ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

歴史を知って誇りを持つ

昨日は一日中、シカゴ大学が再版した『モスレムの土地におけるキリスト教文書:全モハンメド教徒におけるモスレム出版とクリスチャン出版に関する活動の研究』(1923年大正12年)出版)という興味深い文献を読んでいました。マレーシア(と言っても、現在のマレーシア領域のみならず、シンガポールやジャワやスマトラなども含む地域を指している)に関するページが案外多いので、覚え書き程度に訳し始めたのですが、いつの間にか、夜中まで夢中になっていたのには、我ながらあきれました。
読むだけならばそれほど難解ではなさそうですが、訳そうとすると、案外に知らない単語も次々と出てきて、さすがは大正時代の文献だけある、と思います。ついでながら、日本の外国語学校における馬来語科の冊子なども、戦前のものは、台湾総督府などの専門資料を駆使して書かれていることがわかります。数年前のことですが、戦時中に盛んになった馬来語学習書を調べたら、シェラベアの作った文法書の翻訳版が、確かに三省堂から出版されていました。これについては、過去、多言語社会研究会でもマレーシア研究会でもキリスト教史学会でも実物を見せて発表したことがあります。戦前や戦時中であっても、日本でも、キリスト教文献が相応に評価されていた証でもあるといえるのではないでしょうか。
しばらく前のことですが、シェラベアの文法書の翻訳本は、朝日新聞の投稿欄に戦時中の思い出を掲載されていた元マラヤ日本軍兵士のおじいさんから、「いい本をあげます」と、プレゼントとして送っていただきました。既に複写を持っていたのですが、ありがたく頂戴いたしました。まったく不思議なご縁ですけれども、「だから、何があっても、このテーマで研究を続けなさい」という見えない存在の後押しだと解釈しています。

それではなぜ、今のマレーシアで、マレー語によるキリスト教文献や聖書翻訳が、それほど間歇的に何度も繰り返し当局から問題視されるのでしょうか。結局のところ、言語政策上の問題も、そこに行き着くわけですが。

手探りで調べていくと、さまざまな文献からいろいろと見えてくるものがあって、それはそれで楽しいものです。問題は、どのようにまとめあげるか、ということです。このテーマでは、公平に相互の立場を表現するのは、実際には無理だと今ではあきらめています。イスラエル人の先生からも注意されましたが、「いろんな意見に耳を傾けていると、何も言えなくなり、自分の立場がなくなってしまうから、対立を恐れず、自己の視点をしっかりと保持しなさい」とのこと。

上記文献も、外交官さながらに、各地の事情が報告書の形で集められているのですが、当時のことですから、「政治的正しさ」がなく、ずいぶんはっきりと書かれています。それによれば、現在、頻繁に聞かれるムスリム政治的主張が誤りを含んでいることも判明しました。一方で、文化差異が格段に大きかった頃で、文化接触にまつわる研究もなかったために、苦労も大きかっただろうと思われます。戦前戦後までは、宣教師の子弟が、外交官あるいは地域研究や国際関係分野の学者になったという家系が多かったことも、これでよくわかります。

話は変わりますが、今日の午後は二時間ほど、町内に新しく開設された歴史文化資料館の講演を聞きに行ってきました。往復ハガキで事前に申し込んでおき、無料で講演会に招待されたというわけです。
奈良大学名誉教授が、立ちっぱなしで元気よく滔々とお話されました。70人近くの中高年が集まって、とても熱心に聞き入っていました。何だか漫談みたいにおもしろくて、よく笑いが起こり、関西で話をするなら、こうでないと受けないんだな、と思いました。司会者も後で、「落語みたいなお話でした」と言われていましたが、本当にお元気な先生で、実に楽しそうに、奈良や淀川周辺地域や我が町の天平時代について語られました。大阪では、財政難から公共施設がどんどん縮小される傾向にあって、今回の資料館開館は、先生にとっても本当にうれしいのだそうです。
この辺り一帯は、古墳が多く、埴輪や古代の道具などもたくさん出土する地域で、歴史的にも古くから栄え、古文書に地名が載っているような場所なのですが、我が町には、古墳だけがありません。(とある天皇の別荘まであったのに、なぜ?)と不思議に思っていると、さすがは先生、お話の運び方がお上手で、「古墳はお墓でしょう?この町に豪族のお墓がなかったということは、それだけ天皇が信頼していた人々が住む直轄領だったんですよ」と。確かに、奈良の東大寺の荘園だった場所が残っているぐらいですから、多分そうなんだろうと思っていましたが、これで晴れて、歴史学者から公に太鼓判を押されたわけです。
それから、行基菩薩という高僧のお話もおもしろく思いました。最近はさぼりがちですが、私が日課にしている小高い山への散歩道には、701年に行基が建立したという神社があります。行基は各地にお寺を49ほど建てたそうですが、先生によれば、神社に関しては、建立を助けたのみだそうです。つまり、資料の上で立証ができないことを神社の看板は書いているわけですね。ただ、公平を期すならば、神社の名前は村の人々が次々に変えていくので、元に遡って検証することが困難なのだそうです。

古墳の発掘調査や文献の発見と読み解きなど、その方面には進まなかったものの、今でもわくわくするほど興味があります。イスラエルでも、聖書内外の文書記述をもとに、盛んに発掘調査がなされているのを見聞きしましたが、同じように日本でも、一部宮内庁からの制約を除けば、どんどん研究が進展しているのは、とてもありがたいことです。小学校の頃、子ども向けの日本古代史の本を飽きずに繰り返し読んでいたことを、講演を聞きながらなつかしく思い出しました。

質疑応答も5人が挙手し、なかなかの盛況でした。引っ越してきた時点で、町の由緒についての新聞切り抜きや書き込みノートまで作っていたので、よい時間が過ごせたと思います。先生曰く、「今の若い人は表面だけ見て判断するけれども、奈良時代からちゃんと記録が残っているのだから、歴史をしっかりと理解してほしい」と。
もともと国文出身なので、老後の過ごし方はもう決まっています。関西地域に残る古い歴史文化物を見て回ることです。電車代とお茶代と入館料だけで済むのですから、安上がりのいい趣味だと思っています。同時に、日本人としてこの国に生まれた自分の人生の仕上げと締めくくりもできるのですし。

「我が町」紹介として、2007年9月2日・2008年4月7日付「ユーリの部屋」も、よろしかったらご参照ください。