ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中東5か国の教科書分析報告

結局のところ、中東の教科書分析の報告書は、自分の関心事に沿った部分のみプリントアウトして読んだだけなのですが、5か国で計124ページにも及び、非常に疲れました。正直なところ、今日は一日中、ぐったりとしていました。
疲れの原因は、同じような話がぐるぐると何度も繰り返される記述が多いこと、明るく楽しく新しい情報がほとんど盛り込まれず、アラブ統一を目標として、帝国主義への対立意識や闘争を奨励するトーンであること、反イスラエル反ユダヤ主義など、暗くて重苦しいものだからです。また、キリスト教に関しては、エジプトのコプト教徒やイランに長く存続するキリスト教の説明以外は、クルアーンが許可する範囲内で述べているために、いささかの間違いが含まれていたり、何か決定的に重要な点が欠けているように思われます。
一つの収穫は、サウジの事例を除き、イスラーム圏内でのキリスト教徒は、必ずしもあからさまな憎悪や差別の対象とはみなされていないとわかったことです。神学的な理解は別としても、国民統合の要素として、マイノリティであっても、国に忠誠であり、西洋帝国主義と対決姿勢を取り、イスラーム到来以前から土地と結びついていさえすれば、仲間に入れてもらえるらしいことです。特にコプト教徒は、本来のエジプト人と見なされているようでした。ただ、ローマ帝国ビザンチン帝国やオスマン帝国との対決など、抵抗のシンボルとしてのコプト教の来歴については書かれていても、究極的に何を信じているかなどの具体的な話は、報告書を見る限りにおいては掲載されていませんでした。また、職業別や居住地などの詳細も、農業とコプト教徒との関係以外、特に記されていないようです。
これらの中東系クリスチャン達は、歴史的に見れば、西洋や東方のキリスト教支配の下よりも、一定の条件さえ守れば、ムスリム支配の下での方が、より「保護」され、より「寛容」な扱いを受けていたらしいことは、報告書に依拠する限り、教科書上でも確認されています。
ただし、教科書でそのように教えられているからといって、必ずしも相互尊重と共存理解の下に満足してきたわけでもなさそうなことは、近代以降、アラブ系クリスチャンの人口が激減し、アメリカやオーストラリアやカナダや中南米への移住と定着が見られることからも明らかです。そのような人口統計上の変化や望ましい共存のあり方などについては、教科書で触れられていないようです。
アラブ系クリスチャンは、かつて8割を占めていたレバノンの事例に見られたように、行動様式や思考の自由度が高く、上流や中流階層を形成し、社会経済的チャンスにも恵まれ、大使、政府高官、軍の高官などの役職に就く人々が比較的多いと言われています。そのようによい暮らしをしていたとしても、他国への移住を決意し、行動に移す人々が一定数以上存在するというところに、問題が隠されているのではないでしょうか。
2006年9月に母校の会合に出たところ、ある教授が「そうなんだ、アラブのクリスチャンは、“アラブ=イスラームと見なさないでほしい”と言っているんだ」とおっしゃっていましたし、ウイキペディアによれば、アラブのクリスチャンはアラビア語第一言語として話していても、必ずしも自らをアラブ人だとは考えていないとのことです(http://en.wikipedia.org/wiki/Arabic-speaking-Christians)。ただし、正確な統計もないので、証明は難しそうです。
結局のところ、問題の所在はどこにあるのでしょうか。
1999年から2001年までの103冊の国の教科書および16冊の宗教学校用教科書を対象としたエジプトの教科書分析では、キリスト教について矛盾した記述があります。ムスリムコプト教徒との連携を記す一方で、イスラームこそが唯一の真の宗教であり、その優越性を主張するので、同じ啓示宗教の部類に属してはいても、その経典(トーラーと福音書)は歪曲されており、ユダヤ教徒キリスト教徒は不信仰者であり、それゆえにムスリムユダヤ教徒キリスト教徒のようになるべきではないと、不道徳な点を挙げてムスリムに警告しているのです。また、西洋のキリスト教は、何を差し置いても十字軍であり、帝国主義者で、アラブの平和と統合を脅かす存在と見なされているようです。記述には、アラブ側がしかけた暴動や虐殺については触れられることなく、常に犠牲者としての描き方が強調されているとのことです。
イランの場合は、ペルシャ語ペルシャ文学の22冊、コーラン学習の8冊、イスラーム教育の11冊、社会学9冊、歴史5冊その他など計115冊の教科書を分析した報告が出ています。シーア派についての説明に重点が置かれているのは当然として、その他、ゾロアスター教ユダヤ教バハイ教やブラーミン教、ヒンドゥ教、仏教、儒教道教神道などについても、いささかの間違いを含めて記述があるそうです。キリスト教については、イスラームの優位性を確証した上で、伝統的に認められ、アジアで出現し、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカで信徒が多いと説明されています。また、カトリックプロテスタント、オーソドックスの区別も記されているそうです。特に、アルメニア正教の由来と経緯、ローマ教皇プロテスタントの発生、マルティン・ルターイエズス会カルヴァン、スペインでのカトリック教徒によるムスリム迫害、エチオピアのクリスチャンとムスリムの関係などの説明もかなり詳しいようです。
ただし、ルターについては、ローマ教皇を不要と宣言したなどの荒っぽい説明のみで、印刷術の発展によるドイツ語聖書翻訳の意義などには、まったく触れられていません。聖書翻訳によって、聖職者の独占から一般人の自由で批判的な聖典解釈への道が開けたことについては、イスラーム社会にとっては何ら意味をなさないどころか、むしろ有害だと考えられているのかもしれません。

以上、おおざっぱではありますが、中東諸国の教科書分析から、「他者」をどのように描いているかという「他者性」の問題を考えてみました。
日本の歴史教科書も、中国や韓国などから見れば、間違いや偏りが含まれていると批判が出ているところです。ともかく、物事を中立的に客観的に記述することは、いずれにしても困難な問題が伴います。歴史教育は国民統合や価値意識を植え付ける意味も含んでいますから、ましてや異なる立場をあまり強調すると、焦点がぼやけることにもなりかねません。ただ、日本の場合は、天皇制問題や戦前戦時中を除き、特定の宗教に対して、あからさまな優位性や完結性を教科書で記述することは、現在では控えられていると思います。特に、明確な敵対意識や戦意を煽りたてる内容は、要注意扱いされます。
しかし、イスラーム圏の場合は、濃淡や重点の置き方の相違はあれ、概して共通の特徴がみられると言ってよいかと思います。1980年代だったかのマレーシアの宗教間対話の会合記録でも、マレー人代表者が「どうして地獄へ落ちるとわかっている人々と対話なんかしなければいけないんだ」と公言し、非ムスリム代表から失笑を買ったという記述が見られます。また、別のムスリム学者との面談(2001年8月中旬)では、マレーシアのキリスト教の研究をムスリムがするのは時間の無駄だという意見があると聞きました。これでは、国民統合は一方的に過ぎず、乖離か吸収か服従か離反しか方法がないことになります。1970年代からの緩やかながらも徐々に確実にイスラーム化が進行しつつあるマレーシアの非ムスリムの悩みは、そこにあります。
また、日本人のイスラーム研究者から、何度か「中東ムスリムは宗教間対話が大好きで、いつも話をふっかけられる。しかも、必ずといってよいほど、イスラーム優位の改宗勧誘が伴う」と聞いていましたが、この教科書分析の報告書を見て、その背景がよくわかりました。彼らはきっと、当該国内水準から見て、よきムスリムなのでしょう。そのようにしか教わっていないのですから。
とすれば、ムスリムが海外留学した場合に新たに学ぶものは、理系科目以外に何があるのでしょうか。「国ではこのように教わったけれども、現実は違うんだ」とはならずに、「この国の人はいい人だけど、ムスリムじゃないから...」と考えるのでしょうか。何か期待せざることが発生した場合にも、イスラーム基準で判断するのでしょうか。ちなみに、かつて私が教えていた日本留学組のマレー人学生の中には、日本の空港に到着した途端に、スカーフを外した人がいるなど、全く関係のない私にまで噂が伝わってきたことがあります。また、ある男子学生は、目をギラギラさせて「日本留学の目的は、イスラームを広めることだ」とわざわざ言いに来ました。端正な身なりの礼儀正しい学生でしたが、それとこれとは違う領域なんだと感じました。
それから、日本に来て講演するムスリム関係者の中で、比較的キリスト教に好意的な発言をする人がいますが、来日したマレーシアのあるキリスト教指導者によれば、「あれは、会場がキリスト教系だと知っているから、そのように話しているだけだ。国に帰ってごらん。あの人が何を言っているか、知っているか?イスラーム防衛団体の責任者なんだよ」とのこと。決して嘘をついているのではなく、ムスリム国内と非ムスリム国内では行動様式に違いが出るということなのだろうと思われます。

いやあ、こうして考えてみると、改めて、グローバル化による人的交流はかなり難しい側面を含んでいると思います。しかし、要は正確な知識を持つことで個々に対応することだろうと思います。無知ほど恐ろしいものはないからです。
今回で、中東関連の話題は、ひとまずおしまいにしたいと思います。専門外ゆえ誤解もあったかと思いますが、そうであれば、どうぞお許しください。