ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

Goh Keat Peng論文の補足と所感

昨日の「ユーリの部屋」で書いた内容に、補足と所感をつけ加えたいと思います。
1.補足
連邦憲法第149条にISA(Internal Security Act)と括弧付きで入れたのは、Goh Keat Peng論文の原文にそのように書いてあったからです。実際は、私の手元にもそれぞれ別の本にまとめられた、連邦憲法(“Perlembagaan Persekutuan”(マレー語版)と“Federal Constitution”(英語版))および“Internal Security Act 1960Act82)”があります。マレーシア憲法そのものは、マレー語版と英語版を、それぞれ1995年発行、2002年発行、2003年(英語版)あるいは2006年(マレー語版)発行の三種類ずつ持っています。この頃は憲法改変が進んでいるので、マレーシアに行った時に最新版を入手するようにしないと、論文の結論まで間違ってくるからです。ちなみに私は、改訂前の古いマレーシア憲法を孫引きで引用し、誤った結論を出した日本語論文を見たことがあります。
結局のところ、「自分の業績のための研究」ではなく、「他者の幸福と利益を願っての誠実な研究」でなければ、どこかで無理や綻びが生じるということなのだろうと思います。
話を元に戻しますと、そのためにも、毎日の新聞チェックは欠かせませんし、地元のリサーチ協力者との緊密な連帯も重要です。また、マレーシア憲法の成立過程などの一次資料や法律学者による専門書も、1960年代のものから何冊か取り揃えました。直接引用はできませんが、こういうものを読むと、国の成り立ちとその後の変化がよくわかり、大変勉強になります。同時に、日本国憲法についても、学校で習ったり新聞で読んだりする以上に、実感を伴って理解が進むようになります。

2.感想など
(1)「聖書知識」(Bible Knowledge)が生徒達に人気がある科目だ、という箇所について、日本のキリスト教系学校の現状、あるいは、一般日本人の宗教に対する態度と比べて、考えさせられるものがあります。
この科目については、今でもカトリック新聞『ヘラルド』やマレーシア教会協議会発行の季刊誌“Berita CCM/CCM News”などにも、記事として時々掲載されています。写真を見ると、生徒達は教会施設での聖書クラスにも集まって、喜んで先生の話を聞いています。Goh氏が述べるように、「一般に高得点を取るために、総合点が上がり、英語の運用能力にも非常に効果がある」というところに、実は秘訣があるようなのですが、それにしても、退屈な知識詰め込みならば、そんなに楽しくうれしそうに学べるはずもないでしょう。
試験内容や授業の様子はわかりませんが、日本と比べて、宗教が大事なものと一般に認識されている社会では、単なる試験用のお勉強でもないでしょうし、信心深さを装うポーズだけでもないでしょう。教会が、将来を担う子ども達を大切に考え、この科目を学ぶように盛んに宣伝していることも一因ではないかと思われますし、クリスチャン家庭では、親が子どもに信仰継承の一環として勧めているのだろうとも考えられます。
もっと大きな要因として、イスラーム復興中のマレーシア社会で生きていかざるを得ない非ムスリムとしては、政策上の方針から来る日頃の差別的扱いから逃れたいという意味も大きいでしょう。また、国内で進学する生徒にとっては、大学でイスラーム文明を必修科目として学ばせられる以前に、しっかりとした聖書知識を身につけておきたい、という必死な思いもあるのではないか、と思います。あるいは、高卒後、欧米への海外留学を予定している生徒達には、クリスチャンかどうかを別としても、聖書的教養を持っているかどうかで、滞在先での交流相手や待遇も違ってくるという実利的意味もあるのでしょう。聞くところによれば、イスラームを連邦宗教とするマレーシア出身のクリスチャンは、キリスト教伝統の根づく国々で、保護的に大切に扱われるのだそうです。

この科目の水準を別としても、日本に置き換えて考えてみるならば、かつて、東大や京大のような国立大学でも、欧米文化を学ぶために、聖書が教養としても重要視されていた時代があったことを彷彿とさせます。私の高校生時代には、英文科に進学するならば、聖書ぐらいは必携かつ常識であったとも聞きました。また、新聞社系列のカルチャーセンターの開講科目一覧表を見ていると、「コーランを読む」という講座はなくとも、「聖書を読む」という講座はあります。キリスト教系大学の教授やご年配の牧師などが、アルバイトとして担当されているようですが、何となく一般傾向がうかがえるところではあります。

ところで、何年も前に、マラヤ大学中央図書館で1960年代の一次資料を見ていたところ、昔の大学試験の宗教科目には、イスラームキリスト教の科目のどちらかを選択するよう指示されていたことを思い出します。その場合、仏教やシク教やヒンドゥ教や道教などの生徒や学生達は、どちらにしていたのでしょうか。また、自分達への宗教的配慮を望む要求はなかったのでしょうか。一方で、現代という時代は、多様性への現実とその配慮のために、何かと複雑あるいは煩雑になったようにも思います。

また、私がマラヤ大学で日本語を教えていた頃には、マレー人学生の成績に関して、イスラーム科目は、ムスリムである以上、誰もがほとんど満点に近いと聞いたことがあります。総合点がよいということは、つまり、イスラーム科目でかさ上げしているのだというのです。しかし、Goh氏論文によれば、クリスチャンの生徒達は聖書科目で総合点を上げているらしいので、これは競合関係になりますね。

(2)反キリスト教感情
上記の末尾とも関連することですが、従って、宗教科目は、誰がどのように教えているかが問題となるわけです。
ところで、日本人のマレーシア研究者には、主流研究を目指すというのか、マレー人寄りあるいはムスリム寄りの研究をしている方達がいます。もちろん、これは重要なテーマです。ただし、問題となるのは、その動機と理由です。
今でもよく覚えているのですが、2000年前後に、キリスト教が関わっている私の研究テーマに関して、マレー人あるいはムスリム寄りの研究をしている何人かの若手男性研究者が、私の目の前で、くっと顔を背けるようにして、不愉快そうに振る舞ったことがあります。そのわけは知る由もありませんが、もしかしたら、そういう人々は、聖書を開いたこともなく、世界的な学界での真の研究動向を知ることもなく、欧米植民地支配へのアンチテーゼから、貧しく虐げられた地元民への同情を、ポーズとして示したかったのではないかと思われます。または、欧米への追従ではない、日本独自の知見を発信しようとすれば、そのような側に立たなければならないと考えたのかもしれません。気持ちとしては理解できるところではあります。しかし問題は、マレー人あるいはムスリム自身には、本当に非がなかったのかということです。

2006年11月28日に、マレーシアの言語出版局(Dewan Bahasa dan Pustaka)の高層ビル内にある書店を訪れた時、改めて驚いたのは、格段に大きく広くなった場所にきれいに並べられている雑誌や本のおそよ95%以上が、マレー・イスラーム出版物で占められていたことです。マレー語で書かれた本や雑誌が急増したのは、イスラーム以外にもともと読む本が少なく、読書人口も比例して少なかったマレー人にとって、表面的に見れば結構なことです。
その路線で、マレー語をよく知らない研究者が、単に地元言語だという理由から、国語政策としてのマレー語に好意的な態度を示した論文を日本で見かけたことがあります。ただし、翻訳でもいいので、一度マレー語で書かれている内容を把握した上で、なおかつ、そのように大政翼賛的になれるものか、よく考えていただきたいと思いました。当時、DBPビル一階にあったパネル展示でも、「多言語主義は地獄へ行け!」と書いたプラカードを持ってマレー人が立っている1967年当時の写真がありました(証拠写真有)。マレー語で書かれたイスラーム雑誌“Al Islam”(2006年11月号/Syawal 1427H)には、ローマ教皇に対して「十字軍をやめろ」などと旗を持ってムスリムがデモ行進している写真入り記事、「なぜユダヤ人は強いのか」とアインシュタインフロイトを事例に出した記事、シオニズムイスラエルに対する常套句のようなネガティヴ・キャンペーン、ドイツ人クリスチャン少女のイスラーム入信過程の記事などが展開されていました。
また、マラヤ大学の書店にも、どういう意図なのか、ウサーマ・ビン・ラディンと他の二人のムスリムを並べた写真入り旗が入口に置いてありました(証拠写真有)。宗教のコーナーには、バルナバ福音書の話が出てきたり、イエスは十字架上で死ななかったのだとか、死海文書は嘘であるとか、陳腐でとても学問的とは言えないような大衆向けキリスト教批判の本が、堂々と並べられていたのです。1990年代半ばまでは、輸入版ではあれ、英語で書かれたもっとまともなキリスト教関係の書籍が、棚に並べられていました。日本でも、いわゆるその種の‘トンデモ本’が皆無ではありませんが、少なくとも、きちんとした大学の先生や研究者ならば、誰も相手にしないものです。そこに、学問的営為に対する信頼性と敬意が寄せられる所以があると思います。

さらに、キリスト教主義を名乗る日本のある大学が、ムスリムとの共存を図る目的で、数年前からイスラーム科目を大幅に導入しました。当初の意図としては理解できたのですが、その内実が、時と共に明確になってくると、いささか首を傾げたくなってきます。例えば、マレーシアを見る場合にも、ムスリム人口が約6割以下しか存在しないのに、イスラーム一辺倒で語ろうとするなら、現実的に、どうしても無理が生じます。また、大学自体がキリスト教主義を標榜しながらも、そのキリスト教を否定的に理解するよう公教育でも教えているような政府を持つ国を平和共存のモデルであると公に語るなら、齟齬や矛盾を免れないのではないでしょうか。

すっかり長くなってしまいましたが、Goh Keat Peng氏の論文をご紹介した意図は、まさにここにあります。ここでも、先行研究を無視した研究プロジェクトは、税金の無駄であることが示唆できるのではないかと思います。そう言うならば、論文で証明せよ、というご意見があるかもしれませんが、論文だと遅くなるので、とりあえず、ブログで公知させていただいた次第です。私の考えは、基本的姿勢において、ブログと口頭発表とで大きな差異はないつもりです。