ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「変人」部類に威圧された経歴

以下の考察、日本向けの論としては、よく書かれているのでは?ただし、必ずしも新奇なものではない。
個人的に、私にとってありがたかったのは、「改宗者」が変人部類だという明言。実は、その「変人」さんに威圧されてきたのが、私の長い経歴だったと言える。かてて加えて「変人」に共感する「仲間の旅人」(fellow travellers)もいるから、タチが悪い。このブログを読み続けてくださった方達には、充分に汲み取っていただけるかと思う。だからこそ、パイプス親子先生と知り合えて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22The+Pipes%22)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%D1%A5%A4%A5%D7%A5%B9%BF%C6%BB%D2)、繰り返し歓喜していることも....。
(1)1990年代前半の計4年間、マレーシアに居住し、公の仕事に関わり、公的機関で勉強もしてきた私に対して、2000年代半ばのたった二週間の「マレーシア研修」から帰って来るや否や、勝ち誇ったように「マレーシアってこうでしたよ」「イスラームっていいですね」「教会も聖書も大丈夫でしたよ」などと、わざわざ教えに来る若い学生さん達がかなりいた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071018)。あたかも、参与観察と文献リサーチをしてきた私こそが間違っていたかのようだ。二週間程度の滞在や、ちょっと「イスラム科目」で単位を取得したからといって、「イスラームもわかったしぃ」と堂々と発言。何たる逆行、いや後退!だから、「変人部類」に囲まれて苦労した私の「人権」こそ、もっと尊重して欲しい!
(2)日本向けだから、これでもよいが、当然のことながら、英語圏や仏語圏などでは、もっと早くから観察および考察が積み重ねられている。アメリカは、ちょっと騒々しい単純な言説が前面に出ているので、それは避けるべきだが、しっかりと探せば、もっとよい蓄積が豊富にある。これは、無視すべきではない。
(3)現象のみに囚われずに、大きな世界史の潮流の中で観察し、位置づけ、考察すること。世界の聖書翻訳史を勉強してきた者にとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070705)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081014)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081016)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090427)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130718)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)、今までの自分なりの蓄積が非常に役立つ。

(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42062?page=3)


イスラム過激派はなぜ過激なのか?
「平和」な宗教がテロを生み出すメカニズムオバマイスラム国の戦争(その4)」
2014.10.27(月) 黒井 文太郎


(前略)
様々なベクトルの議論があって然るべきではあるが、その中で筆者が強く感じるのは、イスラム・テロを現代イスラム社会の現状から読み解く試みが、ほとんどスルーされているのではないかということだ。(中略)
筆者の立場は、現地取材でイスラムと出会い、イスラム社会と個人的な関係を長く持ち、テロリズム研究の視点からイスラムについて考察してきたというものだ。(中略)
まず圧倒的多数派なのが、近隣アラブ諸国、あるいはチェチェンなど、イスラムが根ざした社会の出身者だ。
 次に、欧米国籍者といっても、もともとイスラム系だったケースがある。欧米国籍者の多数派は、このカテゴリーに相当する。
 そして、前述したような改宗者のケースだ。このケースは非常に目立つが、数としては少数派である。
 問題はそれぞれの動機ということだが、改宗者の場合、事情は人それぞれだ。現実の人生の壁に悩み、なんらかの苦悩を経てという人もいれば、戦いたいという気持ちがモチベーションの人もいるだろう。いわば「変人」の部類であり、特殊ケースなので、それはそれで無視はできないが、社会思想という点ではそれほど重要ではない。
(中略)
日本の言説をみると、イスラム過激派の最大の供給源である中東イスラム社会への考察が非常に浅いように感じる。
(中略)
このような宗派間の抗争は歴史上いくつもある。しかし、現在、イスラム関連の抗争が多いのも事実である。それはなぜなのか? がもっとも重要な論点だ。
 1つには、中東の社会が、いまだ闘争社会だということが挙げられる。かの地域の多くは縁故社会で、部族や宗派などの共同体意識が強固にある。その共同体内部では同調圧力や相互監視が根強い。コミュニティは排他的になりがちで、それらのコミュニティ間の競争がある。イスラムの宗派は、この排他的コミュニティにシンクロしやすい。中東社会では、それが例えばスンニ派 vs シーア派のような宗派対立を引き起こしやすいのだ
 また、現在の世界が、キリスト教徒が主役の欧米先進国が主導権を握っているということへの反発も、イスラム社会の一部にはある。実際に欧米主要国は中東エリアに強い影響力を持っており、欧米人と中東人には格差がある。アルカイダなどは、中東の紛争に介入する米英仏などをしばしば「十字軍」と呼んでいるが、 そこにはこうした欧米による「支配」への反発・敵意がある。
 さらに、これはよく言われることだが、イスラエルの問題がある。中東イスラム社会と敵対するイスラエルアメリカが支えていることに対し、イスラム社会には強い反発・敵意がある。以上、このあたりまでは、中東問題の解説ではしばしば指摘されていることで、分かりやすい構図だ。
(中略)
しつこく繰り返すが、イスラムは危険な宗教だというのは暴論だ。しかし「イスラムは平和的な宗教だ」との綺麗事では済ませられない部分も、実際にある。それは、イスラムの排他性だ。
 例えば、本論考の第2回「イスラム国を力でねじ伏せなければならない理由」でも簡単に紹介したが、イスラムの絶対的な聖典コーラン」に、無神論者や異教徒に対する差別的で抑圧的な文言がいくつか書かれている。
 イスラムは、真理を知らない人々ということで異教徒の存在を認めているが、異教徒には上納金を要求するなど、寛容とは言えない教えもある。改宗の自由を保証しているが、実際には改宗を強く促しているといってもいい
 これは、イスラムがもともと後発の宗教だったからであろうと思う。イスラムが誕生した7世紀当時のアラビア半島では、多神教が多数派を占めており、少数派の一神教でも、すでにユダヤ教キリスト教が存在していた。イスラムはその同じ一神教の後発であるため、その教義では他の宗教の存在が強く意識されており、イスラムの絶対性・優位性が強く主張されている。
 それにはおそらく、そもそもイスラムは闘争社会で戦う軍団でもあったことも背景にある。預言者ムハンマドは共同体のリーダーであり、かつイスラム軍団の司令官でもあった。イスラムは共同体を団結させ、勢力を拡大する支柱でもあったのだ。
 もっとも、コーランには、無実の人間を殺してもいいというようなことは一切書かれていない。しばしば激しい口調の激烈な言葉が出てくるが、寡婦の救済など、弱者の利益に配慮する「優しい」文言もある。
(中略)
コーランの解釈はなかなか難しいもので、人間が行う以上、やはりそこに差は生じる。こうした解釈の違い、あるいはムハンマドの後継者の系譜などをめぐってイスラム社会は内部抗争を繰り返しており、それが同じイスラム社会の中の宗派対立に繋がっている。
 また、当時のアラビア半島は、人権意識ももちろん現代社会のレベルと同じではなかった現代社会に比べれば、これは当たり前のことだが、イスラム社会は当時の他の社会と同じ程度に、厳しいものだった。
 現代の世界で、イスラム過激派と分類される勢力の主流派は、この7世紀の初期イスラムを規範とすべしという考えである。いわゆるイスラム回帰主義、もしくはイスラム復古主義(サラフィー)だ。
(中略)
「サラフィー」のなかで、コーランの一部にある異教徒への攻撃的な文言を重視し、初期イスラムの戦闘集団的な性質を模倣するのが、イスラム国をはじめとする過激派だ。彼らは、彼ら独自の解釈による独善的な正しきイスラム共同体の実現のために戦うことを「ジハード」と考え、行動する。
 もっとも、こうした戦闘的な姿勢では、前述したように、その後の時代にそぐわないことも出てくる。そこで、後世のイスラム法学者たちは、平和な世とするために、解釈によって正しい人の道を示すものとしてきた。イスラム社会内部からの解釈の努力のある部分は、排他性や戦闘性を否定する努力でもあった
(中略)
このように、現代のイスラム社会というものは、ひとことで割り切れない曖昧さの上に成り立っている。ただ、現在のイスラム社会には、サラフィー的な感覚そのものに共感する人は、それなりに一定数はいる。純粋なイスラム共同体こそが理想であるとの考えだ。
(後略)

(部分引用終)