ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『異端者と呼ばれている私』(5)

Jessica Stern氏の『神の名におけるテロ』を一週間かけてようやく再読し終えました。ケネディ・スクールでStern先生は、「このテロリズムのコースは、きついし混乱するものなのですよ」と学生さん達に警告するそうですが(p.135)、本当に、この一冊だけでも、日課を中断するほど疲れる重い読書でした。ただし、一般向けの研究紹介書の書き方としては、非常に勉強になり、参考にもなりました。それに、ところどころに女性らしいきめ細やかな観察や心情が表れていて、ムスリムのテロリストに会う時のスカーフや服装の話、そして飲食を提供された時の恐怖心などの記述も、とても興味深かったです。テロリストとの面談では、お金は渡さないけれど、お土産にはハーバード大学のペンを渡したと書いてあるところなども、2005年8月に私も同じペンを買ったので、根拠なく親近感(?)がわいてきます。
このところ、中東やイスラーム関連の本に集中していますが、あくまで、自分の研究テーマを他方面から見つめ、揺さぶる訓練のきっかけとしてです。そもそも、ハーバード大学CO・OPでこの本を買うことに決めたのは、(1)一階の目につくところに置いてあったこと(2)マレー語聖書翻訳やマレー語のキリスト教文献で、「神の名」が1980年代以降今に至るまで、継続的に問題視されるために一つの参考にしたかったこと (3)ペラペラとページをめくった時に、「マレーシア」という文字が目に入ったこと(p.208, 259, 278, 353)などからです。インデックスには「マレーシア」の表示がないのに、目にとまったのは今でも不思議です。

ところで、このところ、キリスト教に改宗した元ムスリムのエジプト系アメリカ人の著作2冊を同時平行的に紹介しているのには、意味があります。Jessica Stern氏が、同書で次のように記しているからです。「エジプト人の助けなしに、アルカイダは大使館爆発や9.11同時多発テロ事件をやりとおせなかっただろう。エジプトは、長くムスリムの宗教復興運動の中心地であったからだ。」(p. 356)
つまり、エジプト社会の内側にいた人が、アメリカとキリスト教といういわば対照的な‘外’の世界に出た時に、アメリカで発生した9.11のような事件ばかりでなく、ムスリム社会そのものをどのように解釈し描写し、外側の人々に伝えようとするか、がポイントとなるのです。もちろん、その動機が重要です。私の見る限り、お二人とも、出身国の状況を心から憂えていることと、改宗したクリスチャンとして何とかしなければならないという使命感を持っていることがうかがえるように思います。
それでは、今日で終わりにする予定ですが、Nonie Darwish氏の著作から、非ムスリムとの関係や状況を描写した箇所を以下に列挙しましょう。訳しながら入力していくうちに、なんだか次第に、かつて韓国に連れ出された金賢姫北朝鮮に関する手記を読んでいるような気分になってきました。また、アメリカの状況については、映画『ワールド・トレード・センター』や『ユナイテッド93』を見た時の心理を思い出させます。

・ガザでの私達の教育は、恐れ、怒り、ジハード(闘争)、極端な批判、そして他の諸宗教との張り合いを植え付けるものでした。(p.10)
・英国風カトリックの聖クララ校では、午前中、修道女から文学や科学や数学などを教わりました。午後になると、カトリックの生徒達はカトリックの宗教指導を受ける一方で、イスラーム教師がやって来て私達にコーランを教えました。イスラーム教師は、コーランから章句を暗記させ暗唱させました。そして、どのようにして、不信仰者との戦闘でアラーがムハンマドに勝利をもたらしたかという物語をしました。その後、私達は教室に戻り、親切で優しい「不信仰者」の修道女達から指導を受けたのです。(p.18)
・私は、外国から来て、違う宗教を持ち、異なる言語を話す人々の間で、愛に囲まれてとても心地よさを感じていました。(pp.18-19)
・私は普段、父を私から取っていったジハードという考えそのものに深い憤りを感じていましたが、それを隠し続けていました。(p.23)
・私の家に来たイスラーム長(シェイフ)が、貧しい人の状況はアラーの意志なんだと教えたのに対して、学校では修道女から貧しい人々に対する非常に異なる見方を教わっていました。多くの、特にカイロの裕福な住民が見下げるような人々のことを、修道女達が気にかけているのを見て、びっくりしました。(p.35)
・エジプトの多数派はムスリムですが、ユダヤ人、アルメニア人、コプトキリスト教徒、ギリシャ正教会、その他の人々もわずかながら人口を占めていました。何世紀もの間、カイロとアレクサンドリアは、多様な文化の影響を受けるコスモポリタンの中心地で、多くの芸術家や知識人の故郷でもありました。多くのユダヤ人は、1950年代にエジプトから追い出されました。中には、1956年の戦争後に、スパイ行為の非難を受けた人もいました。(p.37)
・2000年近くの歴史的な紐帯を持つコプトと呼ばれるエジプトのクリスチャンは、ナセル大統領の社会主義と過激なイスラームの影響に苦しみ始めました。嫌々ながらも、多くは西洋へ移住することを選択したのです。歴史的に、コプトムスリムよりもより正統的なエジプト人だと考えられてきました。7世紀のアラブ人のエジプト侵攻の時、イスラームへの強制改宗を拒否した人々だからです。言うまでもなく、コプトは二級市民の地位や軽蔑的な名前に耐えてきました。エジプト人口の15%を占めていたコプトは、今では10%以下に縮小しています。1950年代の終わりには、多くのアルメニア人やギリシャ人は事実上、西洋への移住を始めました。(p.38)

・その多くはエジプト系ユダヤ人であった才能ある人々が国を去って行くと、かつては世界級だった映画産業は悪化しました。(p.39)
アメリカン大学での社会学と人類学の勉強は、非ムスリムの国々を裁き、不寛容である私の属する文化と鋭い対象をなしていました。アメリカン大学でさえ、イスラエルはタブーの話題で、決して議論されることはありませんでした。恐らくはエジプト政府を怒らせないためでしょう。(p.48)
エルサレムユダヤ教キリスト教という二つの偉大な宗教の源泉であることも理解していませんでした。イスラームが始まるよりずっと前から長く存在していた宗教なのに、です。私達が教わったのは、ムハンマドが最後の預言者で、ユダヤ教キリスト教と違って、イスラームは壊れていない真の宗教なのだということです。「シオニスト」とは、ムスリムの土地をのっとって壊すような、外国の不信心な侵略者だと教えられました。だから破壊されなければならないのだ、と。(p.49)
エジプト人女性が外国人と結婚するなら、イスラーム改宗したとしても、夫は市民権をもらえないのです。西洋人のクリスチャン男性と結婚している西洋在住のムスリマは、ムスリム共同体からその事実を隠さなければなりません。一方で、ムスリム男性がクリスチャン女性や外国人と結婚することは、イスラームを広め善き業をしているとほめられるのです。(p.77)
・ある時、テキサスに住むムスリムと結婚したアメリカ人女性からメールをもらいました。私がいかに間違っているかと書いてありました。彼女は夫を喜ばせるのが幸せで、イスラームは自分の人生にもたらされた最上のものであるというのです。数ヶ月後、同じ女性からメールが来て、夫とその家族に対する不平を述べ、私に助言を求めてきました。結局わかったことは、夫が彼女の名前を語って最初のメールを送ったらしいということです。その後、彼女は離婚し、元の家族とテキサスの教会に戻りました。(pp.78-79)
・カイロでクリスチャンの女友達の家を訪問した時、近くのモスクから過激な説教が聞こえてきました。「神の敵である不信仰者達が破壊されますように。不信仰者とは友達になるべきではなく、契約を結んでもならない。アーメン」。友人は驚愕したように見えました。私は恥ずかしくなりました。だんだん、何かがとても間違っていると悟るようになりました。(p.99)
コーランイスラーム以上に神聖なものはなく、分析や批判から守られなければならないものはありませんでした。ムスリムは、もしそうされたら、暴力的に怒り出しかねません。(p.122)
ロサンジェルスでは、家族全員で移住した多くのコプトエジプト人の家族に会いました。いじめを受け、口を閉ざすように訓練されてきたエジプトで、差別の年月を生き抜いてきた人々です。アメリカでは、新しい自由を楽しんでいるようでした。子ども達には、早く英語を話し、誇りのあるアメリカ人になるよう、学習を奨励していました。しかし、もはや抑圧されたマイノリティではないのに、彼らは中東のクリスチャンとして抑圧された過去を語るのをいまだに恐れています。エジプトのコプト教徒は、聖書の一部としての旧約聖書を教えません。私は、ある種の反セム主義があるのに気付きました。でもそれはもっともなことです。エジプトでは、ユダヤ人を憎み恐れる教えを吹き込まれてきたのですから。中には、我が身にふりかかった昔の迫害が、聖書の中のエジプトでのユダヤ人の経験に何と近いかに気付いているコプトの人々もいます。中東でのキリスト教会への暴力ニュースを聞いた時、あるアラブ系クリスチャンが言いました「まずはユダヤ人、次はクリスチャンね」と。エジプト系コプト移民が、中東におけるコプトの人々や教会に対する暴力のニュースを聞いても、いかに静かな調子で話すかについて、私は今でも驚いています。アラブ系クリスチャン達は、静かに苦しむのに慣れてしまっているので、ここアメリカですら、静かにひそかな声でのみ、中東のクリスチャンの悪化していく状況について語るのです。(pp.127-128)
・カイロのアメリカ大使館で、元同僚だったムスリムのエジプト女性の職員が、私を応接間に連れ出して尋ねました。「あなたのコプトの夫はイスラーム改宗したの?」「本当に改宗したのね?」「彼はイスラームを実践しているの?」元同僚は、期待したようには丁重でも友好的でもありませんでした。アメリカ政府のためにアメリカ大使館で働いている彼女が、私にそんなことを聞く権利はないのに。アメリカの基本原則を破っていると私は思いました。(p.129)
イスラームは、私達の遺伝子に組み込まれたアイデンティティだったのです。他宗教についての知識さえ禁じられました。知ろうとする人は背教者と非難されました。中東では、コーランを読んだこともない人が大勢いて、ましてや解釈したこともないのです。アズハル大学のある場所で、そんなにイスラームについて知らないとは。なぜなら、そのような教育は、大衆の心や態度へのムスリム指導者の全面支配の終焉を意味するからです。質問することを恐れ、議論や異なる意見を出すことを恐れています。ムスリムは、非ムスリム不信仰者、特に隣人のユダヤ人に対するジハードという国家目標に忠実で従順である限りにおいて安全なのです。よきムスリムは、聖書のような他の宗教の本を決して見てはなりません。それは悪魔の言葉だと教わりました。非ムスリムは彼らの本と同じく、nagass、つまり、不浄で汚れたものなのです。ムスリムはよく、クリスチャンのエジプト人コプト教徒を指して、nagassと言います。特に、不合意があった後で、そう言うのです。(p.133)
ムスリムの多くが、ヨーロッパ人やアメリカ人は本当のムスリムだと言っています。ただ、自分達がムスリムだと知らないだけなのだ、と。敬虔なあるムスリムが、アメリカ人クリスチャンの隣人と会った時、「彼は本当のムスリムだ」と言いました。エジプトに住み、ヨーロッパに定期的に出かけるいとこも、ヨーロッパ文化を称賛し、移民を受け入れ、正直で上品で信頼できるヨーロッパ人を認めて、「本当のムスリムね」と言うのです。私は、「いえ、あの人達はクリスチャンなのよ」と叫びたくなります。(p.146)
・エジプトでは、クリスチャンのエジプト人はますます差別され、教会への暴力も増大していると聞きました。ムスリムの権力と富が増すごとに、非ムスリムへの不寛容も増えるのです。(p.155)
・私がエジプトを去った1978年には、既にコプト系クリスチャンの苦境は悪化していました。2001年にはもっと悪くなったのです。サウジ資金がエジプト人クリスチャンを苦しめるのに用いられているという噂を聞きました。クリスチャンの女の子をムスリム男性と結婚するよう説得するのだそうです。誘拐されたり薬物を使わされたり、挙句にはムスリムと強制結婚させられるとも聞きました。クリスチャンの人数を減らすために、クリスチャンと結婚したムスリム男性には、サウジ資金が報償として与えられるのだそうです。(p.178)
・アバス叔父さんは、夫を人に紹介するのに何度も「イスラーム改宗者」だと言いました。夫はきわめて不愉快でしたが、そのままにしておきました。ムスリム世界では、抵抗するのは敏感な問題だからです。(p.184)
・中東では、非ムスリムや不信仰者に対して考慮したり同情したり共感することを一度も教わりませんでした。学んだ物語は、ムスリムは必ずイスラームのために勝利して終わるというものです。(p.197)
・神の名において野蛮な行為をした大宗教はあります。初期には、クリスチャンの支配者たちも「異教徒」を焼き殺し、「魔女」を処刑しました。十字軍の行き過ぎはよく知られています。15世紀のスペインでは、改宗しなかったユダヤ人とムスリムは、異端審問でひどく処刑されました。しかし、キリスト教はその行為を認めて教義を否認し、聖書にあるような愛と贖いのメッセージへ戻ろうとしました。(p.200)
・私は、30年間の中東の暮らしの中で、一度たりとも、「ジハード」が自己分析や自己改善のための「内的努力」だという議論を聞いたことがありません。ジハードとは、不信仰者との聖なる宗教的戦い、アラーのための戦いなのだと言われていたのです。一度、アラブ通りで誰かに聞いてみれば、「イスラームを広めるための殉教者として死ぬことを意味するのだ」という返事が返ってくるでしょう。西洋文明を破壊しイスラーム世界が勝利することが使命だというのも明らかです。だから、多くのムスリムが9.11後に通りで踊っていたのです。(p.201-202)
・2004年の初め頃、カリフォルニア州立大学へ行き、「中東理解」と題する2日間の会合で発表出席しました。サウジの外交官が何人か聴衆に交じり、発表者は、ジョージタウン大学のムスリム・クリスチャン理解センター所属のアラブ系クリスチャン女性Dr. Yvonne Haddadでした。(ユーリ注:正確な名前は、Dr. Yvonne Yazbeck Haddadで、おそらくレバノン出身であろう。ハートフォード神学校で1979年に博士号を授与されている。2008年4月14日付「ユーリの部屋」にも言及がある。)「ブッシュ政権と信頼性のギャップ」というテーマで、彼女は話し始めました。最初に米国に移住したときの思い出は快適ではなかったこと、アメリカ人がアラブ人をどのように扱うかの典型例などを話しました。彼女は、アメリ外交政策には非常に批判的でした。クウェートへ「侵略」した1991年のブッシュ大統領は、イスラームへの十字軍を宣言したのだとムスリムは信じている、と述べました。次にイラク侵略したブッシュ大統領は、第二の十字軍だと宣言したのです。アラブ人は今や「ムフティのブッシュ」と呼んでいる、と。私はびっくりしました。クリスチャンのアラブ人がアメリカを非難することで、イスラームを防衛するというサウジの義務を促進しようとするなんて。彼女は、ムスリムがアラブ世界で、クリスチャンやコプト教徒達に何をしているかについて目を閉ざしていたのです。彼女はサウジ外交官団体から熱狂的に拍手をされました。私は、その日、彼女のメッセージを批判した少数派の一人でした。(pp.208-210)
アメリカの大学で、エジプト人女子学生がコプト教徒に対するエジプトでの抑圧について語る私に反対しました。「私にはたくさんのコプトの友人がいますが、一度も差別されたなんて不平を聞いたことがありませんよ。あなたは問題を誇張しているんじゃないですか」と。その講義後、別のエジプト人学生が近付いてきて、自分はコプトだと述べ、ムスリム学生ユニオン会員の前では怖くて話せなかったと言いました。アメリカでも、彼女が語る権利を萎縮させているのです。彼女は家族とともに、エジプトで苦しんだ差別のために米国へ移住したのでした。国を去ってアメリカの自由の下で暮らしているのに、まだ彼らは、怯えるあまり意見を出せないコプト学生を犠牲にしているのです。(pp.229-230)
・1965年から69年までカイロ・アメリカン大学で一緒だった元同級生と、ばったり会いました。2004年、アラブ諸国で生まれ育ったユダヤ系団体の招待した講演会場内でです。彼女は、卒業前に消えてしまいました。1967年の戦争後、エジプトの上流階級出身で教養あるユダヤ人婚約者とその家族が、ナセル大統領によって逮捕され、カイロの刑務所に入れられ、1969年にエジプト追放となったのだそうです。私は、彼女がユダヤ人だなんてちっとも知りませんでした。当時どんな経験をしたかなど知る由もなかったのです。(p.233)
・アラブ人の多くは、イスラエルの土地がキリスト教の生誕地であることを無視しています。エジプトで育ち、私はこの歴史を知りませんでした。ユダヤ人がイスラエルに何千年も前から住んでいたことを教わらなかったのです。アラブ人の子ども達は、ユダヤ人は犬か豚の子孫で、パレスチナの土地をアラブ人から不法に奪った卑しむべき人々だと教わります。だから、海に突き落として絶滅させなければならないと。(pp.236-237)

この辺りでもう充分でしょう。著者は、膝をついてユダヤ系の人々に心から謝りたいと述べています(p.240)。だからこそ、題名にあるように「今や彼らは私を異端者/不信仰者と呼ぶ」(別訳)現象が起きているのです(p.213, 233)。

大変疲れる重苦しい作業でしたが、数日にわたってこのブログに書き綴ってきたのは、まさにマレーシアでも、日本でも、非ムスリムとしての私自身が、直接間接に確認できた出来事や経験と非常に似通ったものだったからです。