ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

全て相働きて益となれり?

パイプス親子先生とお仲間学者の膨大な著書のおかげで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140306)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140605)、この時期、知的枠組みの理解としても、精神的支柱としても、心理的バランスの上でも、どれほど助けられていることか。特に、西欧の知の膨大な蓄積と経験を知ると同時に、日本側の受容とその限界(および抵抗)を理解した上で、どこに自分が立脚しているのか、立脚すべきなのかを考えるプロセス全体の上で、ダニエル・パイプス先生との出会いは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)、何度も繰り返すように、本当に私にとって貴重だ。
1990年4月以降、自分が希望したわけではなかったマレーシアに派遣されたことがきっかけで、当初の予定以上に長く関わることになって、「アジア大好き人間」と勝手に想定されて迷惑この上なかったが、こうして「イスラーム国」問題が、日本のメディアおよびアカデミアでも派手な注目を浴びるようになると、自分のささやかな人生に生起した出来事も全く意味なしとはしない、と俄然思えてくる。
研究発表や論文からはみ出してしまうが、自分としては大事だと考えていた経験や思索や記録を、7年半ほどブログ上に綴ってきたことも、思いがけず、いろいろな方達のお役に立っているようだと、昨夕、ひょんなことから知った。
N氏との10年前の経験も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141017)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141019)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141023)、その頃、オアシスのように日本の論壇に登場された若き池内恵氏にお礼のお葉書を何度か送ったことも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)、私にとって、タイミングとしては適切だったのかもしれない。というのは、若い世代や最近になって初めて知るようになった人々より、先んじて経験をしているからだ。いくらIT全盛とはいえ、早ければよいものでもなく、年月の重みは、それなりに信認を付与する意味で重要だ。
では、以下にまた部分抜粋引用から。これをあまり繰り返すと、N氏の「宣教」活動の一端を期せずして担うことになってしまうが、とりあえず提示した上で、その後、一般世間はどう見ているかを、私のブログに対する反応の一部から示す。

朝日デジタル版』(http://digital.asahi.com


(耕論)「イスラム国」を考える 保坂修司さん、ポール・ロジャーズさん、中田考さん
2014年10月23日


イラクとシリアにまたがる地域で勢力を広げる「イスラム国」。空爆が続く一方で、日本の大学生も参加しようと試みた。そこにはどんな人たちが、どんな理由で引き寄せられるのか。


 ■境遇への怒り、暴力で解放 保坂修司さん(日本エネルギー経済研究所研究理事)
(前略)
イスラム国」は6月、指導者のアブバクル・バグダディ容疑者がカリフ(イスラム共同体の最高指導者)を名乗りました。オスマン帝国崩壊後の1924年から不在だったカリフ制再興という理想は、アルカイダムスリム同胞団など従来のジハード(聖戦)主義、イスラム主義組織も掲げてきました。それを現実のものにしたのです。


 同時に英仏などが第1次大戦中に定めた、イラクとシリアとの国境を「破壊」すると主張しました。欧米の価値観に反発を強めてきた一部のイスラム教徒の心をこうした主張はつかんでいる。だから次々に戦闘員が集まるのでしょう。


 そして、集まる戦闘員の多くは、様々な怒りを抱えるイスラム教徒たちです。「アラブの春」で独裁が崩れたリビアなど中東・北アフリカの国々は今も安定せず、多くの若者が職にも就けず、失望を深めています。欧米に移住したイスラム教徒たちも、イスラム教徒に対する差別への不満が根強い。


 こうした若者たちにとって、「イスラム国」に加わることは抑圧された境遇から解放されるための「一発逆転」の場と言える。例えば、自爆テロなどでは「イスラム国」が掲げる理想の実現というよりも、「殉教して天国に行くこと」が目的化している面が大きいと、私は見ています。


 本来、イスラム教は自殺を禁じ、無実の人を殺害することを認めていません。それにもかかわらず、暴力的な価値観が幅をきかせているのは、中東などイスラム教徒が多く暮らす地域で、多くの若者たちが疎外され、希望を失い、怒りや不満をたぎらせていることの表れだといえます。


(聞き手・山西厚)


・ほさかしゅうじ 専門はペルシャ湾岸地域の近現代史、中東メディア論。近畿大教授などを歴任。著書に「新版―オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦」など。


 ■挑発して欧米を揺さぶる ポール・ロジャーズさん(英ブラッドフォード大学教授)
(前略)
 イスラム教徒で「イスラム国」に魅力を感じる人々の数は、実際はかなり少ない。中東以外の地域からの加入も、大半はイスラム教徒か、ごく最近改宗した人物。どんな宗教でも改宗者には最も強い献身の動機があります。「イスラム国」はそこにつけ込み、新たな人生の意味を与えるのです。


 英仏などから合流した人数は200〜300人がせいぜい。しかも、欧州に戻ってきた大多数の者が「イスラム国」に幻滅しており、テロリスト候補とはいえなくなっています。
(中略)
 「イスラム国」には、極端なイスラム思想を持つ指導者たちがいます。彼らにとって、時間は問題ではありません。目標とするカリフ制国家建設のためならば、数十年単位で時間をかけることすら考えているのです。
(中略)
 一方、「イスラム国」が現実にカリフ制国家を作ったとしても、10年以上は持たないのではないでしょうか。彼らが望む完全な厳格さの下で住民を支配し続けることは無理だからです。


 2001年の同時多発テロを米国が「戦争」とみなし、裁判なしの拘束や拷問などを行った結果、中東世界には苦い感情が残っています。西洋文明を脅かすような脅威とみなされることを「イスラム国」はむしろ歓迎するでしょう。


(聞き手・梅原季哉)


・Paul Rogers 43年生まれ。国際紛争論、平和学。著書に「なぜ我々は対テロ戦争に敗れつつあるのか」など。英メディアで国際安全保障についてコメントする機会も多い。


 ■「平等」の理想、学ぶ価値ある 中田考さん(イスラム法学者


 シリアの「イスラム国」支配地域に9月初めに入りました。スパイ容疑で拘束された日本人男性の裁判での通訳を、「イスラム国」側から頼まれたためで、5回目の訪問でした。


 支配地域の「移民管理局」では、書類に、日本人ハサン(中田氏のムスリム名)と書くだけ旅券も確認されず、携帯電話使用も制限されませんでした。イスラム教徒の来訪は拒まず、入国が認められた人ならば安全に支配地域に入り、安全が保証されている印象です。


 5日間の滞在中に出会った戦闘員はドイツ生まれの白人、エジプト人など出身地や人種は様々。イスラム教が守られているという実感、自分たちの信仰を思うように実践できる喜びが共通していました。彼らも「イスラム国」のリーダーたちも「サラフィー・ジハード(聖戦)主義者」です。7世紀に完成したイスラム教の聖典コーランの内容を厳格に解釈し、実行するためには武力闘争を辞さないと考える。出身国では迫害され、居場所がありませんでした。


 預言者ムハンマドの後継であるカリフが「イスラム国」で再興されたことに世界史的な意義があると思います。イスラム教徒ならば国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」が、コーランの教えの核心です。富の格差を認めず、近代にできた国境にも縛られない。そうした理想を実現できる場所と期待すればこそ、世界中からイスラム教徒が「イスラム国」に集まるのです。


 ただ、集まった人々にカリフ制再興への実感は薄く、むしろ礼拝義務の励行や女性が頭を覆うヘジャブの着用など、コーランの表面的な規定を忠実に実現できる場が誕生したことを喜んでいるように見えます。


 支配地域で暮らす人々の99%はサラフィー・ジハード主義には無関心です。戦闘や空爆に巻き込まれて亡くなる人も多く、「イスラム国」支配に積極的に抵抗しないものの、迷惑に感じるような空気もありました。


 「イスラム国」に兵士として参加しようとしたとして日本の大学生が警察の捜査対象となり、私も事情聴取に応じました。警察官には「大学生が行けなくなって残念に思う」と答えました。日本は米国の同盟国でありながら、「イスラム国」に敵視されていない数少ない国の一つです。「イスラム国」で暮らし、世界との懸け橋になる日本人が一人でも多い方が、「イスラム国」や日本、世界にとって良いと考えるからです。


 暴力を肯定するサラフィー・ジハード主義の考え方は日本社会には受け入れがたいでしょう。けれども「イスラム国」での実現が期待されているイスラムの理想には学ぶ価値があると私は考えています。


(聞き手・山西厚)


・なかたこう 60年生まれ。カイロ大大学院で博士号取得。在サウジアラビア大使館専門調査員や同志社大学教授などを歴任。著書に「イスラームのロジック」など。

(部分引用終)

上記の展開に対する池内恵氏のブログを。

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-219.html


自由主義者の「イスラーム国」論・再び〜異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか
2014/10/23


今日の『朝日新聞』に、「イスラーム国」についての識者の発言が載っていました。


特に、「イスラーム国」に関して、当事者でもある、中田考さんの発言が注目されます。


まず、私は、世界にはこのような多様な考え方があるということを知ることは大切だと思います。
(中略)
朝日や岩波に載った、ということのみをとって、その意見が真であるとか権威的であるとか、特に知識業界に身を置く人たちが思う状況がかつてありました朝日に載った意見に反対すると学界で干されて大学で就職できなくなってマスコミ全般から干される、という恐怖を抱かざるを得ないような自縄自縛の状況がありました。しかし、それは過去のものです(と思いますが、そうではない業界がまだあるということも伝え聞いてはおりますがここでは等閑視しておきます)。
(中略)
そして一番重要なのは、複数の基準が世界には存在することを認めたうえで、自分が属す社会・政治共同体ではどの基準が適用されるべきなのか、よく考えることです。それは自分が生きていく社会を選び、その社会を自分も一員としてどう形作っていくかを主体的に考えて、発言し、行動していくことの、第一歩です。自分が属すと決めた(あるいは生まれ落ちて育ってそこ以外に行く場所がない)社会の基準を、さらに磨いていく営為に参加することで、われわれは本当の意味で社会の一員となるのです。


その過程で、異なる基準を持った人々の存在を、どのような論理で、どこまで認めるか(あるいはどこからは認められないか)も、考えていくことが必要となります。


政治思想とはそういうものです。思想研究というと、無意味に些末な点をこねくり回して人を煙に巻くことだと思われているかもしれませんが、本当はそうではないのです。人々が自分が属する社会の基準を認識し、守り、改めていくことを助けるのが政治思想研究です。自分の社会の基準とは異なる他の基準を持つ人々の存在を認識し、その論理を見極め、どの地点で折り合いがつけられるのか(つけられないのか)、指針を示すのも、政治思想研究の役割です。
(中略)
突飛な説を立てて超越的に自らの属する社会を否定したり他者に上から説教する根拠を得ようとして研究をしているわけではないのです。


なお、メディアというものも、社会の規範を読者が社会の一員として築き上げていくための場を提供することが、その本来の使命と思いますので、朝日新聞もやがてそのような役割を認識し、適切に担っていく作法を身につけていくことを、期待してやみません


さて、中田考さんは、今回のインタビューでも、嘘は言っていません。ただし日本社会の大多数の人が想定しない(したがらない)前提に立って言葉を用いているため、正反対に意味を受け取る一般読者、あるいは知識人がいるかもしれません。また、逆に、日本社会の多くが決定的に忌避・拒絶するであろう点については、寸前のところまで口にしながらも、触れていません。ご本人があえて触れなかったのか、記者が自粛あるいは善意で紙面に載せなかったのかは、分かりません。
(中略)
気になるのは、「イスラーム国」の参加者が、「迫害され、居場所が」ないがゆえに参加したとされることです。ここではそもそもいかなる事例を挙げての議論か分かりませんので、実証性を議論することはできず、中田さんの「意見」「主張」にとどまるというところがありますが、これが中田さんの意見だとした場合、中田さんが認定している「迫害」とは何のことでしょうか?


もし、「迫害」の原因が、「イスラーム国」に参加する人たちの信仰なり行動なりが、ジハードによって他者を武力の下で支配下に置くことを目指す活動、あるいはその宣伝だったのであるとすれば、西欧社会に居住していれば、西欧の市民社会の規範に反し、西欧諸国の法に反するので、社会の中で白眼視されたとしても、あるいは警察・司法当局のなんらかの捜査や訴追の対象となったとしても、それを一義的に「迫害」すなわち不当な行為ととらえることは、西欧諸国の規範・法制度上は適切ではないでしょう。むしろ、西欧諸国では当然に課される制約を課されたということではないでしょうか。もちろんその制約を課すための手段は、適正な法的基準の枠内にとどまることが求められるのは言うまでもありません。
(中略)
もちろん中田考さんが、イスラーム法学の観点から、いかなる理由であれ、世俗の国民国家の法などの、イスラーム教に基づかない社会規範によって、ジハードに制約を課すことは(イスラーム法上)違法であると考えておられることは、ほぼ確かなものと思われます。


しかし西欧諸国にもイスラーム法が適用されるべきだと言う中田さんの主張(あるいは暗黙あるいは明示的な前提)は、西欧社会においては、妥当ではないでしょう。
(中略)
なお、これは記者のまとめ方、デスクの論点の立て方に難があり、実際には中田さんはアラブ諸国あるいはイスラーム諸国で政権に対してジハードを行なったうえで弾圧され、シリアやイラクに流れ着いた勢力のことを言っているのかもしれません。その場合は、イスラーム教が支配的価値観であり、憲法にもイスラーム法が世俗法を超越すると規定されているにもかかわらずイスラーム法を施行していない政権に対するジハードは正しく、それを制約する政権の施策は違法であると中田さんがとらえていることはほぼ確実です。
(中略)
記者の固定観念から、すべて西欧諸国の事例を意味していると思い込んで「迫害」と記したのかは不明です。


シリア・イラクでの「イスラーム国」をはじめとした武装組織へ流入する義勇兵は、大多数が近隣アラブ諸国からきているという事実は、日本の報道では忘れられがちです。大多数は、「アサド政権が国民を弾圧しているからジハードで打倒する」というシンプルな論理で参加しているものと見られます。そこには「反欧米」という契機は希薄あるいは二の次なのです。ですが、日本では、これが反欧米の運動として理解され、であるがゆえに反欧米論者によって熱く期待されもするという状況があり、メディアはそれに大きな責任を負っていると考えています。もちろんメディアに気に入られるような説を、巧みに空気を読んで提供する研究者にも問題はありますが、記者がきちんと選別できれば歪んだ議論は紙面に載ることはないのです。


なお、私の推測では、中田さんであれば、ジハード戦士が西欧から来たかアラブ諸国から来たかはあいまいに、一緒にしてしゃべると思います。同じ一つのイスラーム共同体(ウンマ)なのだからどこから来ようと同じだ、ということではないかと思いますが、信仰の立場からではなく、政治学的に分析するのであればこれらは分ける必要がありますし、メディアもきちんと分節化する必要があります。
(中略)
なお、日本でこの記事を読んで中田さんあるいは「イスラーム国」またはその背後にあるとされる理念に共感していらっしゃる方々は、「国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」」という部分のみ捉えて、行き詰った近代国民国家に対するイスラームの比較優位性と受け止めていらっしゃる可能性があります。記事のタイトルでも「平等の理想」とのみ記されていることもあって、「イスラム教徒であれば」という留保を中田先生がつけておられることを見落としていらっしゃる方もいるかもしれません。そのような方がもしいらっしゃるとすれば、そのような理解は、少なくとも中田さんが念頭に置いている議論とは、少し違う、ということを、知っておいた方がいいと思います。


もちろん、誤解や想像や思い入れを含めて、あらゆる信条・信念を持つ自由が日本では保障されています。
イスラーム世界では、イスラーム法が適用される限り、異教徒がイスラーム教徒と平等で差別されない権利は、認められません。これは穏健とされる法学者の解釈でもそうです。そのため、サウジアラビアだけではなく、エジプトでも、その他大部分のイスラーム諸国でも、異教徒が教会・礼拝施設を作ることは明確に禁止されているか、極めて困難です。もちろん、イスラーム教徒に対して異なる宗教への改宗を働きかけることは明確に違法であり、イスラーム教徒の目に触れるところで明確な信仰行為を行うことも認められません。あからさまに異教、特に多神教の宗教的象徴を身にまとうことも、身体・生命の危機を覚悟しなければならない行為です。
(中略)
もちろん、世界のイスラーム教徒が差別主義者であるとここで言っているわけではありません。多くのイスラーム教徒は、穏健な解釈に従って、ユダヤ教徒キリスト教徒といった「啓典の民」であれば「庇護民」として、(本来であれば)異教徒に課される人頭税を払えば、宗教を維持したまま生存を認められるがゆえに、イスラーム教は寛容であると信じており、実際に友好的に接してくれます


多神教徒については、「啓典の民」に入らないことから、その法的立場は脆弱ですが、実態としては近代世界においては仏教徒なども、啓典の民同様の分類をされ、少なくとも戦争状態にない平時においては、生存を許されています。つまり、原則としては不平等だが、実態としては不平等はそれほど徹底されてはいないのです。


(1)西欧に端を発する近代の「原則として平等だが、社会の実態として平等ではない場合がある」社会と、(2)イスラーム法に依拠する「原則として不平等だが、社会の実態としてはそれほど不平等ではない場合がある」社会では、どちらが優れているのでしょうか。


その判断は信仰によって異なります。日本では、西欧社会とほぼ同様に、(1)が優れているという人が多いのではないかと思います。


しかし世界は広く、(1)の状態が望ましいと信じない人が多数である世界もあります。イスラーム教を信じる人々にとっては、アッラーの示した絶対普遍の真理を護持することが第一の優先事項ですので、(2)の、原則としての不平等は当然とされます。
(中略)
なお、歓待されて過ごしてもなお改宗をしないことを不審がられ、嘆かれることはあります。長期間にわたってイスラーム世界に滞在し、イスラーム教について学びながら、なおも改宗しない場合は、改宗する意図が最初からない、すなわち悪意があるという嫌疑がかけられる場合もあり、あるいは自明の価値規範を認識できない、何らかの欠陥のある人物と疑われる場合もあります。


世界は広いのです。そのような世界があると知ったとしても、拒否しないでください。非難しないでください。それは状況によっては「迫害」あるいは「誹謗中傷」と受け止められる可能性がありますので厳に戒めてください


私自身は、少なくとも日本国内では、「原則としては平等」が社会の規範であるべきであり、社会の実態もそれに極力近づけていくべきであると考えています。
(中略)
実態として平等ではないではないか、という批判から、あるいはもっと漠然とした社会に対する怒りから、「原則として不平等」という規範の方が優れていると主張することは、破れかぶれの暴論や、面白半分の極論でないのであれば、矛盾です。そもそも不平等を批判する根拠を放棄したことになるからです。


イスラーム教が正しいからそれに及ばない宗教は制限されてしかるべきだ」と主張するのであれば、信仰の表明ですから、尊重されるべきであると思います。ただし異教徒への権利の制限を実際に施行することを主張するさらには行動に移さない限りにおいては。


自由社会を守るとは、自由な社会を可能にしている規範がどのようなものかを熟知し、それを維持し刷新し、それによって、極力多くの、多様な価値観を持った人たちを迎え入れることを可能にしていくことです。日本は法制度上は自由ですが、市民社会の実態としてはその自由が徹底されているとは言えません。それは国・政府による直接の自由の侵害に由来するというよりは、相互監視・同質化を迫る社会の側に多くを起因しています。


また、自由な社会において、異なる規範を持つ他者をどのような形で受け入れるか、基準が社会通念として定まっていません。他者を受け入れるためには他者の護持する規範も知らなければなりません。そのためには、他者の規範の、自分にとって心地いい部分だけを知るのではなく、自分にとってきわめて不都合なこともある、想像もしない別の論理によって、他者の社会が成り立っているということに気づかされるのも必要です。


日本では、他者の規範とは、日本社会への不満、あるいは日本社会の権力構造の背景にある米国への不満を表出するための憑代として、断片的に導入され、かつ短期間に次の流行の憑代が現れるために、すぐに忘れ去られる傾向があります。


しかしイスラーム教のような力強い世界宗教は、一時的に日本で都合のいい部分だけが取り入れられ、後に忘れ去られたとしても、それとは無関係に続いて行きます。グローバル化によって、情報化の進展によって、日本をイスラーム世界から閉ざしていることは不可能です。


イスラーム国」の台頭によって、本当の意味での、生々しい他者の存在を、その理念を、日本は目にし始めています。

(部分引用終)

例によって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)、若い世代だからなのか、丁寧過ぎるというのか、予防線を張ってなのか、積年の思いの丈が溢れたというのか、随分長々と説明されているけれども、これは「多様な価値観が共存」する社会の弊害かもしれない。本来ならば、五つの文くらいで要約できてしまう内容だと思われる。
それでもまだ不足だったようで、フェイスブックにもニュアンスを変えて追加を。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf


イスラーム国」に関連して、またも朝日新聞で中田さんが登場。宣教活動フル回転ですね。近代社会を成り立たせる自由で平等な規範の根拠には自由主義がありますが、イスラーム教はその自由主義の重要な部分を否定しています。そのような思想・信条を信じ・語る自由を自由主義は認めます。ただしある制限の中において
 こういった当たり前のことを、なぜ西欧政治思想が専門の先生方は発言しないんだろう?当たり前すぎて言ってもカッコ良くないから?また、西欧諸国でのイスラーム教徒のへの「迫害」とされる制限についても、一部にはもちろん差別や偏見や格差の問題がある可能性があるが、自由主義の基本的規範をあからさまに認めない人々が出てきたからそれを規制する動きが出てきているということを、なぜ考慮しないのだろう。思想研究者としても、西欧地域研究者としても、失格なんじゃないか。そもそも西欧政治思想研究者は地域研究者という意識がないから、テキストだけ読んでいて、それがどう現実社会の規範として生きており刷新されているかを忘れがちなのではないか、と思う。

(部分引用終)

そこへ、N氏が実名でコメントを寄せられた。「自粛中」ではなく、一応は公開情報と解してよいだろうか。学的業績の発展はもちろんのこと、一貫した態度において、10年前と基本的には変わりない。だから、あの頃の私の何とも息苦しい窒息状況は、まさに、この両者の見解の間に挟まって藻掻いていたということなのだ。

 ご活躍、同慶の至りです。貴兄の文を読んでいると、知的誠実性の重要さ、を再確認させられます。日本のオリエンタリズムもそういう段階にはいった、ということでしょう(まだ、それ以前の啓蒙段階のような気もしないでもありませんが)。
 一点だけ、事実認識の誤りを訂正しておくと、私は、西欧は言うまでもなく、ムスリム社会でもカリフ制が再興されるまではイスラーム法は適用できない(ので当然すべきではない)、という立場です。
 この点において、私はイスラーム国家とカリフ制を連続的にとらえるムスリム同胞団、アルカーイダ、イスラーム国とは違い、カリフ制以外には、いかなるイスラーム的に正当性を有する国家も認めないHizb al-Tahrirの立場に立っています。これは拙著『イスラーム革命の本質と目的』の78−79頁でめいげんしており、その英語版、インドネシア語用版アラビア語版でムスリム世界に対しても発信してきたことです。(中略)(私自身を研究対象にするならスーフィズムも不可欠ですが、そんな気はないですよね)。(中略)これはサラフィー・ジハード主義者の内部で参与観察したことがない外部者には難しいことは難しいですが、知識と知性と良識を総動員すれば克服できない困難ではないはずです。
 貴兄には不本意かもしれませんが、この場に乱入し、「宣教」に利用させてもらったこと、お詫びいたします。今後も精進されますように。アッラーのお導きを。

(部分引用終)
「解放党」の‘Hizb al-Tahrir’もN氏からサシ会話で10年前に聞いていることであり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)、スーフィズムについても、ダニエル先生がとうの昔にちゃんと言及されている上(前者の拙訳は(http://www.danielpipes.org/12135/)(http://www.danielpipes.org/12578/)(http://www.danielpipes.org/14420/)を、後者の拙訳は(http://www.danielpipes.org/11572/)(http://www.danielpipes.org/12189/)(http://www.danielpipes.org/13749/)(http://www.danielpipes.org/13782/)(http://www.danielpipes.org/14978/)を参照)、私のマレーシアの研究テーマである英国人キリスト教宣教師シェラベアにも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080803)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100729)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111213)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%B7%A5%A7%A5%E9%A5%D9%A5%A2)、スーフィーに関する論文がある。ただし、シェラベアの解釈および、彼の活動の現代文脈における意味には、私なりの見解がある(http://jams92.org/pdf/NL22/22(44)_tsunashima.pdf)。 
そこで「じゃぁ、なんで今まで何も書かなかったの?」と詰問する人達がいるが、池内氏の主張とも重なる、何とも言えない抑圧的な威圧感をつくっていたのは誰なのか、と問いたい。当世流行の学問の潮流(例えば、「パラダイム・シフト」「脱オリエンタリズム」「脱植民地主義」「カルチュラル・スタディーズ」など)に沿わなければ、何も言わせてもらえないじゃないですか、と。(「そんなものはありません」と明言したところ、「女性は強い」と二度繰り返して褒めてくださったのは、やはりご年配の教授先生であった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070918)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081027)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091029)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110519)。そして、あれほど一途な学究肌で、学歴も論文業績も社会貢献も卓越しているのに、ダニエル先生がアカデミアを嫌って去った理由は、まさにそこだった。彼の場合は、さすがアメリカなので、自分が望むようなジャーナルを発行し、人々に呼びかけて資金を集めてシンクタンクを立ち上げた点が、やはり凄いと尊敬する。)
長くなったが、では一般世間(日本)では、私のような遅々とした歩みと経験と考察を、どのように見てくださっているのだろうか。昨夕たまたま気づいた点について、ほんの一部を列挙する。

1.『トーキング・マイノリティ』(http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/aa1c0a713daf155a2ad2e624378ed398


2007-01-11:「イスラムの寛容」のコメント欄


イスラエルすらマシ・・・中東の教科書 (クルト) 2014-06-08
調べましたが、未だにあのイスラムマンセー教育継続中だそうです。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080517
このサイトに転載されている調査によると比較的マシな教科書は、あの全方位が敵のイスラエルアメリカが目の敵にしていたイラン等だそうです。(中略)後このサイトは、イスラム側のキリスト教の偏見や棄教者の話もかなり書かれているので興味深いです。


RE:イスラエルすらマシ・・・中東の教科書 (mugi)
2014-06-08
>クルトさん、

 興味深いブログ記事の紹介を有難うございました!ここで取り上げられた中東の教科書はイラン、エジプト、サウジ、シリア、パレスチナの5か国でしたね。サウジは予想通りですが、一応社会主義体制のはずのシリアも相当でした。(中略)イランは案外マトモでしたね。「さすがはペルシャ語圏だけあってか、格段に非イスラーム諸宗教に対する記述や法的‘寛容’が見られた」のは結構です。(中略)予想外だったのがマレーシア。マレーシアでの宗教間対話で、マレー人代表者が「どうして地獄へ落ちるとわかっている人々と対話なんかしなければいけないんだ」と公言していたとは。端正な身なりの礼儀正しいマレーシア人留学生が、「日本留学の目的は、イスラームを広めることだ」とわざわざ言いに来たそうですね。
 また、来日講演するムスリム関係者の中で、比較的キリスト教に好意的な発言をする人の実態も驚きました。これに騙される日本人クリスチャンも多いでしょう。宗教間の対話とやらで有頂天になり、一般日本人に訓辞する耶蘇の得意顔が想像できますね。

このmugiさんは、N氏についてのストレートな感想をブログで書いていらした。何年も前に知ったが、私とは見解を異にするものの、何だか理解者が現れたように思い、うれしかったのを覚えている。確か仙台在住で、とても読書好きな女性だ。もしかしたら、私と同世代ではないだろうかと想像する。
(ユーリ後記:当時のツィッターから関係箇所を以下に転載)

https://twitter.com/itunalily65

28 Nov 2011
今日の午後、中東に関心があるという東北在住の日本語ブログを見つけた。読書好きのようで、かなり臆せず、自己の見解を表明されている。てっきり男性だと思って読み続けていたら、新年のご挨拶のところで「私は女性です」と断り書きがあり、突然、目が覚めた。多分、私と同世代か少し上の方だろう。

28 Nov 2011
ここまで書いたので、アドレスを明らかにすると、(http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/4140ccb5b6211881274dc9eed6314ee7 …)。今から思い出せば、あの混沌とした内的葛藤の日々が、何とも懐かしいような、なるべくしてなった結果だったというのか。このブログ主さんも、今だから書けるということもあるのかしら?

2.(http://mimizun.com/log/2ch/whis/1194522663/


482 :世界@名無史さん:2008/01/16(水)
マレーシアではカトリック新聞に「アラー」が使えない。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080108

驚く勿れ、2014年時点でも論争が続いている。それだけで人生を消耗する。「多文化共生」の実態はこれ。

3.(http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6451&id=50384006


[41] 2010年02月28日 mixiユーザー
ほんとだ。
しかしこの人ってずいぶん以前から名前は出てたんですね。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080913

「この人」とは、棄教した元ムスリムのことで、私のことではない。

4.(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442766629

yamadashoeiさん 2010/6/25
バルナバの福音はどこで手に入りますか?


ベストアンサーに選ばれた回答 secular2004jpさん 2010/6/26


たまにイスラム教徒がもちだすけど価値がないから新約外典に入れて研究するということはない。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080611

この「バルナバ福音書」の話も、マレーシアで見つけたマレー語と英語で書かれた小冊子がきっかけ。その後、英語の論文や著書で詳しく勉強した。

5.(http://ameblo.jp/azianokaze/theme3-10031982256.html


両者の関係については、“ギュレン運動とAKPの双方は西側に対し、自分たちが「過度にイスラム主義的である」と見られないよう努力している。このため、双方は互いに距離を置く道を公に採り始め、また、そうした亀裂を利用して、一方が他方より一層プラグマティックであるように見せようとしている。”
【「ユーリの部屋」 2010年10月11日“トルコのギュレン運動”http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101011 】とも指摘されています。

はい、ギュレン運動は、マレーシアの研究途上で知った次第。だから、ダニエル先生とも深く関連する(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130718)。

6.(http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/203.html

ナハル・アル・バレド難民キャンプでの戦闘から三年半:レバノンパレスチナ難民
投稿者 妹之山商店街 日時 2011 年 1 月 18 日


パレスチナ問題について
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090819

このサイトがおもしろいのは、実は過去に、ダニエル先生のお仲間サークルを「ネオコン」「シオニスト」などと非難していたからだ。

7.(http://www.logsoku.com/r/news/1303404544/


130 : 名無しさん@涙目です。(東京都) 投稿日:2011/04/22(金)
>>121
東欧いい音楽家一杯いるね。クレーメルも震災後に来日してた。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110411
クレーメル氏は「こんな時こそ日本へ行って力になりたい」
と来日を希望しておりました。チェルノブイリで被ばくし
亡くなった知人がいるとも聞いております。
131 : 名無しさん@涙目です。(長屋) 投稿日:2011/04/22(金)
妥当な判断だな

クレーメル氏が、リガ出身のユダヤ系だということは大切なポイント(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121101)。

8.(http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1333776040/117


117 :神も仏も名無しさん:2012/04/16(月)
>>113
ムハンマドをメシア扱いするイスラム教本は偽書バルナバ福音書」だったはず。
書いた人は一応中世の改宗ムスリムらしいが、イスラム教そのものとズレた部分もあるようだ。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080611

これには別サイトに「コピペ」があり、そこでは「出所チェック」とあったが、私は全て、文献資料と自分の体験に基づいた思考しか書かない主義だ。

9.(http://tablet2ch.com/2c/n/psy/1344667075/link


>>629
イスラム教徒たちも「イスラム教はもはや時代にそぐわない」ということに気がついているはず。
だから然るべきときに然るべき人が、イスラム教を改正すれば良い
646 2012/10/01 19:31 神も仏も名無しさん
>>632
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/
↑のブログをゆっくり読み進めてくれ
彼らがどれほど自身の宗教に自信満々か
よくわかるよ。
その勢いに押されて息がつまりそうなブログ主の気持ちもね
647 2012/10/01 22:18 神も仏も名無しさん
>>646
わかった

まさか、2チャンネルで、こんなに的確に理解してくださっている人々が、私のあずかり知らぬところで会話していたとは...!「わかった」って、本当?

10.(http://2ch-archives.net/uni.2ch.net-newsplus/10-1394938023/


48 : 名無しさん@13周年@転載禁止2014/03/16(日)
というかアンネの日記なんてニュースにならない時代に
点と点がつながるフシギ。。。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140304
犯人捕まる前に福山市御幸町の展示館に言及するサイト、洞察力鋭い?

いろいろな話題で書いておいてよかった。点と線はつながっているんですよ!

11.(https://www.2chdb.net/thread/response/b/2chsc/ts/ai/tp/newsplus/r/1413095628


421:名無しさん@13周年 2014/10/12(日)
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080415
イスラムには宗教として決定的な欠陥があるのかもしれない。
イスラムを棄教する人々もいる。
ISISを見ると、オウム以上の狂信だ。

今年の3月頃、ダニエル先生が「イスラームは、13世紀で他者から学びつつ、発展していくことを止めた」とメールで教えてくださった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140704)。また、ユダヤ教キリスト教がしているような、高等批判としての聖典研究がまだ許されていない。だから、イスラーム起源そのものの探究も、実は現代教育を受けた我々の一般常識で推し量れないほどの厳しい制約が伴っている。棄教者への迫害は、到底容認できないものである。
(終)
他にも、一つのテーマに絞って、このブログの幾つかを列挙し、勉強の参考にしたいとリストを作っている人もいたが、割愛した。ダニエル先生の拙訳も、名前を出してそのまま披露されているサイトがあった。ありがたいことに、訳がまずいとか、日本語になっていないとか、そんな悪口も全くなかった。また、英語ブログの方も、おかげさまで海外からそれなりに反応がある。ツィッターでリンクがあり、メールで連絡が来ることも少なからずある。ただし、申し訳ないが、こちらからは返答しない。
幸いなことに、炎上に至るような非難合戦は、とりあえず見つからなかった。暇つぶしに書いているつもりは全くなく、このような方法を活用して、一つの考える参考材料として貢献できればと願っている。