ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

佐藤優氏の二度目の講演会

また他の用事で延び延びになってはいけないので、2016年1月30日午後、京都のクリスチャン・アカデミー(関西セミナー・ハウス)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100630)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)で開催された佐藤優氏の講演会でのメモを、ここに転載しておこう。これは二度目の参加であった。
未完原稿だが、とりあえず、今日はここまで。自分としては、下書きをワードに少しずつ入力しておいたが、やはり有名な著述家について書くことは、大変に気が重くて、なかなか進まなかった。だが、数日前に思い切ってブログで書いてみたところ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170131)、単なる自己満足かもしれないが、何か大きな宿題を済ませたような爽快感というのか、これで重しが取れて前進できそうな気がした。
当日、集まった人々はやはり白髪頭が多かった。学生らしき若者は3人ほどか。全体で70名以上。確かに集客力はある。館長でいらっしゃる同志社時代の恩師シュペネマン先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160327)への恩返しとして、講演に来られているのだろうか。
沖縄のシャツであろうか、季節に合わず、白地に大柄の薄青模様のデザインの夏服姿の佐藤氏は、講壇上の机にノートを広げて、一応は話す内容を準備してあったようだが、恐らくは筋書き通りに辿っているのではないだろう。ページを繰ったりもしない。また、ご著書を数冊持参して、机の上に積み上げてあった。

質問用紙で提出した私の問いは、ご自分で提示された今回の講演のテーマであるヨハネ福音書国会図書館の正面の入り口の壁に彫り込んである言葉について、小さなことのようだが本来の主語が異なるので、聖書の正確な引用ではなく、羽仁五郎氏の起草ではないかということだった。読み終わった途端に、佐藤氏から「この質問を書いた人、挙手して」と指示があり、中央の前方に座っていた私は、ためらいもなく挙手した。
すると、開口一番「羽仁五郎は大嫌い。講座派だから」。
質問者の私としては、こういう場でこそ、得意の神学知識とギリシア語を披露して、まずは文法的に回答していただきたかった。曽野綾子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160826)が権威付けで物を言っているかどうかは、この際、関係がない。権威に反発したい感情は汲むとしても、私が知りたいのは、本来の主語(それこそ主体)が、「(キリスト教で言うところの)神であるイエス」の言葉(ヨハネ福音書)としてなのか、それとも、マルクス主義者(羽仁五郎氏)によるドイツ語からの借用なのか、識別する必要があるのではないか、ということだ。
「自分にとっては同じ」と言い切っていたが、それでは納得がいかない。二往復ほど強い言葉の応戦となったが(「ですから、その紙にも書きましたように」と述べて)‘Wahrheit’(真実)というドイツ語の単語を私が持ち出したところ、あっさりと諦められたようで、終わった。
佐藤氏は、母校の同志社関係者が多く集まっている古巣だとご自分が見なした場では、聴衆に向かって真剣勝負で、キツイこともズケズケと容赦せず発言する傾向があるようにお見受けした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)。なので、佐藤氏が「この質問を書いた人、挙手して」と指示され、同じように対決型で論争を挑んで来られても、私は全くひるまない。
余談だが、佐藤氏は、中村うさぎさんや雨宮処凛さんなど、深いトラウマを抱えた女性に強いシンパシーを寄せるタイプのように窺えるが、私などは所詮よそ者なので、曽野綾子氏側に立っていると勘違いされたのであろう。しかし、それは感情面であって、論理的かつ実証的ではないのでは?
どんな動機からであれ、かつては官僚だった人だから、組織内の上下関係や礼節や恩義には、敏感で厳しい。また、久米島の王朝出身のお母様の血を引いているので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170129)、感覚が鋭く、独特のものがある。下町風の大衆的な部分と、大量の読書や勉学で身につけた高尚で都会的な部分が奇妙にブレンドしていて、話は自由自在に脈絡なく飛び、テンションの高い、勢い込んだ話し方だった。
ところで、国立国会図書館http://iss.ndl.go.jp/)検索で「羽仁五郎」と名前を入力すると、880件と提示されるが、別途改めて検索すると、もっと多い。
羽仁五郎に関する過去ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B1%A9%BF%CE%B8%DE%CF%BA)。特に、(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160211)に注目を。
入手した古本あるいは図書館で借りた本の題目(『図書館の論理』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160130)『都市の論理』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129)『教育の論理』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160129))を眺めると、一つの特徴がある。問題は、「論理」とは何の論理で、何を目的としているか、ということだ。そして、現在の日本に、どのような影響が及んでいるのか、という検証である。私が見るところ、学生運動をしていた団塊の世代は、既に定年に入っているものの、社会的な影響力は残影として今も強力である。

肝心の私の質問(マルクス主義キリスト教との混同)の詳細は、別途また。