ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

平和と文化的寛容の理念形成

昨夜は、さっそく届いたばかりの『ピースメーカー』(1997年)をDVDで見ました(参照:2008年5月10日付「ユーリの部屋」)。2時間なので、ところどころ早回しでざっと通しただけですが、Jessica Stern氏をモデルとするヒロインの描き方はさすがだなあ、と思いました。会話の端々に見え隠れする人となり、亡くなった兵士などを悼む心情などに、著述と合致する箇所がたびたび出てきて、なるほどと感じた次第です。

さて、昨日の続き「平和と文化的寛容」に関する中東の教科書分析に関して、もう少し述べたいと思います。
その前に、本日の英語版はてなブログ日記“Lily’s Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20080516)には、アメリカ合衆国の信教の自由に関する国際委員会によるイラン告発の最新プレスリリースを掲載しておきました。アメリカと対立するイランという典型的図式のようですが、それはともかくとして、現実には、イラン国内でバハイ教徒やプロテスタント諸派のクリスチャン達に対する人権抑圧やいわれなき拘留がなされているとの報道です。
これが興味深いと思った理由は、昨日読んだイランの教科書分析では、その他のアラブ・イスラーム諸国と比べて、さすがはペルシャ語圏だけあってか、格段に非イスラーム諸宗教に対する記述や法的‘寛容’が見られたからです。特に、キリスト教に関する説明は非常に詳しく、東方キリスト教についてはむしろ私の方が教えられるような印象でした。つまり、この資料分析からうかがえる限りにおいて、学校教育では建前上、イラン国民としての紐帯がまず上位にあり、その次のアイデンティティ分類として、イスラームの優越性を保持した上で、それ以外の諸宗教も認めていくという構造のように、私は理解しました。
しかしながら、イスラエルの教科書と同様、学校ではそのように教えていたとしても、現実には、イスラエル軍が国防のために、最新武器を行使してアラブ・パレスチナ人を攻撃していることもまた否めない事実であり、同様の事例がイランでも発生しているということのようです。
これは、マレーシアの事例でもよく似ていて、観光旅行者風の一時観察では、「マレーシア憲法では信教の自由が認められています。イスラーム以外の諸宗教も平和的に共存しています」となるのですが、対外的建前や構造上はそれが事実であっても、各種政策の実態や人々の現実や本音の部分はどうなのかといえば、なかなか難しいと言わざるを得ません。
なので、この教科書分析も、それが現実や内実を直接反映しているというよりは、当面の努力目標や理念の提示であると考えた方がよいかもしれません。
イランの事例では、映画『ペルセポリス』とコミック本『ペルセポリスⅠ・Ⅱ』が一つの参考にはなります(参照:2008年1月31日付「ユーリの部屋」)。また、イランの法学者や講演者、そして日本人のイラン研究者との短い接触経験の範囲内でも、何となく感じるところはありました。『ペルセポリス』は主張がはっきりしていてわかりやすいのですが、その他のイラン関係者の場合は、何かが隠されているような、いささか高圧的な印象を受けました。これは、マレーシアで出会ったイラン系の人々の印象ともどこか重なるところです。
冒頭のJessica Stern氏は、その著作で、宗教には二つの側面があると述べています(“Terror in the name of God: Why religious militants killHarper Collins Publishers, 2003, p.137)。一つはアイデンティティ機能であり、もう一つは霊的普遍的な機能です。政治科学の分野では、複合多元的立場から、どの宗教的政治的集団に対しても対等な扱いを与えることが比較的容易ですが、哲学思想的に考えるならば、一つ以上の究極の原理を認め、いずれも等しい価値を持つと考えることは、三つの一神教の中では達成困難ではないか、と。実は全く私も同感です。それに関しては、残念ながら、これまで満足のゆく回答や思索を得られていないことも、また事実です。

ところで、数年前のことですが、日本である会合に出席したところ、きれいなスカーフをおしゃれに巻いたエジプト系アメリカ移民二世の女性が、壇上で、「イスラームは最終の完璧な宗教です」と力説されていました。それを聞いた隣席の日本人女性研究者が、後で私に向って「へえ、ムスリムの人って、そう言う風に考えているんですね」と言いました。イスラエルユダヤ教に関する研究を長年されていたその方は、会合の前年に、「政治的には対立していても、イスラエル国内ではアラブ人とは仲良く共存していた」という意味の発言をされていました。当時はムスリム主張を承知した上でのご発言かと思っていたので、エジプト系女性の発言が初耳だと聞いて、こちらがびっくりしました。マレーシアでは十数年前からしばしば耳にし、新聞投稿でも目にしていた、ムスリム発言の典型だったからです。

では、「学校教育における平和と文化的寛容」の教科書分析報告書から、中東諸国の学校教科書が「他者性」をどう教えているかについて、キリスト教の記述に焦点を当てるならば、次のような特徴が浮き彫りにされるかと思います(http://www.edume.org)。重ねまして、正確な詳細は、サイト上の原文を確認されるか、報告書を直接入手してお確かめください。

パレスチナ
・分析対象の資料としての教科書は計42冊で、宗教教科書25冊が加わる。そのうち、キリスト教教育の教科書は、2005年発行の115ページのもの1冊のみ。(ユーリ注:報告書では、キリスト教教育の教科書を検討した項目は見当たらない。)
ユダヤ教キリスト教聖典に関して、イスラーム的観点から非常に限られた情報しか与えられていない。それは、聖書本文に関する限り、必ずしも正確ではない。
福音書はクリスチャンの間で『新約聖書』として知られているが、内容に関する限り、歴史的な書と指導的な書の二つに分けられる。前者の歴史的な書には、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネ福音書が含まれ、335年ニケーア宗教会議で選定された。後者の指導的な書は、その多くが、イエス使徒ではなかったパウロによって書かれた22の書簡である。(2005 年『イスラーム教育(1)』第11学年, pp.42-43)
・聖なるクルアーン以前の啓示書(旧約新約聖書)は歪曲や破壊に影響されている。以前の啓示書に現れる法は、特別な人々に対して、限定された期間のために案出された。
啓典の民ユダヤ教徒キリスト教徒)の現存する文書内容は、聖なるクルアーンが認めれば認め、否定すれば否定する。(2005 年『イスラーム教育(1)』第11学年, pp.43-44)
・寛容はムスリムとクリスチャンに限定されていたが、現在ではユダヤ人にも言及されつつある。
*その他の特筆事項としては、「パレスチナにおけるユダヤ人の権利を拒否」「イスラエル国家を合法的な国と認めない」「1948年からの(イスラエルによる)占領」「西洋はイスラームとアラブ人の敵」「グローバル化」「オリエンタリズム」「エルサレムはアラブの都市」「地図から消されていたテル・アヴィヴが現在は戻っている」「ジハードと殉教」への言及、である。

[シリア]
・分析対象の資料としての教科書は2000年度の計68冊で、キリスト教教育の教科書(85/86年,97/98年,99/00年)は3冊のみ。(ユーリ注:報告書では、キリスト教教育の教科書を検討した項目は見当たらない。)
・シリアの教科書では、エルサレムはアラブ人によって4500年前に建てられ、以来、アラブ人によって住まわれてきたとされ、ユダヤ人にとっての聖地だとは一度も言及がない。ユダヤ人は外国の占領者として描かれ、ムスリムとクリスチャンの聖地を犯していると非難されている。
エルサレムは、紀元2500年前にJebusと呼ばれた。ジェブス人とは、イエーメンからシリアに移住したカナン人の親戚である。(『国家社会主義教育』第10学年, p.118)
エルサレムの聖地は、アルアクサ・モスクと岩のドーム聖墳墓教会のみ言及されている。(報告書注:1969年のアルアクサ・モスク放火は、精神を病んだオーストラリア人クリスチャンの観光旅行者によるもので、イスラエル市民によるものではない。)
*その他の特筆事項としては、「シリアは1991年にマドリード中東和平会議で戦略的に合意」「ユダヤ人に好意的な記述がない」「アラブ・イスラエル対立が中心」「イスラームとアラブ人の敵」「ホロコースト正当化」「イスラエルは異質で人口的な総体」「エルサレムはアラブの都市」「イスラエルに対するジハードはすべてのムスリムの義務」「殉教」への言及、である。

サウジアラビア
・分析対象の資料としての教科書は1998年から2002年度の計92冊。女子用倫理の教科書も1冊ある。
ユダヤ教キリスト教に関しては、充分な情報が与えられず、否定的な言及のみで、概して敵対的に扱われている。イスラームは唯一真なる優越した宗教とされる。
モーセやイエスのような聖書的人物の性格については、クルアーンの記述に沿ったものである。
クルアーンのみが唯一の真の書である。ユダヤ教徒キリスト教徒によってトーラーと福音書は歪曲されてきたので、クルアーンとこれらの書は比較できない。
イスラームの信者は天国で報償を受けるが、他の宗教の信徒は地獄へ落ちる運命にある。ユダヤ教徒キリスト教徒は自分たちの宗教を保持する権利が与えられているものの、ムスリムになるのは当然の選択である。すべてのムスリムは彼らを説得するよう義務付けられている。ムスリムの優越性は、宗教的のみならず倫理的にも政治的にもであり、その法的表現も追加されている。
啓典の民の中の不信仰者と多神教徒達は、その不信仰のために天国に入ることなく地獄の火で焼かれる運命にある。
*その他の特筆事項としては、「イスラームに属する」「イスラームムスリムの他宗教に対する優越」「クリスチャンとユダヤ教徒イスラームムスリムの敵で、愛も友情も広まるべきではない」「西洋は諸悪の根源」「シオニスト」「ユダヤ国家はアラブ人とムスリムにとって邪悪で消滅が望ましい」「イスラエル国家の不承認」「中東和平よりも戦争やジハードや殉教の勧め」についての言及である。キリスト教ユダヤ教や西洋やイスラエルシオニズムについては、大半が不完全で間違いが多い。不正確で歪曲がなされている。パレスチナカシミールボスニア・ヘルツェゴビナやフィリピンやチェチェンでは、ムスリムは常に平和的な犠牲者として扱われている。
(以上)

エジプトとイランのケースは、かなり長い記述があるので、この辺りでいったん失礼いたします。それにしても、改めて(うーん)とうならせられる箇所が多過ぎます。このような教科書でまじめに勉強し、成績優秀ならば、イスラエル側からの、あるいはアメリカが仲介しての和平への申し出も、内心で猜疑を抱かざるを得なくなるでしょうし、仮に欧米に留学したとしても、そのような目で社会を眺めるならば、なかなかなじめずに心理的焦燥感やフラストレーションを増すのが自然なのではないでしょうか。裕福で高等教育を受けていた若者の間で、屈辱感と抑圧感から暴走したくなる人が出たとしても、不思議ではないように思われます。