ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシアをどうまなざすか

このブログ日記では、気楽な日常のおちゃらけた話も含まれています。実は、研究日誌のようにテーマを絞って、必要な時だけ取り上げる方法も考えていました。ただ、そうすると問題点や対立項が浮き彫りにされるため、「反イスラーム」「反マレー」「ファナティック」「福音派vsリベラル派」「寛容の精神」「共生の思想」など軽々しいレッテルを勘違いして性急に付ける人が出現しそうで、大きなためらいがありました。
また、私自身、もう少し関心を分散させることで、精神衛生上バランスをとらなければとも思いました。オタク人間には絶対になりたくありませんから。
以前、マレーシアのあるリサーチ協力者から、「24時間マレーシアのことばかり考えているんだね」などと茶化されました。一応は研究ですから、遊びではなく、真剣に取り組まなければと思っていましたが、現地の人からは必ずしもそれが好意的にとられないのだと、その時知りました。つまり、「こんなことにいつまでも関わって、君はそれほど無能なのか」というわけです。マレーシアの有能な人は、機会さえあれば国を見限って頭脳流出していますから。また、海外に活路を求めた頭脳流出組の30%はクリスチャンだという統計もあるそうです。

1990年代半ば頃は、まだインターネットも電子メールも今ほどの普及はなく、図書館検索はもっと不便でした。国内では特定の機関にしかマレーシア情報がなく、それもすべてがきれいに揃っているわけではなかったので、マレーシアで何が起こっているのかなどは、実際に現地に飛ばなければわからなかったのです。それに比べたら、今は天地の差ほど便利になりました。
しかし、その便利さが癖者でもあります。かつては、人にあまり知られていない国について書くだけでも、‘一旗揚げ’られた時代があったそうですが、そんな甘いことは今なら通用しません。第一、その国の情報なぞ、写真や動画つきインターネットで一瞬のうちに調べられるのですから、それプラスアルファの情報かつ人とは違った意見や考えを出さない限り、意味がなくなってきました。

マレーシアをどうまなざすかというのは、実に難しいのです。「多民族多宗教社会だけれどもうまくいっている」「イスラーム国の中では裕福で民主的で安定した政治体制が保たれていて成功している」「ともかく政治が安定して国民が充分食べられるならいいじゃないか」などという見方は、日本では割合に強くあるようです。外交的には、また、建前としては、そのような立場は理解できます。歴史上、マラヤを占領した日本側にとっては、あまり強気で悪くマレーシアを論評できないのも事実です。観光的にも、遊びに行くならマレーシアは楽しめるという点で、上位にある国の一つでしょう。

一方で、いわゆるマイノリティの民族的、社会的、経済的、宗教的な各種政策からくる不均整の不満は、一体どのように考えたらいいのでしょうか。「マイノリティとはそもそもそういうもの」と押さえつけてしまうのか、それとも「この国に住まわせてもらっている以上は、主流民族の価値観や感情を尊重すべし」と理解を促すのか、当事者も「まあ、面倒なことには関わらないでおこう」とあきらめて忍従するか、どうなのでしょうか。思い切って不満や異見を表出する人々については、「それは一部の偏った意見だ」とみなすのか、「ここまで勇気を出して言っているのだから、事態をもっと重く見るべきだ」ととらえるのがよいのか…。

人によって角度が異なれば見方も変わるのは当然なのですが、本当に難しい問題です。事態そのものは単純で平板なのに、どうすれば利害の調整がうまくいき、ほどほどのところで皆が満足できるか、曖昧なままなおざりにされているような、どうもすっきりしないところがあるのです。

今日の英語版はてな日記‘Lily’s Room’をご覧ください。第58回UMNO総会で、現首相アブドゥラ氏が「UMNOはイスラームを強化するが、狭い考えのイスラームを拒否する」と述べ、氏のお気に入りである「文明的イスラーム」(Islam Hadhari)10原則を再度前面に出しました。初めてこのようなニュースに触れる人は、「あぁ、ムスリムがいいこと言っているじゃないか。そういうイスラームならいい」と素直に思われるかもしれません。しかし、この「ユーリの部屋」でもたびたび書いたように、キリスト教共同体から見れば、状況はむしろ悪化していると言えます。「Islam Hadhariなんて、理論だけだ。実践はなされていない。現実は違う」とあるインド系司祭は私に言いました。
最近発生したヒンドゥ寺院の破壊と祭司殺害の事件も、その前に発生したオランアスリの小さな教会壊しの事例と同様、マレーシアでは、決して珍しい初めての問題ではありません。「不法な土地に寺院/教会が建てられているから」との理由で、当局の命令により、突然ブルドーザーで押し倒されたらしいのですが、マレー語聖書やマレー語で書かれたキリスト教新聞の件と同じで、常に話は一方的なのです。まず、責任者を呼んで話し合うとか、合意に至るまで壊さないし発禁もしないという基本的な民主的遂行ができていないのです。
「なぜ、そういうことをするんでしょうか」という私の問いに、上記のインド系司祭は「自分達に権力があることを示したいからだろう。でも、そうすることによって、彼らは尊敬もされない」と答えました。全く...。

私も、このようなことを書くには勇気が要りますし、内面の葛藤というものがあります。なんとかうまくいってほしいと、やはり願っているからです。

ところで、数年前、ある教授が私に言いました。「もっと楽しい楽しいマレーシアの話ってないんですか。その方がこちらは都合がいいんですけどね」「不利になるとわかっているなら、最初からそんなテーマを選ばなきゃいいじゃないですか。それだけのことですよ」と。いやぁ、見識を疑いましたねえ、この時は。実際に起こっていることが既に公表されているのに、情報の飛び交う現代で、いつまでも隠し通せると思っていらっしゃるなんて。こんなことをしているから、信用を失うんですってば...。

ということを考えていたら、2007年10月23日25日付「ユーリの部屋」でご登場いただいたエジプト人の先生から、会合案内がメールで送られてきました。イスラエルパレスチナの問題に仏教の方も混じっての対話だそうです。まあねぇ、これもマレーシア以上に、政治的問題なのか宗教的問題なのか民族的問題なのか土地と水の分配問題なのか、どちらにも言い分がそれぞれあって、なかなかやっかいです。先月は、ガザにあるパレスチナ聖書協会の書店勤務のマネージャーが、誘拐され殺されてしまった事件が発生しました。こういう話を聞くと、私としてはアラブのクリスチャン側に立ちたくなりますね。

アラブ研究者と中東ジャーナリストの日本人お二人から聞いたところによれば、「公平さ」を目して両方を対等に扱おうとすると、「敵を二つつくることになる」からやめた方がいい、とのことでした。ふぅっ!一度、イスラエルパレスチナファタハ)の代表二名ずつの会合に出たことがありますが、聞いているうちに、何が何だかわからなくなってきて、ほとほと疲れました。日本まで来られている以上は、どちらも平和への志向があることはわかったのですが。

話は変わりますが、マレーシアに勤務していた頃、お世話になった上司B先生の甥御さんに当たる青年が、この8月末から半年の予定で、ウガンダNGOの医療実習をされています。お父様が主宰をなさっている数百万カウントのメーリング投稿で知ったのですが、「ブログもどうぞ」とのことで、最近、読ませていただいています。なかなかセンスのいい方で、文章力もあり、惹きつける内容をお持ちです。「ナイル川のほとりの…」と題するYahooのブログです。若さで楽しげに書いていらっしゃいますが、きっと言葉に出せない苦労がいろいろあることと思います。お父様は表向き「見守るしかない」と悠然と構えていらっしゃるようですが、お母様やご親戚の方達は、さぞかし内心ハラハラされているでしょうねぇ。私だって、ブログを読みながら(きゃあ!やめてぇ!)と思った箇所がありましたから。その昔、私が「マレーシアに行く!」と言った時の親の複雑な気持ちがわかるような気がします。