ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

泥沼のような環境を経て

昨晩、久しぶりにイスラーム関連の本("The Third Choice: Islam, Dhimmitude and Freedom" Mark Durie, Bat Ye'or)を読んでみた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150815)が、(三年半前までの私は、このような世界にどっぷり浸かって、何ら変わり映えのしない泥沼のような環境にもがいていたのだった)と懐かしい気がした。
この著者のMark Durie師は、実はパイプス先生と親しい中東フォーラムの関係者で、執筆も多い(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Mark+Durie%22)。アチェが専門。インドネシアの言語研究から始めて、イスラーム問題に発展したという、私と似た経緯の大先輩である。
もっと早く出会っていれば全く違った人生航路だったのに、と残念に思うのだが、今となっては仕方のないことだ。それに、逆に言えば、左派が跋扈しているこの分野の日本の研究会は、それほど大変に遅れていたということの証左でもある。戦略を欠いているので、偉そうに振る舞いながらも、自分中心で感情的なコメントしかできないのだ。
小さな励ましは、ペンネームのBat Ye'orさん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090704)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090715)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090112)。この方は、しばらく前にご主人を亡くされた。フランス語なまりの強い英語を話される。エジプトのブルジョワ出身だったが、英国に移住(難民として?亡命?)し、大学に所属せず、丹念にイスラーム圏でのユダヤ人やクリスチャンの実態を示す一次文献を収集し、重量感のある本を何冊か出版されてきた。この方とも、パイプス先生は面識がある(http://www.danielpipes.org/11484/)(http://www.danielpipes.org/12581/)(http://www.danielpipes.org/12846/)(http://www.danielpipes.org/12904/)(http://www.danielpipes.org/13003/)(http://www.danielpipes.org/13034/)(http://www.danielpipes.org/15391/)。
つまり、パイプス先生と二年間に二回も面会し、特に二度目は一週間以上も一緒に過ごした私は、なんとも顕著な人脈と間接的につながっていたのだ、と驚くべき経験を得たことになる。
その意味で、他の分野にも大きく視野を広げるきっかけとなったダニエル・パイプス先生には、何だかんだ言っても、やはり感謝すべきなのであろうと、いつも同じことを繰り返すようだが改めて感じた次第。それに、過去の不祥事(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150805)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150807)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150810)(と言っても、中東問題に没頭し過ぎ、人付き合いが不器用で不慣れだったことに基づく依頼退職)も含めての理解でなければ、本当の理解とは言えない。
二十代、三十代の頃ならば、まだエネルギーもあり余り、時間が豊富な錯覚があるので、勢いで前進してしまうのだが、このグルグル思考のイスラーム世界との共存は、現代では困難だという一言に尽きる。
西洋でも、さまざまな試みがあるようだが、ほんの氷山の一角に過ぎず、むやみに時間とエネルギーが消耗されていく感が否めない。
ここ二、三ヶ月ほど、本当に珍しくペース・ダウンして、恒例の海外での夏(現地は冬)の仕事も取りやめて、おとなしくされているパイプス先生。メール通信は継続中。おととい辺り、私のことを、単なる「役立つ同盟」ではなく「戦略的同盟」だと定義された。「あんたと僕は、ずっと深く、もっと広く、合意する領域を持っているじゃないか。僕達、戦略的同盟なんだよ」と。
最初からパイプス路線に直行していたら、私もめでたく「イスラーム恐怖症グループ」の仲間入りなのだろうが、これまでの遍歴の年月を経ているので、免除されるであろう。

これに関連して、以下にしばらく前の池内恵氏の文章を。

http://ikeuchisatoshi.com/


イスラーム教をなぜ理解できないか(2)リベラル・バイアスが邪魔をする〜米国のガラパゴス


・日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。
・少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本でそれを一知半解に受け売りする人たちによってさらに歪みを増幅させて、日本国内での知的権力構造の中で移入され拡散されるので、新たな誤解と障壁を生む。
・「欧米のイスラーム理解は誤っている」という議論は多いが、実際にはそういった議論は、欧米のリベラル派の立場からイスラーム教の実際の信仰のあり方に目を閉ざし、欧米での議論を保守派・宗教右派批判という文脈で一方的に表象しているため、それ自体が政治的な意図やバイアスを大いに含み、誤解を生んでいる。



・Shadi Hamid, “The Roots of the Islamic State’s Appeal: ISIS’s rise is related to Islam. The question is: How?” The Atlantic, Oct 31, 2014.



・著者のシャーディー・ハミードは、「イスラーム国」の参加者たちは、宗教を「イデオロギーとして利用」しているのではなく、本当に信じているのだ、という点を、どうにか欧米の読者に理解させようとする。


In this most basic sense, religion—rather than what one might call ideology—matters. ISIS fighters are not only willing to die in a blaze of religious ecstasy; they welcome it, believing that they will be granted direct entry into heaven. It doesn’t particularly matter if this sounds absurd to most people. It’s what they believe.


・これは「リベラル・バイアス」の問題だろう。いくつもある、欧米の主流派の議論が、善意のつもりで帰って中東の現実を見誤ってしまう原因の、一つである。これ以外にプロテスタント的な宗教改革イスラーム世界に生じさせれば問題は解決すると信じるいわば「ルター・バイアス」や、宗教解釈を民主化して一般信徒が解釈できるようにして聖職者・教会権力の支配を解体すれば一般信徒は穏健な解釈をするようになる、という「民主化バイアス」もあると思われるが、これについては別のエントリで論じよう。


・ハミードは、欧米の政治学者(ハミード自身を含む。彼はアラブ系だが欧米で教育を受けて欧米の研究機関に勤める、明らかに個人的信条としてはリベラルな人である)は、イスラーム教徒が非リベラルな宗教教義を自発的に信じていることを理解しがたいという。宗教やイデオロギーアイデンティティを、物質的な要因によって引き起こされるものだと捉えるように、欧米の政治学者は教育・訓練される。これは、政治学者だけでなく、合理的・個人主義的で世俗主義的な世界観を持つ欧米の一般的な人、その中でも特に知識階層に共通すると言ってもいいだろう。それが、「イスラーム国」が依拠する、多数のイスラーム教徒が実際に信じている信条や行動原理を、理解することを妨げているというのだ。


Political scientists, including myself, have tended to see religion, ideology, and identity as epiphenomenal—products of a given set of material factors. We are trained to believe in the primacy of “politics.” This isn’t necessarily incorrect, but it can sometimes obscure the independent power of ideas that seem, to much of the Western world, quaint and archaic.


・「イスラーム国」は、リベラル派が信奉する決定論、すなわち歴史は合理的で世俗的な未来へと発展していくことを運命づけられているという決定論が、中東の現実を説明できないことを明らかにした、とハーミドは論じる。


The rise of ISIS is only the most extreme example of the way in which liberal determinism—the notion that history moves with intent toward a more reasonable, secular future—has failed to explain the realities of the Middle East.


・ここでハミードは、「イスラーム国」は「イスラーム的」と言えるのか?という核心をついた、専門家が誠実であれば誰もが内心は問いかけつつ、表向き表現することに躊躇する問いを立てる。そして、イスラーム的だ」と答えるイスラーム教徒の多数派が「イスラーム国」を支持するわけではない。しかし、イスラーム法によって統治されるカリフ制を復興すること」そのものについては異論がない


ISIS draws on, and draws strength from, ideas that have broad resonance among Muslim-majority populations. They may not agree with ISIS’s interpretation of the caliphate, but the notion of a caliphate—the historical political entity governed by Islamic law and tradition—is a powerful one, even among more secular-minded Muslims.


・「イスラーム教徒は我々と同じように育っているじゃないか、同じもの食べて、同じように子供達を育てているじゃないか」といった、おそらくは善意からの共感の言説は、実態から目を逸らすだけである。大多数のイスラーム教徒にとって、平和を求めることと、離教者には死刑で臨むべき、姦通には石打ちの刑を、と信じることの間に矛盾はないのだから、とハーミドは世論調査の結果を踏まえて言う。


This is why the well-intentioned discourse of “they bleed just like us; they want to eat sandwiches and raise their children just like we do” is a red herring. After all, one can like sandwiches and want peace, or whatever else, while also supporting the death penalty for apostasy, as 88 percent of Egyptian Muslims and 83 percent of Jordanian Muslims did in a 2011 Pew poll. (In the same survey, 80 percent of Egyptian respondents said they favored stoning adulterers while 70 percent supported cutting off the hands of thieves).


イスラーム教の教義体系にムスリムが完全に縛られているわけではないが、完全にそれから脱することもできない、というのだ。


Muslims are not bound to Islam’s founding moment, but neither can they fully escape it.


イスラーム教は教義の構造上、信者個々人が自由に選んだり捨てたりできるものではない。根幹の部分を変えることも難しい。ただ「棚上げ」して実際には適用しない、という便法が社会的な合意があれば通用するだけだ。その合意も簡単に壊れてしまう。


・ハミードのこういった議論は、「アラブの春」以後の民主化の試みによって、実際にアラブ諸国の多数派のムスリムの民意が選挙で表出されたことを踏まえている。そこからハーミドが出した結論は、「政治的な自由化が行われば、非リベラルな思想の持ち主が多数派を占めるアラブ世界では、非リベラルな民主主義が誕生しかねない」というものだ。


・これがハミードが昨年刊行した『権力の誘惑ーー新しい中東におけるイスラーム主義者と非リベラルな民主主義』(オクスフォード大学出版会)の中核的な議論である。


Shadi Hamid, Temptations of Power: Islamists and Illiberal Democracy in a New Middle East, Oxford University Press, 2014.


・ハミードはこれを東欧やラテン・アメリカなど欧米的な価値観を基本的に受容した地域の事例とは異なる、世界の民主化の中での新たな事例としてとらえる。東欧やラテン・アメリカでは、社会の多数派の信条としては欧米的なリベラルな思想が広がっているにも関わらず、政権は言論の自由とか人権とか法の支配といったリベラルな規範を実現すると権力を維持できないから、それらを制限する。そこで、何らかの原因で制限が弱くなれば、リベラルな民主主義が実現しうる。ところがアラブ世界の場合は、社会の側が非リベラルな信条を抱いているために、民主化して多数派の意見が取り入れらると、非リベラル化してしまう、という。


・アラブ世界のイスラーム教徒の多数派が実際に信じているものを、そのまま見つめれば、事態はかなり分かりやすくなる。欧米の議論のゆがみとは、実際には、現実のアラブ世界のイスラーム教徒はリベラルではないにも関わらず、リベラルな価値や世界観が普遍的であると信じている欧米のリベラル派がそのことを認められないがゆえに議論が混乱しているのである。


・しかし欧米のリベラル派はしばしば、「アラブ世界のイスラーム教徒は実際にはリベラルなのに、欧米がオリエンタリズムによる誤った表象によって非リベラルであると誤認している、そのことが中東で問題を引き起こすのだ」という議論をする。しかし実際に選挙をやってみると、本当に非リベラルな主張が票を得て当選して権力を握ってしまう。民主化を是とするならば、非リベラルな、他者に寛容ではない民主主義を受け入れるのか?それが、中東に出自を持つ、リベラルな欧米人であるシャーディー・ハミードの問いかけである。

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イスラーム教をなぜ理解できないか(3)「ルター・バイアス」が曇らす宗教改革への道


・日本では宗教を「こころ」の問題と捉えることで、イスラーム教の律法主義的な原則が捉えにくくなる。
・それに対して、欧米のリベラル派は、リベラルな価値観が普遍的だと信じるあまり、「本当のイスラーム教はリベラルで、リベラルではないイスラーム教徒は何か間違っている、物質的原因によって強制されているのか、教育が足りない」と思ってしまう。さらには「イスラーム教がリベラルではないと分析する観察者はオリエンタリズムだ、イスラーモフォビアだ」と断定してしまって、現実に目を向けなくなる。


Mehdi Hasan, “Why Islam doesn’t need a reformation,” The Guardian, 17 May 2015.


・欧米では、「イスラーム国」の蛮行がイスラーム教の教義に基づいているという認識が出てきて、そこで「宗教改革をやれ」と問題化されるようになった。しかし、その際にイスラーム教でどのような宗教改革が必要なのかを理解せず、欧米の歴史をそのまま援用して論じてしまう。そこから、イスラーム世界にルターのような人物が出てきて、原典に立ち返り、教会権力と聖職者たちから解釈権を奪って宗教解釈を民主化すれば、テロも人権抑圧もなくなる、と安易に前提にしてしまう、というのがざっくりとまとめるとメフディ・ハサンがここで議論している内容だ。


イスラーム教のスンナ派では元々が聖職者によるヒエラルヒーや教会権威はない。ヨーロッパのプロテスタントが行った「純化」はすでにイスラーム教においては行われた。サウジアラビアはまさにそこから生まれた。


The truth is that Islam has already had its own reformation of sorts, in the sense of a stripping of cultural accretions and a process of supposed “purification”. And it didn’t produce a tolerant, pluralistic, multifaith utopia, a Scandinavia-on-the-Euphrates. Instead, it produced … the kingdom of Saudi Arabia.


・異なる宗教には異なる歴史的経緯があり、教義の体系があるのだから、どこの宗教にも「ルター」が出てくるわけではないし、「ルター」が出て来れば宗教改革になるわけではない。むしろ、イスラーム世界にルターが現れるとすれば、それはまさに「イスラーム国」のバグダーディーのような言動をとるだろう、とも言うのである。


With apologies to Luther, if anyone wants to do the same to the religion of Islam today, it is Isis leader Abu Bakr al-Baghdadi, who claims to rape and pillage in the name of a “purer form” of Islam – and who isn’t, incidentally, a fan of the Jews either. Those who cry so simplistically, and not a little inanely, for an Islamic reformation, should be careful what they wish for.


・ところが欧米では、イスラーム教徒を出自とする論者がルター風な宗教権威批判をすると、それこそが未来のイスラーム教解釈だと思い込んでもてはやされてしまい、現実を見失う、というのがこのコラムでの批判である。


シャーディー・ハーミドの論考でもこの点は触れられている。


The Muslim world, by comparison, has already experienced a weakening of the clerics, who, in being co-opted by newly independent states, fell into disrepute.


・宗教権威が弱くなったことで、イスラーム主義者が台頭し、「イスラーム国」のような種類のものも現れてくる。
また、イスラーム世界に「ルター」に相当する人物を探すなら、それはサウジアラビアの厳格な宗教解釈を形作ったイブン・アブドルワッハーブだろう、と言う。


Some might argue that if anyone deserves the title of a Muslim Luther, it is Ibn Abdul Wahhab who, in the eyes of his critics, combined Luther’s puritanism with the German monk’s antipathy towards the Jews.


・ルター的な宗教改革は現在のイスラーム世界で求められてもいないし、必要でもない。
もちろんある種の宗教改革は必要であるという。ムスリムは自らの伝統遺産の中から多元主義と寛容と相互尊重の理念を見出してこなければならない。


Don’t get me wrong. Reforms are of course needed across the crisis-ridden Muslim-majority world: political, socio-economic and, yes, religious too. Muslims need to rediscover their own heritage of pluralism, tolerance and mutual respect – embodied in, say, the Prophet’s letter to the monks of St Catherine’s monastery, or the “convivencia” (or co-existence) of medieval Muslim Spain.


・不要なのは、非ムスリムあるいは離教ムスリムによる、非歴史的で反歴史的な改革要求であるという。


What they don’t need are lazy calls for an Islamic reformation from non-Muslims and ex-Muslims, the repetition of which merely illustrates how shallow and simplistic, how ahistorical and even anti-historical, some of the west’s leading commentators are on this issue.

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イスラーム教をなぜ理解できないか(5)「リベラル・バイアス」を単刀直入に言うと


・Shadi Hamid氏が、‘Moderate Muslims’という小文をワシントン・ポスト紙のブログに寄せている。
「穏健派ムスリム」を探すのはもうやめよう、という議論で、欧米で(日本でもそれを一知半解に真似て)繰り返されるクリシェの批判から、根本的な思想問題に触れている。


The way we use the term, “moderate” means little more than “people we like or agree with.” Almost always, it signals moderation relative to American or European standards of liberalism, freedom of speech, gender equality and so on.


・「穏健派ムスリム」を持ち上げて、「イスラーム国」などの「過激な」「本来の姿ではない」「多数派ではない」の価値を落とそうとする議論はごく自然に行われているが、中東の実態、宗教教義の実態を知れば、単純にそうは言い切れなくなる。ここでハミードは、「穏健派ムスリム」と言うときは、実際は欧米のリベラルな基準から、言論の自由ジェンダーの平等などを受け入れる相手のことを言っているだけで、要するに「欧米人が好きになれる相手、合意できる相手」と言っているに過ぎないのだ、と喝破する。

・そんな欧米人に気に入られることを欧米で言っている人たちは出身国に帰ると「穏健派」とはみなされておらず、単にout of touchだと思われている、という。


Yet in their own countries, people who want to depoliticize Islam and privatize religion aren’t viewed as moderate; they’re viewed as out of touch.


・中東を相手にしているとごく普通に感じられることをそのまま書いている。これが欧米の知識社会では言いにくいんですよね。言うとイスラーモフォビアに毒された非文明人であるかのように扱われてしまう
エジプトのような現地の国では社会全体が保守的なので、世俗主義者でさえ非常に非リベラルな信念を報じているのだ。


The search for moderate Muslims misunderstands the nature of the societies we’re hoping to change. It would be extremely difficult to find many Egyptians, for instance, who would publicly affirm the right to blaspheme the prophet Muhammad. The spectrum is so skewed in a conservative direction that in countries like Egypt, even so-called secularists say and believe quite illiberal things.


・欧米の議論は、なぜムスリムはリベラルで世俗的な時代に加わってくれないのか、というフラストレーションを抱えている。しかしこれはいかに善意であれども生産的ではない、見下した態度だ、という。


The subtext of so many debates over Islam and the Middle East is frustration and impatience with Muslims for not joining our liberal, secular age. However well-intentioned, such discussions are patronizing and counterproductive.


・日本で俗に言う「欧米のイスラーム理解は間違っている!」という主張とはかなり異なった思想的課題があるということがよくわかりますね。通説は「本当はムスリムはリベラルなのに、そうではないとする欧米のオリエンタリズムが間違っているんだ」という議論なのです。実際に中東に行って議論をすれば、それは嘘だということはよく分かります日本の俗説は、「中東」を根拠にして「欧米」を叩いているふりをしながら、実際には欧米の特定の学説を権威として掲げて日本での言説支配の手段とし、要するに流用しているだけのことが非常に多い。
俗説や「権威」に流されずにモノを考えるのが思想史。本当に考えるべきことを考えていれば、視野が開けてきます。

(部分抜粋引用終)

上記の「ルター・バイアス」、つまりマルティン・ルター風の宗教改革イスラームでも、という考えについては、既に2003年以前のハートフォード神学校のジャーナル『ムスリム世界』でも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080417)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080613)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080906)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100613)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100729)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111213)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111217)、長々と論じた論文を見た。ただ、読んだだけでうんざりというのか、このムスリム執筆者達の偽善性に嫌気がさしたことを覚えている。なぜならば、もしその主張の通りだとすれば、なぜ執筆者達の出身国ではイスラーム政権打倒の動きさえ見られないのか、という現状不一致を感じさせられたからだ。つまり、長々と非ムスリムに向かって綴り、語り続けるのは手段であって、本気ではないという態度が透けて見えたのだった。
このムスリム達は、パイプス先生の手にかかると、いわゆる「お忍びイスラミスト」であって、表面的には教養があり穏健なムスリムのように振る舞いながら、実は内部からアメリカの文化をイスラーム化しようと試みている一団だと喝破されてしまう(http://www.danielpipes.org/10987/)(http://www.danielpipes.org/12340/)(http://www.danielpipes.org/14080/)。実は、それは煽動ではなく、一定の根拠があってのことである。恐ろしいことに、1990年前後、既にそのような段取りを記したアラビア語文書がアメリカ内部に存在していたのだった(http://www.investigativeproject.org/document/21-shura-council-report-on-the-future-of-the-group)。その実現型の一例としては、私も2005年8月に偶然、ばったり出くわした人を巡る次のような調査がある(http://www.investigativeproject.org/profile/174/ingrid-mattson#_ftn1)。私がその一覧文献を読んだのは、三年前の今頃のことだった。メモは取ってあるが、あまりのことに驚愕して、保留にしてある。
だが、『ミトロヒン文書』や『ヴェノナ』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150805)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150809)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150815)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150819)などの冷戦期のKGBの手法を知った今では、ソヴィエトの影響を受けた中東ムスリムが、そこから援用して、イスラームに当てはめて活動中だという路線は、ある程度頷けるところではある。
私が苛立つのは、日本の学会や研究会が、ここまで私に私費で一人で模索させておいて、教授の誰一人として、紹介状も書いてもくれないし、この機関を訪問してみてはどうか、などという発展的な助言がなかったことだ。本当に興味関心があれば、派閥などの利害を超えて、もっと奮起させるような方向に導くはずではないか。でも、「ヘイト・スピーチはいけません」などという、トンチンカンなコメントを寄せるだけで終わってしまう。
今、2007年からのブログを見直してみて、何という労力の無駄だったのか、と我ながら呆れ果てた。池内氏が記しているように、アメリカ(や欧州など西洋)を叩くことで、イスラーム世界を論じた気分になっている研究者が蔓延していたのではなかったか。私はイスラームの専門ではないが、ムスリム世界の中の聖書の問題や教会での言語使用などを調べていくうちに、何とも厭世観が漂ってきたことは、この過去ブログからもおわかりであろう。
それを思えば、パイプス先生の勤勉さと気力と執念は、失礼な言い方だが、本当に見上げたものである。これまで、ユダヤ系で親イスラエル派のために誤解や中傷の攻撃に遭い、どれほどか悔しい思いをしながらも、機会さえあればメディア発言、暇さえあれば執筆作業などを続けることで自らを叱咤して来られた。そんなところへ、2012年の1月中旬、思いがけず、日本の私とインターネット上で知り合ったことが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120115)、本当にうれしかったようだ。今春のイスラエル旅行中は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)、支援者も含む英語圏の人々の手前、私とは意図的に距離を置いている節があったが、その前後のメールではとても喜び、何度も繰り返してうれしいと表現されていた。
レベルは異なるものの、それぞれに労苦を経ていなければ、この遭遇の意味はわからないであろう。