ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『異端者と呼ばれている私』(4)

変則になってしまいましたが、おとといの続きとして、Michael Youssef氏の『アメリカ、石油、そしてイスラーム的な精神』の後半部の要点を列挙してみます。

・シリア、パレスチナ北アフリカのような伝統的にキリスト教だった土地でしたように、600年代に、エジプトにもイスラーム・アラブが侵攻して来た。今日、エジプト元来のキリスト教の遺産は、アラブ・イスラームの征服者に全面服従することを拒んだ少数派コプト教徒の生活にのみわずかに見られる。拒絶はしばしば命と引き換えに高くついた。ムスリムが強制する高い税を払える人々はほとんどいなかったので、引き換えにイスラームを受容して生きながらえたのである。税を払えないほど貧しかった人でイスラーム改宗を嫌がった人々は、殉教した。マルコ福音書の著者によって42年に建てられたコプト教会は、ムスリムがエジプトに来る前の600年間、定着していたのだった。エジプトでは、コプト教徒は二級市民である。ムスリム同胞団や過激なムスリム集団はコプト教徒を暴力の特別な対象とした。資産は破壊され、人々は殴られ、不具にされ、殺された。1977年8月14日には、ムスリムは、キリスト教の店やレストランや家や聖堂やプロテスタント教会も破壊した。この暴力の多くは、イスラーム原理主義者達による西洋寄りの政府に対する不満の表現だった。エジプトのキリスト教は、西洋的表現と不信仰者の価値なのである。(pp.109-110)


・カイロ近郊のバサッテンでは、ある教会が過激なムスリム組織に襲われ、モスクに変えられた。エジプトの法律では、大統領の決定なしに教会を建設したり修繕や改善などをしてはならない。ある場合には、建設許可を得るのに27年間も待たされる。ムバラク大統領は、この法律を厳しくし、新しい教会が建てられないようにしたり、古い教会を改築したりできないようになった。1973年以降、原理主義者達をなだめるために、エジプトはイスラーム化を促進した。サダト大統領は1980年5月14日の演説で、コプト指導者達を攻撃した。(pp.110-112)


ムスリムは、西洋人達と違って、過去を簡単には忘れない。ムスリムにとって、十字軍は昨日起こったことなのである。(p.124)


ムスリム富を使ってイスラーム改宗させることを躊躇しない。または、非ムスリムイスラーム法に合わせるよう強いることをためらわない。(p.130)


・対策法として


1.西洋人達は、現代イスラーム原理主義の性格と目的と深刻な脅威を理解するよう努力しなければならない。無知と無頓着さには警鐘を鳴らすべきである。問題に気付いた人、特にクリスチャンは警告すべく語らなければならない。


2.合衆国はOPECの石油への依存を緩めなければならない。ムスリム国家は、不信仰者に反対して死ぬことは即座に天国に行けることだと信じる人々で構成されているのだ。ムスリム、クリスチャン、ユダヤ教徒が宗教的ルーツを分け合って、調和して相互に暮らすことができるような比較的単純な世界に関しては、ムスリムイスラームの家対戦争の家のメンタリティがある限り、平和はあり得ない。


3.米国のような国々は外国投資法を強化しなければならない。北アフリカやシリアやエジプトやイランには、イスラームはジハード概念の行使で広まったが、アフリカやアジアには、商業や貿易で広まったのである。


4.米国政府は、あらゆる国々に対して人権をフルに行使するよう命じなければならない。


5.西洋では、ムスリムも含むあらゆるグループに信教の自由を与えているが、反民主的なイスラーム法と結託することは許してはならない


6.クリスチャンは特に、宗教的な挑戦としてイスラームを受け入れなければならない。つまり、クリスチャン達は、(教会で)説教することを自ら実践しなければならない。(pp.130-134)


・我々は、同意しない時にでもまっすぐで正直であるべきだ。正義に堅く基盤を置いた外交政策を構築すべきであって、経済的政治的利益に基礎を置くべきではない。(p.134)


ムスリムは西洋的生活様式を拒否し続けた。ムスリムははっきり言って、キリスト教信仰には興味がないのである。(p.135)


(ユーリ注:「原理主義」の語は、本来キリスト教に適用されるべきであり、イスラームには該当しないという議論がありますが、原文には‘fundamentalist'‘fundamentalism’の語彙が使用されているため、著者の意図を尊重する訳出を心がけました。)

それでは、同い年のエジプト出身の元ムスリマのクリスチャンであるNonie Darwish氏が、『異端者と呼ばれている私』(2006/2007)どのような記述をしているか、以下に概略を述べます。驚くべきは、上記本が1983年初版1991年再版と古いのに対し、ほとんど類似の事実と解釈が見られることです。誤解のないよう申し添えますと、Nonie Darwish氏が上記本を下敷きに書いているのではありません。極めて個人的な経験を中心に内面的外面的変遷を綴っているため、ほぼ信頼してよいのではないかと考えられます。
アラブ系アメリカ人については、ハートフォード神学校でも少し話を聞きました(参照:2008年4月14日付「ユーリの部屋」)。インターネット情報によれば、アラブ系アメリカ人は戦前渡米が多く、その75%以上がキリスト教徒だそうです。また、多くが他の人種と通婚し、高い率でアメリカ主流文化に溶け込んでいるとのこと。平均収入も中流に属し、特に貧困に苦しんでいるのでもなさそうです。
一方、アメリカのイスラームに関しては、南アジア系、アラブ系、黒人系が中心で、ヨーロッパやイギリスでは違法移民が目立つのとは対照的に、ほぼ合法移民だそうです。平均収入では、貧困層中流層とに分かれるようです。ムスリム移民の多いのは、デトロイトだとの情報もあります。(デトロイトムスリム共同体については、2008年4月14日付「ユーリの部屋」を参照のこと。)
以上は、一つの情報に依存しているのではなく、バラバラなサイトからメモをとって集めたものに過ぎないことを、予めお断りします。

Nonie Darwish氏の著作『異端者と呼ばれている私』から、イスラーム圏での非ムスリムの状況についての描写を紹介する前に、氏がアメリカその他の各大学で講演する際に直面したムスリム学生達の反応を記したいと思います。実は、規模はかなり小さいものの、私にもマレーシアや日本の大学や各種会合で似たような体験がありますので、まるで光景が目に浮かぶような気がしますし、それだけに、氏の毅然とした態度には非常に驚かされます。

・2003年 カーネギー・メロン大学イスラエルにとってのアラブ人」(アメリカの若いシオニスト達による後援)
エジプト人の女子学生が「イスラエル内でバスやレストランを吹き飛ばすアラブ人をテロリストだと言うのは私の感情を害する」「彼らは自由の闘士なのだから、そうする権利があるのだ」「私は一度もユダヤ人を憎むようには教わっていない。イスラエルに対してだけだ」と述べた。(pp.222-223)


・氏は、9.11以降にウエブサイトを立ち上げ、記事を書き始めた。これは自由意思に基づく行為であり、自宅で文章を書いてウエブに掲載することは、必ずしも富を要求しない。氏は今ほとんどリタイア状態であり、夫の金銭的精神的援助によってできる活動である。
←アラブ人やムスリムの中には「彼女はアラブ人でもムスリムでもあるはずがない」とメールを寄こし、「背後に誰がいて、誰が資金を与えているのか」と問うた。(p.223)


・2004年3月 カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校 「戦闘的イスラームへの批判」 Abdul Hadi Palazzi教授(イタリア・イスラーム共同体の文化研究所所長)と同席して演説
ムスリム学生会が質疑応答を妨害。講演の前に「アラーと預言者ムハンマドの名によって」と言わなかったと批判。何人かの学生がイスラーム祈祷を始めた。大声で無作法で攻撃的な態度だった。ムスリマ学生も「テロなしにパレスチナ人は抑圧に対してどうすればいいのよ」とテロリズムを支持した。他のムスリム学生も「シオニズムと共存できない」「お前はもう用無しだ」と脅迫的に言った。(p.224-225)


・2004年 カリフォルニアの図書館でユダヤ系教授とパネル参加
←何人かのエジプト人女性達が叫び始め、うち二人は立ち去った。質疑応答では、エジプト系女性が「ユダヤ系の講演者は、イスラエルについて歪曲されていることを正当化している」と言い、氏に対して「裏切り者」と名指した。(p.225)


・(時期不明)ベルリン「イスラーム的テロ、過激主義、ヨーロッパ文化への影響」
アルジェリア出身のフランス語のみ話すムスリマが、同伴者はCIAか米国当局代表ではないかと氏を非難。(p.225)


・(時期不明)ローマ エジプト系イタリア人ジャーナリストMagdi Allam氏と会い、テロ反対とイスラエルとの和平支持を語る(ユーリ注:Magdi Allam氏は2008年のイースター教皇から洗礼を受けた。詳細は、2008年3月26日付「ユーリの部屋」および2008年3月25日・3月26日・3月28日・4月1日・4月15日付“Lily’s Room”を参照のこと。)
←旅行中に妨害や憎悪に出会う(p.225)


・2006年初頭 カナダのGuelph大学は、ムスリム学生会の要求で氏の発表をキャンセル。ユダヤ系やアメリカ人の聴衆の大半は、氏の演説に対して非常に肯定的である。(p.225-226


・カナダのヨーク大学では、ムスリム学生達が質疑応答中に「恥、恥、恥」「人種差別者」と叫んだ。「すべてのムスリムがテロリストだ」と言ったと勘違いして非難。立ち去る時に、こっそりと「まあ、なんて人なの」と氏にささやく人もいた。12年間も車椅子で学生生活を送っている30歳のムスリム学生は、氏の発表を支援したユダヤ系団体から謝罪を求めると言った。(p.226


・ある大学キャンパスでは、アラブ人学生が近付き「テロ擁護者」と言った。(p.226


・ブルックリン大学では、多妻婚を支持するというスカーフ姿のムスリマが何人か聴衆に交じっていた。ユダヤ系学生達はおびえていたムスリム達は、氏がジハードの意味を間違えていると指摘し、本当の意味は「内なる努力である」と諭した。氏は、平和的な新解釈を祝した後に、中東のアラブ人の子ども達はそのようには教わっていないので、教育制度を改革する必要があると返答した。さらに、アズハル大学とアラブメディアにもそのように伝えるよう促すと、黙って頭をかきながら出て行った。(p.226-227)


・2006年4月の旅行では、キリスト教に改宗したために死刑判決を受けたアフガン人男性の命を何人のムスリムが助けようとしたか、とムスリム聴衆に尋ねた。「アフガン大使館前でその男性を解放するよう要求しましたか」については、無言のままだった。イスラームは平和の宗教だと穏健なムスリムは言うが、かわいそうなこの男性を救ったのはキリスト教と西洋の団体だけだった。「これで平和の宗教と言えるのでしょうか」。(pp.227-228)


・キャンパスからキャンパスを移動するうちに明らかになったのは、アメリカのムスリム学生達は、誤った仮説に基づく集団精神で反応しているということだ。「どの宗教にも過激派やテロリストは存在する」と言って、イスラーム的テロの口実とする。(p.228)


・「なぜイスラエル擁護をするのか」というムスリム学生からの批判については、氏はクイズで応答する。
(1)もう一方の頬を向けて、自分を地中海に投げ込むことを許す。
(2)西岸とガザ全部を爆破する。
(3)精神病院からイスラエル人を見つけて、パレスチナ人のレストランかバスで自爆するようベルトにダイナマイトを巻きつける。
(4)イスラエル市民を殺したばかりのアラブ人テロリストの家を見つけて、家族に48時間の猶予を与えて外に出してから、家をブルドーザーで轢く。
この中では(4)が最も‘人道的’ではないですか、と諭す。(p.228)


ムスリムの批判者は、必ずといってよいほど、イスラームの理想主義と、ムスリム社会やムスリムの行動の現実を混同して、同じ言い訳や議論を繰り返す。例えば、ムスリムのテロリストについて話すと、応答は「イスラームは平和の宗教です」。多重婚がムスリムの家族単位を傷つける例を言うと、ムスリマは大変防衛的になってムスリム世界での悲劇を全く無視する。「多重婚は一定の条件下でのみ許されていて、ムスリム男性はすべての妻に対して全く公平でなければならないのです」「預言者ムハンマドしかそのような公平な行為はとれませんでした。普通の男性はそういうことができないんです」「アメリカの私の家庭では、誰も多重婚をしていません」。氏は、家庭を守るアメリカの法律に感謝し、中東の多重婚についてリサーチするよう勧めた。サウジ女性の抑圧状況を話すと、スカーフをしていないモダンで魅力的なサウジ女性が、「私を見て見て。私って抑圧されているように見えます?」と尋ねた。また、「あなたは私のために語っていない」と応答するムスリムもいる。循環思考本から理想的な部分を引用することで、問題は解決したように思っている。(pp.228-229)

結局のところ、ムスリムとの関わりにおいては、マレーシアであれ日本であれアメリカであれ、同じパターンがいずこでも繰り返されているということなのでしょうか。よきムスリムの信仰行為にはイスラーム擁護が含まれるために、非ムスリムあるいは元ムスリムが、イスラームに関わる現象について、少しでもムスリムと異なる見解を出せば、「ああ言えばこう返す」で唱和する態度ができ上がっているのではないかと思われます。一般社会でも困ることですが、真理の追究の場であり、多様な価値観を包摂する知の先端であるべき大学で、このような現象の発生は、思考体系の停滞ないしは後退を招くものであり、極めて憂慮すべきだと、非ムスリムの私は考えます。同時に、ムスリム社会の真の発展のためにどうすればよいのかよい知恵が具体的に浮かばない点にも、私自身、袋小路の限界を感じています。