佐藤優氏の講演会の続き
2016年1月30日の関西セミナー・ハウスでの佐藤優氏の講演会について(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170205)、今日になってようやく、私が何を問いたかったか、なぜそれが私にとっては大切な経験だったか、について書けそうである。
講演会の終了後、『みるとす』誌に二度目のサインをいただいた時も含めて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)、「とてもいい質問」「質問の仕方がいい」「質問がよかった」と、三度、褒めていただいた。質問用紙の読み上げ後のやり取りも含めて、私の問いには、10分ぐらい割いていただいた。なお、ブログ・アドレスは新たに挿入したものである。
質問用紙(匿名で提出)
「冒頭で、ヨハネ福音書8章31−32節の『真理はあなた方を自由にする』を引用され、国立国会図書館に掲げてあるとおっしゃいました。これは、羽仁五郎というマルクス主義歴史家の創案であり、『真理は我らを自由にする』と変更を加えたもので、原文の本質的な意味では主語が異なる(前者は「神(であるイエスの言葉)」で、後者は目に見える科学的「事実」)という指摘を、随分前に曽野綾子氏がエッセイに書いていたのを覚えています。
羽仁五郎氏の姑は羽仁もと子氏で、今も家庭婦人に影響力を与え続けている運動(キリスト教を中心とした思想)の発起人です(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081115)。しかしながら、羽仁五郎氏の著作を見ると、婿入り婚をしたのに大変な破壊思想の持ち主で、困惑させられます。
敗戦によるショックのため、拠り所をマルクス主義に求めた人々がいたこと、戦争突入へと日本を誤導した指導者層に不信感を持ち、批判的精神で体制を変えようとした動きがあったことは充分理解しておりますが、キリスト教とマルクス主義の混同は社会を混乱させ、不安定にすると思います。現在の日本の教会の低迷は、そこに起因する面があるのではないかと思いますが、先生のお考えはいかかでしょうか」。
(用紙に書いた質問の佐藤氏による読み上げ終わり)
(ユーリ注:「真理はあなた方を自由にする」と私は書いたが、ご講演では日本聖書協会による新共同訳の「真理はあなたたちを自由にする」が引用された。また、「真理は我らを自由にする」と私が書いた箇所は、国立国会図書館では「真理がわれらを自由にする」である。また「原文」とは、「コイネー・ギリシア語における原文」の意である。)
即座に、講師の佐藤氏が「この質問した人、挙手して」と言われたので挙手したところ、「羽仁五郎は大嫌い、講座派だから」と一言(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170205)。
但し、「すごくいい質問している、これ」と直ちにおっしゃり、次のように述べられた。
「『まず、佐藤さんはこう言いましたね』と引用してから、次に反論をする。その反証として、曽野綾子を出した」「意味の変化、意味上は勿論、曽野綾子だが、私にとっては同じだと思う」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)「マルクス主義にはいろいろ幅がある。宇野さん、柄谷行人など」「曽野綾子は権威で物を言うから嫌いだ。友人の野田聖子さんの出産に関して、優生思想で切った」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160826)「我々は誤り得る。原罪。間違いは常にあり。俺の言うことに従え、と思っていない」「この質問はいい。日本のキリスト教は共産党にくっついている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160224)。マルクス主義に遠慮し過ぎた面がある」。
以上は、会場で即座に聞き取ったものの走り書きメモによる。一年以上も時間が経つと、その時の勢いがさすがに冷めてくるが、今ならば、おっしゃったことの構造がストレートにわかるように思われる。
佐藤優氏は、膨大な読書量と独特の経験による博覧強記に加え、直感的に物事を把握する力に優れ、状況に応じて適宜、発言を調整する能力に恵まれていらっしゃる。私などのように一本気で直情径行型は、到底かなわない。上記の口頭での回答も、該当の聖句解釈においては曽野綾子氏を認めつつも、その態度において否定しているという点で、両刀使いという感じがする。また、会場で話しながら、どこかでご自分の間違いに気づかれたのであろうか、「俺の言うことに従え、と思っていない」ともおっしゃった。
だが、私の問いはあくまで聖句の解釈が中心軸にあり、曽野綾子氏を個人的にどのように感じるかは、曽野氏説への支持とは別問題だと考えていた。そして、国会図書館の正面の壁の文言がマルキスト羽仁五郎氏による創案であることは、一見、目的語の「あなた方を」と「我らを」の間の微妙な差異のようでありながら、実は根本的な思想上の相違があるという点を、私は重視していたのだ。より具体的には、本来のキリスト教は信じるものであり共同体であり宗教であるのに対して、マルクス主義は究極的に唯物論であり、家族や宗教を破壊する目的を持つという対照である。
佐藤氏の回答全体を再度考えてみると、厳しい教理を持つキリスト教会で育たれた反面、若い頃に相当マルクス主義に入れ込んで勉強されていたのであろう、やはり社会的立場としては、どこかでマルクス主義的な思想が入り混じっているのではないか、と私は思う。
私は聖書霊感説の立場を取らない。だが、カトリック版とプロテスタント版はもとより、さまざまな言語訳の聖書を自宅に持っている上(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)、マレーシアの近代化に聖書翻訳がどのような役割を果たしたのか、言語文化面から聖書翻訳史に関心を抱いてリサーチを始めた者として(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141028)、聖書翻訳者の苦労を文献資料や面談によって直接間接に知る者として(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090427)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090428)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120623)、やはり聖書の文言は大切にしたい。時期や教派や訳者や翻訳の版によって、さまざまな訳し方があるのは当然であり、その差異や異同について、私はそれほどうるさいわけではない。
だが、羽仁五郎氏が立案した国会図書館の言葉は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129)、聖書を読んだことのない人を巧みに誤導する働きがあるという点で、私は看過できない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100613)。
冒頭の佐藤氏の講演会では、このテーマに関連した発言も幾つか聞いた。メモに拠ると、以下のようである。
・赤岩栄牧師は、「真のキリスト者は共産党に入るべき」として、戦後、共産党に入った。
・日本のキリスト教には反体制的な人が多い。薩長同盟に反発した人。出世できないから。
赤岩牧師の件は、6年ぐらい前に気になって調べていた文献資料で見たので知っているが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110808)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110809)、「反体制的な人」が日本のキリスト教に多いのが統計的に事実とすれば、問題ではないだろうか。もしそうならば、反体制ではない私が、人的背景を何も知らず闇雲に、英領マラヤおよび現代マレーシアの聖書問題を巡る調査研究をいくら頑張って発表してみたところで、キリスト教系大学の先生方が、受け入れたはずもなかろうからである。
何となくの感触は最初からあったが、証拠付けて考え、愚考を公表するには、これほどまでの時間がかかった。無駄な努力をしたと言うべきか、あくまで良い経験だったと強弁すべきなのか、私にはわからない。
羽仁五郎氏に言及した過去ブログ一覧は、こちらを。
(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160310)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170131)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170205)
佐藤優氏に言及した過去ブログ一覧は、こちらを。
(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081118)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081226)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090404)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101014)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101022)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110301)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111001)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140207)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141020)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141023)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150312)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160327)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160425)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160817)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160818)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161020)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170131)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170205)
付記:
ヨハネ福音書の8章32節については、手持ちの聖書では、以下のような相違が見られる。
サンパウロ『フランシスコ会 新約聖書改訂版』(1979年)「真理はあなたたちを自由にする」。
日本聖書協会『新約聖書 共同訳』(1982年)「真理は君たちを自由にする」。
日本聖書刊行会『新改訳聖書』(1993年)「真理はあなたがたを自由にします。」
日本聖書協会『舊新約聖書 文語訳』(1999年)「而して眞理は汝らに自由を得さすべし」
岩波書店『新約聖書翻訳委員会訳』(2004年)「その真理があなたがたを自由にするであろう」。
日本聖書協会『聖書スタディ版 新共同訳』(2006年)「真理はあなたたちを自由にする。」
教文館『新約聖書 前田護郎選集 別巻』(2009年)「真理はあなた方を自由にしよう」と。
フランシスコ会聖書研究所『聖書 原文校訂による口語訳』(2011年)「真理はあなた方を自由にする」。
なお、フランシスコ会の『新約聖書』では、注に「学問上の真理ではなく、イエズスのもたらした「神の啓示」、また、啓示者であるイエズス自身を指す(14-6参照)」とあり、ヨハネ福音書の14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」へと導かれる。