ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

お知恵拝借!

調べ物のため、3か月ぶりかで、民族学博物館図書室へ行ってきました。早めに出て行って、まとめて資料複写を済ませようと考えていたのに、結局のところ、書庫に並べてあった1800年代からの製本ジャーナルに夢中になってしまい、予定を達成できませんでした。
昼食抜きで階段付きの足台に上ったまま読みふけっていたところ、ご親切にも、司書の方から「大丈夫ですか。複写時間の申込み終了が迫っていますが」と注意を受けてしまいました。4時までに複写を申込みし、4時半にはコピーを終わらせるのが規定なので、やれやれ、といったところです。大学図書館なら、マレーシアでも夜10時までは開いていました。もう、書庫に住み込んでしまいたいぐらいです!
古いジャーナルとは、植民地時代からマラヤ/マレーシアで発行されてきたもので、インデックスだけではわからないような重要な記事が、偶然開いたページに載っていたりするので、つい一冊ずつ手にとって調べ始めてしまった次第です。私の場合、基軸はシェラベアやその他のマレー語聖書翻訳者関係ですが、シェラベアも理事をしていた委員会の抄録が、まさかと思う号に入っていたことを発見し、おもしろいと言えばおもしろく、やっかいと言えばやっかいなリサーチだな、と改めて感じました。
それにしても、シェラベアの書いた記事や論文やマレー語やマレー文学や聖書翻訳やイスラーム研究は、予想された以上に膨大な量になるようです。アメリカの南メソディスト大学のハント先生が、「私は博士論文のため、これを調べるのに、かなりの時間を費やしました」と、数年前のメールで書いてくださいましたが、歴史学と神学の訓練を受け、語学上の問題も少なく、一次資料もどこに保存されているかをご存じだったハント先生ですら、そのようにおっしゃるのに、どうして私のような部外者が、簡単に論文にまとめることができるのでしょう。第一、聖書の勉強でさえ大変な上に、自分にとって本当に適切な師や機関が、なかなか日本国内では見つからないというのに...。
シェラベアだけではなく、あの当時の英国植民地支配下でマラヤにいた、いわゆる「オリエンタリスト」の知的好奇心と探求心、およびそれを記録に残そうという強い意志には、実に圧倒されます。しかも、その努力が、故エドワード・サイードらの痛烈な批判やマレーナショナリズムやイスラーム復興によって、もろくも覆されそうになっている昨今、本当に心しなければなりません。
それに、オーストラリアでも、聖書翻訳宣教師と関わったムスリムの書いた古いマレー語写本の研究が非常に進んでいて、さすがは、とうなだれるような思いがしました。オーストラリア国内で失われた古い写本が、どこにあるかまで追跡した論文があったりもします。
ハント先生から教えていただいたオランダ人の聖書翻訳者の書いた2冊の本も見つけました。残念ながら、オランダ語で書かれているので、正確な意味がとれないのが非常に悔やまれます。もっとも、その学者は英語でも論文を書いていらして、1950年代の『聖書翻訳者』というジャーナル上で何度もお名前を拝見しました。オランダ語ではあっても、シェラベアに関する記述も何ページかに及んでいるので、コピーだけはとってきました。
我が家には畳2畳分ぐらいの資料コピーが集まっているのですが、いったい今から、どこでどのようにまとめて発表すればよいのか、困惑します。第一、相当なレベルの研究が英語やオランダ語で出ているのに、そして、その意義は充分過ぎるほど私にもわかっているのに、過去10年ほどの口頭発表では、関心は持っていただき、中には非常におほめくださる先生がいらしても、コメントとしては非常に初歩的な、あるいはズレた質問も多く、従って、その落胆はかなり大きいものです。かといって、誤解を避けるために、まずは枠組みから大まかな説明を試みると、「まだまだ、これからですね」などと言われてしまい、もうどうしたらよいのか、頭を抱えることになります。「発表の仕方を考えろ」ということだとは思いますが、そうこうしているうちに人生終焉に向かいそうな...。
結局のところ、あの地域一帯に広がるマレー語という言語を精密に調べ上げ、聖書に翻訳するまでには、どれほどの地道な努力が必要だったのか、という点が、もしかしたら先進国を中心に見ている人にはわかりにくいのではないか、と思います。自分の人生を半ば犠牲にして献身という思いで聖書翻訳に打ち込んだ人々の努力が、「文化帝国主義」だとか「イスラームの弱体化」だとかの政治言説によって脇に押しやられてしまいそうになっている時、どのようにすれば、効果的に事実を伝えることができるのか、ずっと考え続けています。

もっと簡単に言ってしまえば、偉い先生が同じことを発表されたら、皆さん襟を正して耳を傾けるだろうに、私なんかがやると、「ま、あれはライフラークだな。こっちの知ったことではないし、勝手にやっているんだろう」と片付けられてしまっているのが実情かもしれません。ちなみに、オランダでは、聖書翻訳で博士課程を持つ大学があるそうです。つまり、それほどまでに、世界の諸言語への聖書翻訳研究が高度に真摯に取り組まれているということのようです。しかし、オランダではそのように認められても、イリアン・ジャヤで同じ仕事をされている日本人聖書翻訳者に対しては、私自身、もったいなく感じるのですが、残念ながら日本で同程度以上の見返りがあるようにも思えません。(もちろん、その先生が見返りを求めてお仕事をされているのではないのは言うまでもないことです。)ただし、そのオランダの大学の教授は、その日本人聖書翻訳者の先生の取り組みを高く評価され、がっちりと握手されているのを、東京で私は目撃しました。例えるならば、アメリカの南メソディスト大学のハント先生が、面識もなく指導生でもない私に対して、逐一、丁寧に教えてくださっているようなものです。

こうしてみると、環境が問題なのか、取り組んでいる人のやり方が問題なのか、だんだんわからなくなってきます。毎日、かなりのストレス下で勉強しているつもりでも、別に日本にとって何ら利益がないことなら、初めからする必要がないとも言えます。それでいいのかどうかは別として...。

本来ならば、この分野はもっとシステマティックに取り組むべきだったのでしょう。まずはサンスクリットアラビア語(とペルシャ語)、オランダ語の徹底的な訓練とインドネシア語の集中特訓から始め、西洋の聖書翻訳史の流れを把握した上で、英国とオランダの聖書翻訳に関する態度の相違を調べ、同時に、ジャワ、スマトラマレー半島の人々の事情や各地域のマレー語変種方言と宮廷マレー語を学び、具体的な聖書翻訳の下書きから検証していく、という...。
それはわかっているのですが、現場でさえ、このブログに書いているような状態ですから、それほど簡単な仕事ではなさそうです。かといって、この場に及んで「はい、やめます」とも引き下がれず....。
つくづく、人生選択を失敗したなあ、と感じます。こんなことをするために、学校時代を過ごしたつもりじゃなかったのに...。

一言申し添えますと、上記ジャーナル会員でもいらっしゃるニュージーランドの長老派宣教師で、マレーシア神学院でも教鞭をとっていらしたロックスボロフ先生もハント先生も、「東南アジアのキリスト教の歴史構築には、非常に骨の折れる長期にわたる努力が必要である」と書いていらっしゃいました。確かに、7世紀頃のマラヤ周辺のアルメニアやネストリウスのキリスト教の形跡に関しても、オーストラリアの歴史学の先生だったかが、1960年代から70年代にかけて、詳細な検証論文をシリーズで連載されていました。こういうお仕事を拝見すると、改めて学問に対する畏敬の念を思うと同時に、私なんかが、何でこんなことを始めてしまったのだろう、と後悔ばかりがつのってきます。
ロックスボロフ先生もハント先生も、短い小さな論文からコツコツ積み重ねて、大きな分野に進まれてきました。お孫さんがいらっしゃる今でも、ロックスボロフ先生は、マレーシアはじめ、東南アジアのキリスト教の研究推進のため、労していらっしゃいます。ただ、その短い論文の重要性や意義、この一文を言い切るのに、どれほどの背景や調査が必要だったかが実感できるようになるまで、私自身、時間がかかりました。表面だけ見ていると、非常に単純なことしか書かれていないように思えたからです。また、この方面に関して、そういう文章に、それまで日本では出会ったことがなかったからです。

どなたか、よいお知恵をお貸しくださいませんでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。←「もう、そんなこと言っているなら、やめたらぁ」「もともと無理だったんだよ。今頃気づいたの?ご苦労さま」「だから、20代の時に言っただろう。マレーシアと関わった以上は、お前の人生、もう終わってるって」という声が聞こえてきそうです。これまでにも何度かこういう言葉を聞きました。問題は、だからどうしたらよいのか、という具体的な提案がないことです。