ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アラブでのイスラーム棄教の議論

先週の「イスラーム棄教の背景分析」(1)〜(4)は、「ユーリの部屋」へのアクセス数が、突然、普段の3倍ほどに上がったので、予想以上に関心の高い方達が多いのだと思いました。
念のため繰り返しますが、これは私自身の研究ではなく、あくまで概略をご紹介したまでです。また、研究テーマにおいても主たる関心事ではないことを、誤解のないよう、もう一度はっきりさせておきます。
ただ、昨日の冒頭にも書いたように、大正時代に相当する時代に、文書上のムスリム・クリスチャン競合がうねりを見せた時代があったので、その行き着く先の一つの帰結である「改宗」の問題については、ある程度、ムスリムがどのように考えているのかを明らかにしておく必要があると考えたわけです。
マレーシアでは、人々が比較的穏やかなのと、一神教以外の諸宗教が存在しているために明言化されにくいところがあります。そこで、参考資料として、再び「メムリ」(MEMRI)(http://memri.jp)から関連事項を引用させていただきます。

1.Special Dispatch Series No 1781 Dec/24/2007
イスラムの背教に関するテレビ討論

2007年11月5日(クウェートの衛星テレビ)リサーラ・テレビで、イスラムの背教に関するテレビ討論が放映された。ムスリムには他の宗教に改宗できる自由があるか、改宗の結末、また「不信心者」の範疇に入る者は誰か━について、クウェート人の番組司会者タリク・スワイダン師(Sheikh Tareq Al-Sweidan)、エジプト人の宗教者ガマール・アッラム(Gamal ‘Allam)、エジプト人の学者ガマール・バンナ(Gamal Al-Bana)、それに視聴者が加わって話し合った。以下は、この論争の抜粋である。 このクリップは、http://www.memritv.org/clip/en/1623.htm で見ることができる。
ムスリムには改宗する自由があるか」
クウェート人の番組司会者タリク・スワイダン師:「スタジオではなく、自宅で観ている人々に尋ねたい質問がある。この質問に、視聴者はテキスト・メッセージで答えることができる。質問は、イスラム教から改宗した背教者をどう取り扱うのが最善か、だ。あなた方には、回答の選択肢が三つある。第一の選択は、対話だけによる対応。第二の選択は、彼らを殺害すること。そして第三の選択は、司法に委ねることだ。あなた方は回答を書き込み、それを送ってほしい。その結果はスクリーンに現れる。また、スタジオに来ている若い人々は調査に参加することができる。この調査が、われわれのゲストとの話し合いの基礎となる。あなた方にはすでに質問を話した。わたしの質問はきわめて簡単だ。ムスリムには宗教を変える自由があるか否か、だ。ムスリムには自らの宗教を変える自由があるか、という質問だ」
スワイダン師:「ある人が確信から改宗するとして、その人は不信心者と宣言されるべきか」
視聴者の若い女性アビル:「第一に、彼には悔悟することが許されねばならない。われわれは彼に、彼の過ちを説明すべきだ。そして、この説明を彼が頑強に拒絶し、自分の解釈に固執するとしても、彼には悔悟が許され、悔悟の機会を持つことが許されねばならない・・・」
スワイダン師:「その後、彼は不信心者と宣言されるべきか」
アビル:「そうされるべきだと思う」
スワイダン師:「アビルよ、有難う。次はファーティマだ。あなたの意見はどうか」
「彼は不信心者と宣言されるべきだ」
視聴者の女性ファーティマ:「私の意見では、彼は不信心者と宣言されねばならない。人を不信心者と宣言することに何か問題があるのか」
スワイダン師:「問題があるとは言っていない。私はただ質問をしているだけだ」
ファーティマ:「彼は不信心者と宣言されねばならない。コーランは、人々をムスリム、不信心者、経典の民に分類した。不信心者と宣言されねばならない人々のグループは(確かに)存在する」
エジプト人の宗教者ガマール・アッラム:「信仰の諸問題に関しスンニ派学者たちには、いくつかの行為が破門につながるという合意がある。これらの行為を犯せば、その人は不信心者と見なされる。そうした行為の第一のケースは、イスラムの一部であることが反駁できない(ほど確かな)事柄を否定する行為だ」
ガマール・アッラム:「別のケースは、許されているということが反駁できない(ほど確かな)事柄を禁じる時である。もし、アッラーがある事柄を許し、誰かが出現して、それを禁じるなら・・・」
スワイダン師:「例えば、一部のムスリム国家は重婚を禁止しているが」
背教者になるならば、受ける罰は死である
ガマール・アッラム:「重婚を禁止する者は不信心者であり、破門されねばならない。なぜなら、物事を禁止し、また許可するアッラーの権利を否定しているからだ」
ガマール・アッラム:「誰であれアッラーが下した法以外の法に従って支配する者、また完全に認識し、また確信してそうする者は・・・」
ガマール・アッラム:「もし彼(支配者)が、自分の法がアッラーの法と同等であると思うなら、アッラーを人間と比べていることになる。したがって彼は不信心者だ。もし彼が、自分の法がアッラーの法よりもベターだと思うなら、創造者よりも被造物を優先していることになる。したがって、彼は不信心者である」
ガマール・アッラム:「自分を礼拝するよう人々に呼びかける者は誰であれ・・・」
スワイダン:「ファラオのように」
ガマール・アッラム:「そうだ。そう人々に呼びかけた者は誰であれ・・・あるいは、唯一神の子であると主張した者、あるいは・・・」
スワイダン師:「それははっきりしている」
ガマール・アッラム:「アッラー、その使徒、あるいはコーランをあざける者、あるいは、預言者の家族をあざける者は不信心者と見なされる」
ガマール・アッラム:「ムスリムの男女を、その宗教のゆえにあざける者は誰であれ・・・
私が(背教者と)言う人物は、誰かと争い、その人に向かって、『お前は私がムスリムだと嘲笑している。お前は不信心者だ』と言う人ではない。礼拝を理由にムスリムを嘲笑し、あざける人物だ・・・」
スワイダン師:「言い換えれば、宗教を嘲笑する人物だ」
ガマール・アッラム:「宗教祭儀をあざける人物だ。例えば、ベールの女性をあざける人物だ・・・」
エジプト人学者ガマール・バンナ:「『アッラー以外に神なし。ムハンマドアッラー使徒である』と言う者は誰であれムスリムである。話し合いはこれで終わりだ。人の信仰の詳細を詮索するのは、われわれの立場ではない。加えて、異端と信仰は第一にアッラー次第であり、第二に個人の問題である
スワイダン師:「中断する前、この重要な問題に関する見解を視聴者に尋ねた。宗教を変える自由や権利がムスリムにはあるか、という質問だ。その結果は以下のようなものだった。24%が『イエス、宗教を変える権利がある』と答えた。76%が『ノー』と答えた。何人かに意見を聞き、それから、ゲストのところに戻ろう」
視聴者の若い男性:「はい、人が背教者になるなら、その罰は死だ。(ところで)大きな問題がある。われわれのほとんど、われわれの70%がムスリムの父と母に生まれたことでムスリムだということだ。ある人がイスラムに改宗する以前に、彼には選択する自由がある。だが、忘れないでほしい。イスラムから改宗することを望むなら、それが死によって罰せられることを。そうだ。選択の自由はあるが、それには条件があるということだ・・・」
スワイダン師:「それは自由ということではない」
若い男性:「条件があるということだ・・・」
スワイダン師:「お前には背教者になる権利がある。だが、わたしはお前を殺すーー。あなたが言っていることはこういうことだ」
若い男性:「そのとおりだ。彼に(殺さないとは)言わない」
スワイダン師:「殺されること以上に悪いことがあるのか」
若い男性:「だから、人は背教者にならない」
「すべてのムスリムには、好きなだけ宗教を変える権利がある」
スワイダン師:「再びガマール博士に話してもらう。若い人々の76%が、ムスリムには宗教を変える権利がないと考えている。博士はこれをどう考えるか」
ガマール・バンナ:「きわめて残念だ。その結果は、信仰と自由というイスラムのエッセンスに関して知識が無いことを示している。もし、信仰が認識と確信に基づかないなら、価値がない。コーランはこう言う。「それが、あなた方の主(唯一神)の意思だったなら、彼らはすべて信じたろう」。言い換えれば、ムスリムのすべてに、好きなだけ宗教を変える権利があるということだ。邪魔することは誰にも許されない。なぜなら、これは良心の自由の問題であるからであり、人々の良心の問題に介入することは禁じられている。話しかけ、説得し、対話を持ちなさい。しかし、強制してはならない。あなたは三つの選択肢━対話か殺害か司法か━を提示した。司法や殺人が、人々の良心とどんな関係があるというのか。
ガマール・バンナ:「非常に残念だ。あなた方の大半は若いのに、自由を信じていない」
ガマール・アッラム:「私は、われわれの若き男性たちと婦人たちを褒め称えたい。なぜなら、彼らは自然な、健全な信仰と、宗教的熱情を持っているからだ。と同時に、ガマール・バンナ氏が『思想の自由』を求めていることは、残念だ。正しく言うと、氏が求めているのはムスリム諸国における『異端の自由』である」
ガマール・バンナ:「信じたい人には、そうさせ、拒否したい人には、そうさせなさい」
スワイダン師:「ある人が地獄に行きたいとして、それに『ノー』と言えるのか」
ガマール・アッラム:「地獄に行かせなさい」
イスラムは・・・唯一の理性的な、人を納得させる宗教である」
ガマール・アッラム:「イスラムは、命令形の『読め』で始まる唯一の宗教である。それは、唯一の理性的で、人を納得させる宗教である」
スワイダン:「しかし、ある人が納得しなかったら、どうだろう」
ガマール・アッラム:「頭がおかしいのだ」
スワイダン:「それはあなたの考えだ。しかし、頭がおかしいと言う資格が(あなたに)あるのか・・・」
ガマール・アッラム:「誰であれ正気ではない人は、精神病院に行かねばならない。もし正気というなら、彼の頭は、他人の頭を汚染しないよう除去しなければならない」
スワイダン:「誰であれ法を侵犯する者は罰せられねばならない。このことでは、われわれ全員が合意している。誰にも異論はない。われわれが話し合っているのは、法の侵犯ではなく、人の信仰に関わる問題だ」
ガマール・アッラム:「この信仰がその人だけのものであるなら、問題はなんら生じない。問題は、その人が私、あなた、そしてムスリム社会を害しているということだ・・・」
スワイダン:「そうではない。人が不信心者になることを望むのであれば、地獄行きは彼の自由だ。これは、私をなんら害さない。たとえば、背教者になったサルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)。いい厄介払いができた。彼は私になんら影響を与えなかった」
ガマール・バンナ:「思想と信仰の自由は絶対だと私は思う。なぜなら、この思想の自由は、民主主義を確立し、王と専制者を排除した政治的反体(運動)の自由につながるからだ。思想の自由はまた科学者の自由につながり、それは(社会の)進歩を導いた。思想の自由はまた司法の自由につながり、労働者と女性に対する公正な取り扱いにつながった。思想の自由は分割できない。そして、自由の最も重要な要素は信仰である。なぜなら、信仰は人の良心に関係があるからだ。したがって、制限することは決してできない。

2.Special Dispatch Series No 1675 Aug/17/2007
イスラム教に改宗したクリスチャンは再改宗できない

エジプトのクリスチャンの取り扱いに関して公の論争が続いている。この論争はクリスチャンの訴訟がきっかけだった。これらクリスチャンはイスラムに改宗し、その後キリスト教に再改宗した。そして現在、エジプト内務省に対して新しい公式書類の発行――彼らのオリジナルな氏名を記し、「宗教」記載欄に「クリスチャン」と記した公式書類の発行を要求している。
エジプトの行政裁判所は2007年4月、イスラムに改宗し、その後キリスト教に再改宗したクリスチャンの訴えを拒絶した。そればかりでなく、彼らをイスラムの背教者と非難した。背教の罪は一般的解釈だと、死刑に相当する。
裁判所の裁決の2ヵ月後、原告の上訴は受け入れられた。最高行政裁判所内務省に対し、原告をクリスチャンと表示する身分証の再発行を指示した。同時に、宗教を「もてあそぶ」ことを禁じる新たな法律の制定を呼びかけた。この事件のさらなる裁決は2007年9月まで延期された。※1
エジプトの宗教界は裁判所の裁決を支持、同時に、改宗の繰り返しは混乱を引き起こし、社会の安定を脅かすと主張した。エジプトの報道機関も類似の見解を主張、物質的な目的を達成する目的で宗教を変えてはいけないと主張した。裁定に抗議したのはエジプトのキリスト教コミュニティーと人権組織の代表たちだった。彼らは、この裁決は差別であり、宗教の自由の侵害だと呼ばわった。
以下は、裁判所の採決に対する、エジプト報道機関に掲載された反応の概観である。
エジプトの裁判所は言う:イスラム教に改宗し、キリスト教に再改宗したクリスチャンはムルタッド(背教者)である ※2
2005年12月、バシ・ラザク・バシ(Bashi Razaq Bashi)はエジプトの内務大臣と民政局長に対して訴訟を起こした。バシはイスラム教に改宗したクリスチャンで、その際、氏名をムハンマド・ラザク・マフディ(Muhammad Razaq Mahdi)に変えた。その後、キリスト教に再改宗した。これに対し、内務省は(バシが要求する)彼のオリジナルな氏名を記し、また彼のオリジナルな宗教(キリスト教)を「宗教」記載欄に記した身分証と出生証明の発給を拒否した。※3 裁判所は当時、類似の事件を数十件も抱えていた。※4 
裁判所は前述の裁可を説明して、こう述べた。エジプトの憲法は公共の秩序を損なわない限り、性、出身、言語、宗教や信仰による差別のない、公的な権利と義務の平等の原則、および信念と信仰の自由の原則を保障している。この原則はまた、国際的協定でも保障されている。同時に裁判所は信仰の自由の確立に関し、「宗教には無理強いということが禁もつ(コーラン第2章256節)」と述べたコーランを引用し、シャリーアイスラム法)は国際的協定およびエジプトの憲法に先行していると断定した。
しかし、裁判所の裁決はこう続けた。「信仰と信念の自由と、信仰をもてあそぶ自由――一部の者に見られる、物質的な目的のために宗教間を行き来して信仰をもてあそぶ自由――との間には大きな違いがある。このゲームには2つの段階がある。第1段階は、(キリスト教という)宗教をもてあそんで、まず同教に入信し、その氏名で内務省から公式な文書を受領し、他の市民と社会的関係を営む。第2段階は(イスラムという)宗教をもてあそんで、人生の一期間それに献身し、初めの宗教(キリスト教)に復帰する意向を抱きながら、他の市民と社会関係を営む・・・」
裁判所はもうひとつの裁決について、こう説明した。「イスラムの法――イスラムに参加する誰もが同意するイスラム法は、ムスリムとして生まれた者、あるいは(人生のある時点で)自由意志でイスラムに入信した者が、イスラムに反乱を起こし他の宗教に移ることを禁じている・・・キリスト教を、それに戻らないために離教し、完全に自分自身の自由意思で、また強制されずにイスラム教に入信する者は誰であれ、イスラムの法と原則に誓約している。この誓約には、イスラムを否定する意向を持たず、また後にイスラムを離れる意向も持たないことが含まれる・・・イスラムは、自分自身の自由意志で入信する者は誰であれ、・・・特別な目的のために、あるいは風がその方向を変えるように宗教を変え・・・離教することは認めない」※5
宗教をもてあそぶことは内戦を誘発する
エジプトの宗教界の高官は、こう述べた。この問題は、信徒の宗教間の行き来が社会にどの程度損害を及ぼすかという観点から、検証しなければならない。また、そうした検証を行うのはエジプトの裁判所である。エジプトのムフティ(イスラム法官)アリ・グムア博士(Dr. ’Ali Gum’ah)はこう説明した。シャリーアイスラム法)はムスリムの改宗を禁じている。しかし、この犯罪(背教)に対する罰は現世では科されず、アッラーが審判の日に科すーーなぜなら、これは個人と唯一神との間の良心の問題だからだ。博士はさらに、問題を裁判所に持ち込まねばならないのは、背教が公共に危険をもたらす場合だけだとし、必要とされる罰は裁判所が決定すると述べた。
グアムはさらに、エジプトの裁判所の最初の裁定――身分証における宗教の表示の変更を求めた訴えに対して下した最初の裁定に関し、こう語った。「これらクリスチャンは、たとえ(イスラムの)宗教法(が定義するような)イスラムを否定したとしても、イスラムを否定する時彼らの市民権は・・・この問題に関する宗教裁定にまったく繋がりのない・・・国家機関が取り扱う問題である」※6
グアムは、原告の上訴が認められた後も、司法組織を支持した。博士はこう言った。宗教信仰は個人の問題である。それに社会が介入するのは、それが公共の問題として社会の良さを脅かす時だけだ、と。博士はこう述べた。「われわれが直面する根本問題は、イスラム教徒である人間がイスラム以外の宗教を選択することが可能かどうかいうことだ。答えは、是であり、それは可能ということだ。というのは、コーランにこうあるからだ。『お前らにはお前らの宗教、わしにはわしの宗教』(109章6節)。そして、『信じたい者は信じ、信じたくない者は信じないがよかろう』(18章29節)、そして『宗教には無理強いということが禁もつ』(2章256節)と。しかし、宗教の立場からは、ひとりの人間が信仰を捨てることは罪であり、審判の日にアッラーによって罰せられる・・・もし問題のケースが単に信仰を拒否するということであれば、現世での罰はない。しかし、背教の罪に、社会の基盤を損なう犯罪が加わるなら、事件は、社会保全の保護を役割とする司法組織に付託せねばならない・・・」※7
(カイロのスンニー派宗教機関)アズハルの「イスラム研究アカデミー(the Academy for Islamic Research)」のアブドルムアティ・バユーミ博士(Dr. Abd Al-Mu’ati Bayoumi)はこう説明した。イスラムに改宗しながらキリスト教への再改宗を望むクリスチャンは社会への脅威であり、司法組織は彼を裁判にかける義務がある。バユーミは、エジプトの政府系週刊誌ムサッワルで、こう書いた。「文明(間の)実際の衝突とイデオロギー間の抗争の時代、つまり、信仰と宗教の聖性が損なわれ、また、賄賂で支持者を買うという手段が嫌悪されず、聖地に対する扇動が嫌悪されず、さらには郷里の放棄が嫌悪されない、そういった時代においては、ムルタッド(背教者)は公共の秩序と社会に与える危険(の程度)に応じて取り扱わねばならない・・・そのムルタッドが、社会を危険に陥れるか、また内戦を誘発する恐れがあるか、厳しいテストをパスしなければならない。もし、そのムルタッドが(実際に)内戦を扇動する“矢じり”ならば、イスラムの宗教法に応じて取り扱わねばならない。また、国家の信仰共同体の安全が守らねばならないーーなぜなら、そうしたケースにおいて、ムルタッドは敵のために働くスパイに似ているからだ・・・」
「(原告の)キリスト教放棄は、キリスト教信仰が彼らに精神の強健さと内的安寧を与えていないことを意味する。また、イスラムに改宗しながら、後に離教することはイスラムが彼らに精神の強健さと(感情の)安定を与えなかったことを意味する。このように、原告たちは落ち着きのないアブノーマルな者たちだ・・・彼らに必要なのは、身分証の変更ではなく治療だ。
「彼ら(原告)のメンタルな、感情的な検査が行われ、病気ではないと診断されたなら、彼らの行為は必然的に、まずキリスト教をもてあそび、次いでイスラムをもてあそんだということになる。信仰をもてあそぶのは(信仰の)自由(の許容範囲)を超えている・・・それは内戦を誘発する・・・」※8
政府系の宗教問題週刊誌の前編集者は言う:宗教をもてあそび、また売買の対象にしてはならない
エジプトの政府系宗教問題週刊誌アーキダティ(’Akidati)の前編集者アルサイイド・アブドッラウーフ(Al-Sayyed Abd Al-Raouf)は裁判所の裁定――イスラムに改宗したクリスチャンが公式にキリスト教に戻ることを禁じる裁定に支持を表明した。彼はこう書いた。「(この現象は)イスラムに入信するケースであれ、イスラムを棄教するケースであれ、一種のゲームに見える。個人的な利益と目的の追求のように見える。あるいは、彼ら(つまり原告)の一部は、家族の圧力あるいはそれ以外の圧力であれ、圧力を受けて(オリジナルな)宗教に戻ったのだ。
「裁判所は、クリスチャンがイスラム教に改宗し、その後キリスト教に戻ることは宗教のもてあそびと見なすべきだと判断。このため内務省には、キリスト教への再改宗を個人の(公的)書類には認めない権利があると裁定した。裁判所はこの裁定により(信徒が宗教を行き来する)ゲームを根絶した。われわれは、宗教に入信する権利が誰にでもあると信じている。その一方で、われわれは宗教のもてあそびは許されないとも信じる。われわれは、誰であれ宗教を金で取引し、不名誉な利益の獲得手段として使うこと、あるいは(クリスチャンとムスリム間の)宗教戦争を誘発することは許されないと信じる・・・」※9
コプト教コミュニティーは言う:裁判所の裁定は民主主義に反する
エジプトのコプト教会のメンバーは最初の裁定(つまり、身分証における宗教と氏名の変更に反対する裁定)を非難した。コプト教会の総大主教シェノウダ(Shinoda)はエジプト大統領ホスニ・ムバラク(Hosni Mubarak)に覚書を送り、コプト教徒抑圧を停止し、憲法の市民権に関する諸条項を履行するよう要求、また、イスラムに改宗したクリスチャンは公式にはキリスト教に戻ることはできないという裁定の裁判所による見直しを要求した。※10
(カイロ南部の)マアディ地区のコプト教コミュニティーの主教は、裁定は民主主義、人権および市民権に違反すると述べた。また、こう付け加えた。「この裁定は、ムスリムコプト教徒の緊密な関係を濁らせる。(なぜ)この自由は一方通行なのか。市民がイスラムを選択する時、万事容易に済む。一方、反対の(行動は)リッダ(背教)と呼ばれる・・・」。主教はさらに、この論理は、イスラムが極めて誇りとする寛容の原則に反していると述べた。そして、エジプトが署名している国際的協定と矛盾しないよう、実際の法改正を要求した。
コプト教徒の知識人ワシム・シシ博士(Dr.Wasim Al-Sisi)は、この裁定からエジプトが得るものは海外で名誉を失うことだけだ語った。彼はまた、シャリーアを立法の主要な源泉と規定しているエジプト憲法第2条の修正を求めた。そして、一神教のすべての宗教の法を立法の追加源泉と見なすよう提案した。※11
コプト教徒の研究者ハニ・ラビブ(Hani Labib)はこう書いた。「(キリスト教への復帰を禁じる)この裁定は、市民権の原則を憲法第1条として優先することを含めた最近の憲法修正とは逆の風潮を反映している。こうした風潮はエジプトの全体的傾向――市民国家の価値と市民全ての自由の原則を強調する傾向に反対している。加えて、かかる裁定はエジプトを外部世界との抗争に追い込むことになる。というのも、これら裁定はエジプトが法律によって制約している国際的協定および協約の多くと矛盾するからだ・・・とりわけ、行政裁判所はこれまで(類似の問題で)、(現在大きな騒動を引き起こしている)この裁定に矛盾する裁定を発出している事実もある・・・」※12
エジプトの人権組織は言う:宗教差別を停止せよ
エジプトの人権組織も、この裁定を批判した。「差別に反対するエジプト人(The Egyptians Against Discrimination)」組織は、国家発行の身分証における『宗教』の記載の完全廃止すら呼びかけた。国民議会、エジプト政府、シビル・ソサエティー諸組織に宛てたコミュニケで、エジプトの知識人150人は国家発行の身分証における「宗教」記載を当人の選択にするよう求めた。このコミュニケはまた、こう述べた。エジプト市民の個人書類に宗教の記載を禁じる裁定が増えていることに照らし、国家委員会を設立して、エジプト市民の宗教選択の権利を損なう法律を検討しなければならない、と。コミュニケは、憲法は市民間の差別を禁止し、すべての市民に対し信念と信仰の自由を保障していることから。これらの裁定は憲法に反すると指摘した。※13
エジプト人権連合(the Egyptian Union for Human Rights)」はコミュニケで、「この裁定は憲法と公共の秩序を侵害する」と述べた。※14 同組織の議長で、シェノウダ総大主教の法律顧問ナギブ・ガブラアイル(Nagib Gabra’ail)弁護士はこう付け加えた。同弁護士は、この裁判の原告の代理人でもある。「この裁定は、国際社会において(エジプト)国家を辱めた。また(エジプト)国家が、市民が唱道しない信念を採用するよう人民に強いていることを示した・・・」※15
「個人の権利エジプト・イニシアチブ(the Egyptian Initiative for Individual Rights)」組織もまた、裁定を非難するコミュニケを発出した。それはこう述べた。イスラムに改宗した後、キリスト教に復帰する市民の権利を認めないことを悲しむと述べ、こう付け加えた。「この裁定は(エジプトの司法組織)国家院のスタンスの、憲法上のまた法律上の宗教と信念の自由の権利保護に関する一層の後退である」。※16
注: (1) ミスリユーン紙(エジプト)2007年7月2日付
(2) ウラマーウ(イスラム学者)が合意するところだと、イスラムを離れた者はムルタッド(背教者)である。ムルタッドに対する罰に関しては、通常、以下の2つの状況が区別される。1)その者が信念や態度を公には変えず、心の中で信念を変える場合ーーその者は罰せられてはならないし、罰は(来世において)アッラーの手の中にある、2)その者がイスラム棄教を公に宣言し、数日内に撤回しなかった場合ーーその者は罰せられねばならない。後者のケースにおける適切な罰に関しては、見解は複数ある。支配的な解釈だと、イスラムを公に非難したムスリムの罰は死である。この伝承は預言者ムハンマドに遡る。彼は「彼の宗教を変える者は誰であれ、処刑されねばならない」と語った。一方、少数派の見解では、そうした人物の罰は裁判所が決定しなければならない。裁判所は個々のケースについて個人のベースで協議する。オクトーバー誌(エジプト)2007年5月6日発行
(3) ルーズ・ユーセフ誌(エジプト)2007年5月6日発行
(4) マスリ・ヤウム紙、ワフド紙(エジプト)2007年5月11日付
(5) ルーズ・ユーセフ誌(エジプト)2007年8月13日、2007年5月11日発行
(6) www.alarabiya.net 2007年5月14日
(7) グマアの発言はニューズウイーク誌とワシントン・ポスト紙に所属するブログ「信仰について:ムスリムは発言する」で公にされた。(http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/muslims_speak_out/2007/07/sheikh_ali_gomah.html)2007年7月21日。エジプトの日刊紙マスリ・ヤウムはこれら発言の一部を引用した(2007年5月24日付け)。翌日、グマアの事務所は同紙に連絡を取り、引用が不正確であると苦情を述べ、掲載のためアラビア語の完全版を送った。
(8)サッワル誌(エジプト)2007年5月4日発行
(9)アーキダティ誌(エジプト)2007年5月1日発行
(10)マスリ・ヤウム紙(エジプト)2007年4月27日付
(11)r−ズ・ユーセフ誌(エジプト)2007年4月27日
(12)ルーズ・ユーセフ誌(エジプト)2007年5月18日発行
(13)カーヒラ紙(エジプト)2007年5月15日付
(14)マスリ・ヤウム紙(エジプト)2007年4月27日付
(15)ミスリユーン紙(エジプト)2007年6月18日付
(16)www.alarabiya.net, 2007年5月14日

(引用終)

ご参考までに、上記を読みながら、私にとっては、2007年10月25日付「ユーリの部屋」で書いたような経験を想起したということを書き添えておきます。また、マレーシアの教会が、昨今のLina Joy事件で非常に緊張し、国を挙げて大騒ぎになったことも合わせてお含みおきください。