻訳し、アラブ文化の発展に尽くした人々の中には、これらズィンミーのクリスチャンが少なからず存在したにもかかわらずである。しかもアラブ名とアラブ文化を有しているが故に、外部者からムスリムだと誤解されたり、西洋のキリスト者から正当なクリスチャンではないと批判されたりもした。キリスト教会の一部からは、ムスリムへのキリスト教宣教・改宗活動に積極的ではないとまで非難されたこともある《3》。このように、十数世紀以上も、ジレンマとストレスのうちに生き抜いてきた人々がアラブ系クリスチャンなのである。
  日本語訳の文献には、次のようなエピソードが記されている。聖地旅行の西欧人が「あなたはキリスト教徒なのですか。いつから改宗したのですか」とアラブのクリスチャンに好奇のまなざしで尋ねる。問われた方は、痛みと怒りさえ含んだ回答を投げ返す。「私の家族は、そもそもの初めからキリスト教徒です。あなたの方こそ、いつ改宗したのですか」《4》。

  筆者は、アラブ系クリスチャンに直接出会ったことがまだなく、これらの文献に記されていることが果たして事実なのかどうかは判断できない。しかし、もし事実相当ならば、西洋のイスラーム誤謬を晴らすべく日本で喧伝されている「イスラームの寛容」とは、どのような状態を指しているのか再考を迫られることにもなる。ムスリム側が差し出す「寛容」に対し、イスラーム圏に在住のキリスト教ユダヤ教集団側がどのように受け止めているのか、という視点は重要である。換言すれば、「イスラームの寛容」が、① ムスリム共同体 ② イスラーム圏内のキリスト教ユダヤ教共同体 ③ イスラーム圏内の「啓典の民」以外の非ムスリム ④ 非イスラーム圏の非ムスリム、の各集団にとって、どのような理論的概念と実際を伴うのかという点について、それぞれ分けて理解することが必要なのではないだろうか。
  クリスチャンとムスリムの関係は、本人が望むと望まずとに関わらず、非常に込み入ったものである。神学的にも心理的にも社会的にも、歴史的経緯の克服の点でも、頭で考えるほど容易なものではない。特に、双方の当事者にとってはやっかいな難題が山積みである。
  しかし筆者は、この文献を読み進めていくうちに、まるでこれはマレーシアのキリスト教組織が抱えている問題の構図に類似した面があるのではないかとさえ感じたのである。例えば、知り合いを通じて耳にしたババ・ニョニャあるいはババ華人のクリスチャンの事例を挙げてみよう。一人はカトリック、もう一人はメソディストの女性達である。二人とも、マラヤ大学文学部のマレー学科でマレー文学を専攻した。教会関連の仕事でも、マレー語の翻訳や教育に携わっている。
  ところが、外国人の私の目には貴重な資質と見えるこのマレー的背景が、クリスチャンだからというので二人にとっては必ずしも正当な評価に結びつきにくいのだ。カトリック女性の方は、1990年代前半まで、民放テレビTV3のマレー語担当ニュースキャスターをしていた。私が彼女をよく覚えているのは、密かにマレー語のモデルとして仰いでいたからである。発音や言葉使いの巧みさ、落ち着いた態度、優れた番組進行などによって、テレビでマレー語を学ぶならこの人から、と思っていた。ところが、聞くところによると、彼女の美しいマレー語は、同僚のマレー人の妬みを買ったばかりでなく、「なぜそんなにマレー語が上手なのに、イスラーム改宗しないのか」と度々言われていたという。マレー語の言語能力とイスラームという宗教的帰属が同一線上にあるのが「マレー人」たる所以なのだろう。が、標準マレー語が自分達よりもよくできるのに、ババの血をひくクリスチャンである彼女は、マレー人同僚にとっては目障りで純でない存在に映ったのだろうと思われる。
  まさにこれは、アラブのクリスチャンが辿った道と似ているではないだろうか。実際には、シリア語やアラム語からのキリスト教用語の少なからぬ影響がクルアーンアラビア語には見られるらしいのに、すなわち、クルアーンの発展には言語的にもキリスト教の存在が不可欠であったのにもかかわらず、いったんムスリム集団が形成されるや否や、キリスト教グループは劣位に置かれた。そればかりでなく、クリスチャンが用いるアラビア語も、「正当なアラビア語ではない」とされた。しかし、ギリシャ語やシリア語などの文献からアラビア語への翻訳を担ったのは、他ならぬこういったクリスチャン達であった。それでも、イスラーム改宗をしなかったため、実力を認められても社会的認知はあくまでも低かった。
  イラン革命当時、アメリカ人人質の釈放を求めるローマ教皇の嘆願に対して、ホメイニ師が返した言葉は、次のようであるという。「コーランがキリストとキリスト教の聖者を支持してきたので、我々も教皇キリスト教界に影響力をもつ人々が、この国民が暮らしてきた状況を調査するだけの親切心をもっていてくれたならば...と期待していた。(中略)あなたはキリストの代理人なのだから、キリストがなしたであろうと同じことを、あなたもしなければならない。我々が常に被抑圧者の側の者であり続けるために、どうか神が我々の宗教的義務と神からゆだねられた責任を我々に充分に知らせてくださるように」《5》。すなわち、イランのムスリムはクリスチャンに期待していたのに、しばしば失望に終わらされたのである、という。
  日本には約100万人前後のクリスチャンが存在する。知識人層あるいは上流階層の中にもキリスト者が含まれているという事実を取りあえず無視し、「マイノリティ」があたかも弱小で無力な集団であるかのように一律に位置づけるならば、それも一つの見識ではある。
  日本語文献では、ムスリムではない筆者が、イスラームびいきの傍らキリスト教を非難しているものも見かける。しかし、そもそもどちらが寛容だとか上等だとかいう比較は、これらの信仰体系が、同一系譜上にあり、条件付き限定付きながらも重複面がある以上、あまり意味がないのではないだろうか。あるいは、一神教だから争いが絶えないのだ、という不確かな根拠から、日本の和の精神を導入すべきだ、などとナショナリズムを煽っているものも珍しくはない。その結果、当事者の歴史的アイデンティティを軽視し、より一層の混乱をもたらすとは、想像だにしていないかのようである。恐らくは、他人事として見ているから、このような態度が安易に出やすいのだろうと察せられる。
  昨今のキリスト教にとって、イスラームとの共存は真剣な現実問題である。ムスリムとの対話を推進するキリスト教組織は、(1)対話によるキリスト者としての自己アイデンティティの強化 (2)キリスト教の教えに基づく隣人愛の実践の一形態 (3)ムスリムキリスト教に対する誤解を解くための一方法、と考えているからではないだろうか。
  マレーシアのクリスチャンは、パレスチナイラクのクリスチャンを同胞として心配すると同時に、隣人としてのムスリムをも祈りと援助の視界においている。社会貢献も決して看過できない働きをしている。それにも関わらず、移民系マレーシア人だという理由からなのか、これまで日本のマレーシア研究の主眼とはなり得なかった。むしろ、文化人類学的立場から「先住民族社会のキリスト教受容」という立場から、あたかも動物園の檻に入れられた動物を観察するかのような、よく考えれば失礼なまなざしを向けられることも皆無ではなかった。
  そもそもの問題は、宗教系譜上は、キリスト教イスラームに先行しているのに対し、東南アジア地域では、時系列としてイスラームの後にキリスト教が伝来したため、逆行が発生していることにある。その逆行に基づいて、受容する側に接触当初の印象と解釈が付着している。それは、「イスラームはアラブと連関し、キリスト教は西欧あるいは西洋植民地支配者と結びついている」という一般認識である。
  しかし以上に書き連ねたことは、あくまでも素人考えの推論に過ぎないし、最良に見積もっても仮説の域を出ない。アラブのキリスト教に詳しい専門家からのご教示を、是非ともお待ち申し上げる次第である。

(参考文献)
Kenneth Cragg , The Arab Christian−A History in the Middle East, Westminster, John Knox Press, Louisville, Kentucky, 1991.
中東教会協議会(編)村山盛忠・小田原緑(訳)中東キリスト教の歴史日本基督教団出版局1993 (The Middle Eastern Churches, Newsletter No.8 Nov. 1982, Arab Christians in Relation to their Muslim Co-Citizens and Neighbours, and other essays, MECC Perspectives, No.6/7, Oct. 1986)

(注)
《1》Cragg, p.16, 25
《2》ibid., p.32
《3》『中東キリスト教の歴史』p.70
《4》 同書p.3
《5》 同書p.63
・著者(Kenneth Cragg)は、クリスチャンのイスラーム専門家として有名である。オックスフォード大学から博士号を授与され、アングリカン教会の司教および哲学教授として、45年間、中東各地に滞在した経歴を有する。サセックス大学で教鞭をとり、80代(1999年の時点)にしてなお、母校で講義を続けているとのことである。ムスリムとの対話における姿勢は、過去を克服するため、相手の立場や感情を尊重する立場である。

(ユーリ注1)上記に、「アラブ系クリスチャンに会ったことがない」云々の記述があるが、これは執筆当時の話であり、イスラエルパレスチナ旅行を経験した現在では、もちろん該当しない。(2010年3月11日記)

(ユーリ注2)Kenneth Cragg名誉教授については、2008年1月7日・2月24日・3月29日・5月21日・5月22日・6月19日・6月20日・6月27日・2009年5月6日付「ユーリの部屋」参照のこと。(2010年3月11日記)