ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

直言にひれ伏すべし

以下の『産経』からのご叱責、全く同感の至り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141019)。
客観的に考えてみれば、私の世代までは受験競争も厳しく、まだ大学が大学らしき名残を漂わせていた最後の時期だった。だが、1997年頃には、誰の目にも学力低下が明らかになったと指摘され(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091125)、特に2003年の大学改革以降、研究会や学会でも、そもそも同世代やもっと若い人達と話が通じないことに気づいて、落胆していた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140315)。
ただ、いつまでもこのような風潮が続いていいはずがなく、いつかは大回帰することを期待して、自宅で勉強を続けている日々...。その方が幅広くじっくりと本が読め、人の追従ではなく、自分なりの立脚点と経験に照らし合わせながら考えられる醍醐味を味わえる。
そもそも、これも信州大学学長だった父方の大叔父(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100726)が随筆に書いていたことを、高校生の頃から読んでいたので、自然と身についた姿勢だ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)。

そのおかげなのかどうか、故郷ワルシャワにご滞在中のパパ・パイプス先生が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141027)、私に関する幾つかの質問を同行のご子息パイプス先生にされたと、今朝方ご連絡が入った。ありがたいことに、ダニエル先生は「嬉々として」答えた、とわざわざ書いてくださった。万歳!
いわゆる「狭い世界」のおかげでもあるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)、経験に基づいて本当に自分が考え、感じることに忠実であれば、このように、信じられないような不思議な出会いが、海や陸を超え、世代や国籍や民族や宗教や言語や経歴の違いを超えて、可能になるということだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140610)。それとて、私が院生時代に、専門外ではあっても下村満子氏の本を読んでいなかったら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140922)、ここまで劇的な出会いにはならなかったはずなのである。

産経』(http://www.sankei.com/column/news/141027/clm1410270001-n1.html
「基礎学」軽視の趨勢を憂慮する 東京大学名誉教授・小堀桂一郎


 本年度のノーベル賞物理学部門の受賞者が三人の日本人学者であつたことは、掛値無しにめでたき事件であり国民一同で祝福を献げたい朗報であつた。只、世の如何なる慶事にも探せば必ず陰の側面は見つかるものである。仮に一点の翳(かげ)りも無い浄福の事態が実現してゐるとすれば、そこには常に、ではこの至福がいつまで続くのか、これが過ぎた後はどうなるのか、といつた不安がつきまとふのが諸行無常の此世の宿命である。


 ≪荒馬の様な創造の才育つか≫


 此度日本の学問界に生じた慶事の場合にも、極めて虚心にこの栄誉に向けての祝意を表したいと思ふ感情の裏面に寄り添ふやうにして一抹の憂慮が浮び出てくる。それは右に記した連想の系ともいふべきもので、この後に続くだけの力を有する研究者は育つてゐるのだらうか、との疑ひを抑へることができない、その事である。
 何故この様な不吉な予想を敢へて筆にするのか−。今回受賞の栄を得たお三方の研究者は、世代の点から言へば我国の大学の教育研究体制が、その基礎部分に於いてなほ十分の安定と充実を保つてゐた時代にその修業時代を卒(お)へられてゐる。中で米国在住のお一人は、企業の研究体制の在り方に強い不満、といふよりは言葉通りの怒りを抱いて海外に去つた、所謂(いわゆる)頭脳流出の悲劇を地で行つた方の様であるが、それもその人の研究能力の充溢(じゅういつ)が企業体の有(も)つ包容力を遙かに超えてゐたからである。
 この世代の人々までは、我国の大学はさうした荒馬の様な創造の才を抱いた人材を育てるだけの教育力を有してゐた。それは基礎学の充実といふ堅固な基盤があつたからである。基礎学といふ表現は自然科学のみならず、人文科学にも社会科学にも適用すべき概念であつて、人文・社会系の学問の場合には教養と呼び替へてもほぼ間違ひはない。高度の先端的研究の芽を高く伸ばしてゆくには、先づこの基礎的教養の裾を広げ、地盤を強固にしておくことが不可欠の条件なのであるが、現今の大学の教育体制の中で最も憂慮すべき弱点がこの基礎学の軽視である。


≪教育研究職の余裕のなさ≫


 この傾向は、既に20年近い昔のことにならうか、大学院の重点化といふ形での大学の制度改革が進行し始め、国立大学が独立行政法人といふ経営形態を強ひられる様になつた頃から特に顕著になつた。簡単に言ふと教育予算の計上に経済効果を要求する事で、更に乱暴に言へば実益を生じ得る学問には金を出すが、投資への見返りがいつ生じてくるかわからない様な息の長い研究には予算をつけないといふ、近視眼的教学経営が現実に幅を利かせる様になつた。
 実を言ふと、今回のノーベル賞受賞研究が、基礎理論の部門に対してではなく、実用的な技術開発の成果に対してであつたといふ事についても、此が又基礎学軽視の風潮を助長するのではないかとの危惧を覚えるとさへ言ひたい。
 夙(つと)に現役を離れた身ではあるが人文系の学問の分野で現在の大学の教育・研究体制がどの様な状況になつてゐるか、見聞の機会は多くある。第一に挙げなくてはならないのが教員の負担過重である。制度改革以前には事務職に任せることができた多量の事務処理が、人事面での予算の削減故に単純に労働力の不足となり、その分業務は教員の負担にかかつてくる。そこから来る時間の不足は、教育上の手抜きは許されないから、結局教員の研究時間を侵蝕し、殊に若手の研究者を阻害する。その余裕の無さは又端的に研究業績の不足となり、それが若手研究者にとつては就職や昇格への障礙(しょうがい)となつて彼等を心理的にも圧迫する。之に加へて天下周知の少子化傾向、諸大学の経営規模縮小の動きはそのまま教育研究職のポストの減少、所謂就職難として表面化する。


 ≪将来考え学燈絶やすな≫


 かうした現象の結果として、教育研究職といふ卒業後の進路は、学部後期課程に在籍する学生にとつて要するに定職に就ける可能性の低い、危険な選択といふことになる。自然科学系の学生の場合は大学に残らなくとも、企業等の研究所に入つて専攻の研究を続けるといふ途が開かれてゐるが、文系の研究者にはその様な融通性を望めない故に、仮令(たとい)内心に学究への道に進みたい希望はあつても、生活の必要を考へて可惜(あたら)大学に残らうとはしないといふ傾向が強い。
 有能な人材はどの分野に於いても優にそれなりの能力を発揮できるのだから、広い社会的見地から見ればそれでよい様なものの、ここで筆者が憂慮に堪へないのが文科系基礎学の将来である。昔から文学部には学生の数よりも教授の方が多いといふ様な専攻者の稀少な学科はあつた。只国立大学といふ性格に守られてゐる故にそれらの学燈の絶える恐れはなかつた。現在の体制ではさうした学科は採算のとれない学問として容赦なく切り捨てられてゆくのが既に趨勢(すうせい)である。我国の学問の将来といふ大所高所から見て、地味な古典学の如き基礎学の軽視は実は甚大な危険である。今回の慶事に際し敢へて此事を一言しておく。(こぼり けいいちろう)

(引用終)