リー・クアンユー氏のご逝去
シンガポールの初代首相リー・クアンユー(Lee Kuan Yew,李光耀)氏が3月23日に逝去された。91歳。
シンガポールは、マレーシアの次に訪れた回数が最も多い外国。1988年から89年までのシンガポール国費留学生と母校でチューターとして交流した思い出、日本軍政期のこと、1800年代からのキリスト教宣教活動の資料を大量に集めて読み込んだこと、研究会や学会の発表でシンガポールに何度も言及してきたことなど、さまざまな感慨が去来する。
悲報に接した直後から、いろいろと考えてはいるのだが、一言でお悔やみを申し上げられないというのが、正直なところだ。
開発独裁など批判もあるだろうが、少なくとも、マレーシアとインドネシアというマレーの国々に挟まれた小島を、あの困難な分離独立期に、強力かつ懸命賢明なリーダーシップによって、短期間にここまで発展させた力量は、他に類を見ないものだ。
もちろん、19世紀からの英国を初めとする西洋列強の地政学的な戦略思考を、基本的にはほぼ受け継いだ路線なのだが、外野も内野もうるさかった、あの雑然とした1990年代初頭のシンガポールをまだ覚えている私にとっては、(よくここまで…)と感慨深いものがある。
もっとも、今のシンガポールも、表向きはともかく、一皮めくれば、まだ南洋の粗雑さが残り、借り物の洗練を寄せ集めたごった煮といった趣が否めないのだが、それはそれ、東南アジアの情報ハブとしては、必要不可欠の地なのだ。同じ東南アジアの重要な地点であったはずのバンコク、マニラ、ジャカルタは、実態を伴わない威信だけが先走りしてしまい、シンガポールにすっかり遅れを取ってしまった。
そもそも、1800年代のキリスト教史から見ると、本来は、ペナンがハブとして目されていたのだが、すぐにマラッカおよびシンガポールとの競争に敗れてしまい、間もなく、マラッカが「保守的なモスレム都市」であることに気づくと、早速、発展の焦点はシンガポールに向けられることになった。
今から考えれば、当然の成り行きという気もしないではないが、それも後知恵ではある。
シンガポールの光と影についても、専門の研究テーマ資料文献以外に、経済や歴史や政治など、さまざまな本を読んできた。
ここ10年以上は、シンガポールが「イスラームの中心地」であるという宗教政治思想が目に付くようになり、その辺りの動向も、アメリカで発行された1900年代からの大量の文献資料を集めつつ、注視しているところではある。しかし、そのような話は、既にシェラベア文献に出ていたことであり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%B7%A5%A7%A5%E9%A5%D9%A5%A2)、何ら新規性はない。
問題は、そういうことを私が学会や研究会で過去に何度も言及しても、ぼんやりとした鈍感な反応を示すか、「ひゃあ〜、ひゃあ〜」と奇声を上げて妨害してくる研究者が存在する(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141204)、という日本の知的停滞である。
しかしながら、英語で読んだ中で最も印象的なのは、今でもサマーセット・モームの南洋小説である。「1995年2月27日にクアラルンプールのヤオハンにて」と書き込みがあり、34.90リンギットで購入したシールが貼ってある。
W. Somerset Maugham,“Short stories” Minerva, London, 1994.
中でも‘The Letter’(pp.180-215)の読後感は強烈だった。
それを思えば、リー・クアンユー氏の並々ならぬ才覚と桁外れの尽力は、驚異的である。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
The Straits Times with Lee Hsien Loong
Singapore's founding father Mr Lee Kuan Yew died at 3.18am on Monday. At 8am, Prime Minister Lee Hsien Loong addressed the nation. Here's a recap of events from this morning. http://str.sg/JpH
・ユーリ: 彼のマレー語を初めて聞きました。今まで私は何をしていたんでしょうか?
・ユーリ: 誤解なきよう、十年以上も前に回想録を読んだ時、必死になってマレー語特訓を受けていたお父様のことは、もちろん知っていましたよ。
(転載終)
2015年3月25日追記:客家系だとは従来から知っていたが、昨日、お母様のお名前‘(Mdm)Chua Jim Neo’をノートに記して、ハタと気づいた。ニョニャの名前だ、と。だから、英語を話す華人だったとはいえ、マレー語も抵抗がなかったというのは、そこからうかがえる。(ババ・ニョニャのマレー語使用教会である「プラナカン教会」についても、何年も前に「プラナカンの新約聖書」の件と共に現地調査をし、研究発表を済ませている。)但し、マレー人のマレー語とは異なるために、「特訓を受け」る必要があったのだ。上記のフェイスブックで私が伝えたかったのは、「ご子息の話すマレー語を、私は初めて聞いた」という意味である。
その『回想録』については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080806)。14年以上も前に読んだとは、我ながら時の流れの速さに唖然としている。また、本ブログ内でのシンガポール言及は数限りなく多いが、あえて選択した過去ブログは以下を。
(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070713)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080906)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)
ご遺族とシンガポール国民の皆様に、心よりお悔やみ申し上げます。永遠の安息を祈念いたします。