ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ヨーガの思い出

ヨーガについて初めて知ったのは、広池秋子さんという作家の『どうしたら3週間で美しくなれるか ヨーガでどんどんやせる』プレイブックス青春出版社(1980年)だったかと思う。確か、高校二年か三年の時のことで、精神面の強化のみならず、プロポーションをよくして痩せる目的で女性を惹き付けていたかと記憶している。
とても病弱だったのが、五十歳頃、ヨーガと出会って、見る見るうちに心身が構造変化したかのように健康になり、作家業と並んでヨーガ教室も開いて、ますます著名になられたということだった。
その頃、書店や図書館で本を探すと、痩身術としてのヨーガ宣伝もあったが、超能力の獲得や超現実的でオカルト風の神秘性を打ち出していたもの、あるいは、人業離れた極めて困難なポーズの写真などが満載の本が目についた。
その頃、沖正弘氏や藤本憲幸氏などが有名だった。だが、お二人については、さまざまな噂を聞いていたので、遠巻きに見ていた。これは、オウム真理教がヨーガ・サークルから始まったことを思えば、妥当な判断だったかと思う。
昨晩たまたま知ったのだが、広池秋子さんは十年ほど前の2007年に八十八歳で逝去されていたとのこと。広池ヨガの主宰者としては、長寿を全うされ、惜しまれて亡くなった幸運なケースだったのではないかと思った。
名古屋にいた頃、新聞社系の文化センターで、週一回のヨーガ教室に二度通ったことがある。一度目は学部生の頃に二年未満、二度目はマレーシア赴任から帰国した後の半年だった。いずれもレオタードを着た五十代ぐらいのスタイル抜群の女性インストラクターで、ガミガミ叱るキツい性格の人もいれば、お嫁さん候補として若いOL姉妹に声を掛けていた人もいた。
今では、何と悠長で余裕のあった時代だったことかと、何だかほろ苦く思う。
その頃、体が堅いとばかり思い込んでいた私だったが、アーチのポーズができるようになったり、アーサナで気分が落ち着いてきたり、効果はゼロだったとは言えない。ただ、足やウエストが細くなるなど、本に書いてあったような夢のような話は、当然のことながら、全く実現しなかった。
他には、自宅で毎日自習しようとしたが、家庭環境のためなのか、他の勉強等とは違って、どうしても長続きしなかった。
こんなことを突然書く気になったのは、昨晩、本棚から古いノート類を取り出して見ていたら、ヨーガ・ノートが二冊出てきたからである。
実は、2009年にも本ブログで名前を出さずに記した経験ではあるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090612)、当時の経験から十六年以上が経った今でも、実に濃厚かつ一種奇妙な時間だったと、我ながら無知と若さと健気さを懐かしく思い出す。
それは多分、主人の病気と深く関連しているからだろう。私達の結婚生活は、病気に始まり、病気に終わるのだ。
まだ三十代だった当時、私としては、病気治しに関する淡い期待を過剰に抱いていた。また、父も祖母も健在で、妹も弟も未婚だった。日本は社民党民主党など社会主義系統の政治思想が、保守系その他と曖昧に拮抗しつつも、上昇拡大中であった。なので、私達もエネルギーに満ち、早く人生目標を達成すべく、まずは環境を整えなければと、日々焦っていたとは言える。
今では経済的な見通しも何とかつき、諦めもあるので、精神面では楽になったが、当時は、若年性で進行性の難病といえば、リストラを心配していたし、家庭設計をどのように立てればよいのか、暗中模索であった。症状は今より遥かに軽かったので、ひと目では病気だとわからないのが、余計に精神的な負担につながった。また、主人はアメリカ留学や駐在を経験した以上、人一倍、仕事に燃えていたし、将来展望も高い望みを抱いていた。なので、少しでも症状を軽減して仕事に打ち込み、遅れを取り戻し、私との生活を正常に近づけなければならないと必死だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070703)。
患者友の会に入って冊子を見ていると、この頃は当時よりも遥かに中身が充実し、一般への啓蒙理解も進み、良い薬も徐々に開発されて、大学病院の医師にも患者思いの人が増え、少しずつではあるが、希望の持てる方向へと進んではいる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070808)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090818)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)。だが、あの頃は文字通り孤軍奮闘で、漢方で治ると断言する医者の元へあちこち通って高い費用を払ったり、遠くの鍼灸大学(!)に通ったり、琵琶湖近くまで気功を習いに行ったり、極端な断食療法(玄米、豆腐、青汁の二食のみ)を強制されたり、怪しげな高次波動法を講ずる医師や、インプラントで歯を抜けば治るなど言い張ったりするイカサマ師の話を、時には新幹線や飛行機に乗って、せわしなく聞きに行ったり、実践までしていた主人だった。
患者心理として、少しでも「治る」という言葉にすがりたくて、実現不可能なことがわかっていても、麻薬のように引き寄せられてしまうのだ。本屋さんで調べては、自分で電話を掛けてあちこち取り憑かれたように出掛けて行く主人を、私は引き止めるのが大変だった。
「たとえ百万円かかったとしても、それで治れば安いものだ。治療費は、その後の仕事の頑張りで、元が取れる」などと豪語していた。
今、残業の時間過多で精神を病み、解雇退職へと追い込まれている人々のニュースを聞く度に、一つ間違ったら主人だって今頃は...と、気が気ではない。
そうかと思えば、一旦長期休職し、南の島でのんびりと好きなようにゴロゴロ過ごせば、症状が改善するのではないか、といい加減なことを言う医者もいて、主人はすっかりその気になりそうになったこともあった。
または、転地療養としてマレーシアへ来て、教会に通えばいい、と勧める知り合いの牧師もいた。
今にして思えば、全て無駄で無責任で誤っていたと断言できる。せいぜい、気休め程度だった。
それに、結婚前から始めていたリサーチがますます遅れてしまうと私は焦りに焦り、先が見えない暮らしに苛立つ日々だった。
漢方や断食療法や鍼灸などと並行しつつも症状が改善しないことで精神的にも行き詰まっていたその頃、主人が京都の本屋さんで見つけたことがきっかけで、テレビでも一時有名になった今は亡きヨーガ導師の元に通うことになった。2000年夏のことだった。それから丸二年間、月一回ずつ夫婦で通い詰め、道場での集まりにも一度は行き、東京でのヨーガ・セラピーにも誘われて、新幹線に乗って四回ほど出掛けていった。
全ての記録が二冊のノートに残っている。いただいたチラシや添付書類やセラピーの書類も全部、複写して貼ってある。
今から思えば、結局はヨーガで健康増進というよりは、体位と呼吸法によって精神的な安定を得、胃腸病などが改善していく効果は否定しないものの、「ヨーガで病気が治ります」という断言は全くの誤りだったことが判明している。また、主人の病気の場合、固縮という症状が特徴なのだが、ヨーガでこわばりをほぐすどころか、変わったポーズを取るためにますます固くなり、かえってストレスが増加していったのだった。
そのため、導師とのある会話に不信を抱いたことががきっかけとなって、通うのを止めた。
私の父より三歳年下の方だったが、子どもの頃から虚弱体質で、学校へまともに通えなかったようだ。また、高校生の時に結核にもなり、その時の薬の副作用も重なって、世を儚んだ時期もあったようだ。それが、二十代半ばでヨーガと出会い、修行に励んだところ、徐々に健康を取り戻し、四十歳頃から人生が開けていったという。その結果、体系的なヨーガ思想や体位の本を何冊か出版し、アメリカでも一時期は教え、数々のビデオ・テープも作成し、テレビにも出演し、各大学にも呼ばれて科学的に実践しているとのことだった。
恐らく、主人が惹かれたのは、ヨーガの効果そのものよりも、病弱を克服したという導師の生き様にあったのではなかっただろうか。
通い始めた頃、とても懇意にしていただき、「夫婦仲がいい」とおだてられ、一緒にヨーガを習いに来ることを褒められていたはずだったが、一瞬の不信感から一切止めてちょうど一年経った時、突然逝去されたことを知った。それも、ふと気になってホームページを私が開いたところ、お知らせが出ていたという偶然だった。
あまりにも「健康、健康」と主張されていた割には、年齢が早過ぎるようにも感じられたが、主人に言わせると、「僕は騙されているようでいて、実は冷静に見てるよ。途中で気づいたもん。いつも鼻を啜っていたし、食事が外食ばかりで偏っていたし」と。
また、私生活が一切オブラートに包まれていて、二人の息子さんの話が出ていた程度だった。今、そのヨーガ研修会は私とほぼ同い年の次男氏が引き継いでいらっしゃるようだが、インターネット上では、かなり様変わりした雰囲気にはなっている。また、ヨーガ効果で髪が黒々とされていたのかと期待していたのだが、息子さんは早くから白髪だった。
ヨーガ普及の初期には、お寺の道場を利用していたようだが、私達が通い始めた頃には、公民館や区民館や市民センターや生涯学習センターのような公共施設が中心で、後に都市部のホテルを会場としていた。いつか、関東で専門道場を建設するのだという計画により、募金の呼びかけもあったが、私達は支払っていないはずだ。
ピアノ演奏などもされていて多芸のようにも見えたが、結局のところ、病弱のため青少年期に学校へ充分に通えず、しかも独立独歩でヨーガで生計を立てていくとなれば、集客のための誇張宣伝も皆無とは言えず、権威付けの証明も必要で、人生の見返しのような意気込みもあり、何かと無理もあったのだろう。
一時期は「真言ヨーガ」と称して、哲学的、神秘的、宗教的な装いを伴う体位だったが、それでは人々がついて来ないからなのだろうか、いつの間にか「健康ヨーガ」に改称して、「目覚めのヨーガ」を普及し始めた。これは、毎朝10分から15分ほどの基本的な簡易ヨーガで、効用のエッセンスが体系的に組み込まれたものだとの由。
実は「目覚めのヨーガ」を毎日継続して、私はこれで十七年目に入る。気づいたら続いていたのだった。これをしないと、体がこわばり、一日がうまく始まらない。お陰様で、体調としては益々上々である。
私の学生時代には、まだ日本が世界有数の優位な地位を占めていた頃だったため、物質経済的側面に傾きがちな社会風潮に警鐘を鳴らし、代替としてのヨーガが流行していた。幻想的な万能感を効能として説き、桃源郷のようにインドへ誘うなど、ヨーガ志向には一種のユートピア思想に基づく期待感も含まれていたかと思う。長く通い続ける人達は、別の集会でチベット死者の書を研究したりもしていたようだ。ヨーガ経典の研究もあった。
最初から、そこまで入れ込むつもりはなかったので、これでよしとしなければならない。
足の親指をきゅっと立てたり、背骨をじりじり捻ったり、足首を手でつかんだり、股関節を柔らかく開くことで、主人の病気が治るはずがないのだ。それでも、「T君、ヨーガしかないからね」「是非とも治してあげたい」「ヨーガで必ず治ります」と繰り返し声を掛けられていたあの日々のことが、私は忘れられない。