ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

非ムスリムの無関心

7年前に書いたまま放置してあった文章の続きです。(ユーリ)

  派遣前の一ヶ月間、母校名古屋大学のキャンパスにいたマレーシア留学生(華人)から、即席のマレー語会話訓練を受けた。『マレー・ジレンマ』『マレーシアの社会と文化』など、当時入手できる限りの日本語文献は、マレーシアへ持っていった。マレーシア滞在二年目の91年の段階で『ラーマン回想録』もヤオハンで購入した。日本語をマレー人学生に教える仕事のかたわら、あちらこちらに線を引きながら、必死になってそれらの文献を読み、現代マレー世界を理解しようとした。そんな未熟な教師ながらも、学生達は一生懸命になってついてきてくれた。一時帰国した際、日本の大学についての不満や苦情も聞かせてくれた。9.11事件の一ヶ月前、偶然、マラヤ大学図書館にいた私に「○○先生」と声をかけてくれたのは、十年前には教室でおとなしかった男子学生であった。「先生、懐かしいです。どうして今ここに…。大阪にお住まいなんですか。じゃあ、今度出張の時に、大阪で食事しませんか」とまで言ってくれた。(ところが、あの事件で約束はおじゃんになってしまった。)

それらすべての経験を踏まえた上で、今取り組んでいるテーマがある。なぜあれこれ調べているのに論文がないのか、まだやっているの、と笑われたこともあるが、もしも言い訳を許していただけるなら、私にとって、心理的に相当なためらいがあったからでもある。
 イスラームに対して誤解や偏見がある、とムスリムの人々が昨今盛んに声を上げているが、実はムスリマではない私にも、心情的に共感するところがある。なぜなら、最近、日本の有力なマスメディアで、キリスト教に対する中傷や非難が伝えられているからである。キリスト教イスラームを対立項と見る無責任な議論すら横行している。なぜ、混迷を極めるこの危機的な世界情勢にあって、過去に戻ってあら探しのようなことをするのか。イスラーム世界の外においてムスリムが偏見にさらされようとした際、まっさきに保護の手をさしのべている現代キリスト教側の努力は、表だって報道されることはあまりない。例えば、日本の刑務所内で、外国のムスリム受刑者がカトリック司祭の教誨師に面談を希望しているという話は、公には知らされないままである。中東情勢の悲劇が伝えられる度に、一神教だからこうなるのだ、とか、日本の和の思想を導入すれば解決できるのでは、とか、平和な多神教の日本から学べ、などという安易かつ軽薄な論議が、著名な知識人の口から飛び出す度に、ひやひやさせられる。

地球が丸いということは、示唆的であると近頃つくづく思う。相違は必ずしも対立に直結しない。私の場合は、一般素人だからでもあるが、イスラームを理解するのに、キリスト教とパラレルな位置づけでとらえていた。つまり、キリスト教では、旧約聖書新約聖書がこのように伝えていることを、イスラームではクルアーンによってそのように展開しているのだなあ、というような理解の仕方である。それは、マレーシアで四年間過ごした間の経験に基づく。マレー人学生との触れ合いの中で、クリスチャンの宗教的習慣に類似している面が多いことに、かえって私としては親近感を持ったのである。逆説的かもしれないが、一面、日本の大学などで宗教を揶揄されることもあるような環境にいた時よりも、多宗教社会のマレーシアの人々の方がわかってくれそうだという安心感があった。
  問題は、現在のイスラーム復興の動きの中で、奮闘に懸命なムスリムの人々が主張している内容を、雄大な世界文化史的枠組みの中でとらえようとする視点があるかどうかだろう。具体的には、42%もの非ムスリム人口で構成されているイスラーム文化圏のマレーシアで、一部のムスリム指導者が「我々ムスリムは、基本的にイスラーム以外の諸宗教には無関心だった」「他の宗教コミュニティがそんなことをしているとは、知らなかった」と認めつつも同時に「多数派の保護のためには、マイノリティが多少の我慢や不自由をするのはやむを得ない」「イスラーム社会のシステムを非ムスリムがどのように受け入れるかが問題だ」と譲歩の要求をしている場合には、現代文脈においてイスラームを尊重する一方で、その妥当性を長期的視野から充分検討しなければならないのではないだろうか。
  振り返れば、トゥンク・アブドゥル・ラーマン第一代首相は、そのことをいつも配慮していたように思われる。1969年5月13日事件は誠に悲劇的であったが、広い視野に基づく見識の持ち主だったことは確かである。独立当時から、イスラーム国家樹立の動きは一部にあったそうだが、その頃の世界情勢から、影響力がそれほど大きかったとは言えない。しかし、昨今の大規模な動きは、極めて特徴的である。それが、非ムスリムの目には脅威に映る。双方で緊張が高まるのも、当然のなりゆきである。
  しかし忘れてはならないのは、現在の状況に対して、グローバル化や欧米を非難するだけでは済まされないということである。日本側にも、従来からのマレーシアとの関わりにおいて相当の責任があるのではないだろうか。ムスリムの人々の叫びは、裏返せば過去において、ムスリム以外の人々全般のとった態度のあらわれでもある。
(2003.05.23)