ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

膨大な著述サイトから

膨大な著述サイト(http://whisper-voice.tracisum.com/)を過去に何度か引用させていただいた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150408)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170109)。

ふと検索で引っかかった「2ちゃんねる」(http://anago.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1324747068/)によれば、相当な批判が出ている。有名なサイトだったのだろう。
そうとは知らなかった。確かに、妙に復古調だったり、一方的だったりする部分もなきにしもあらず。また、サブカルチャーのアニメや漫画や映画などには全く私は疎く、勢いのある文章に惹かれてしまった面はある。従って、一部に賛成しがたい面もあることを承知の上で、私は抜粋引用させていただいている。
あるカテゴリー(http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=124)には、以下のように綴られている。

・今、ここのアクセス数は毎日およそ2〜3000くらい。ページビューだと、その2〜3倍くらい。
・この影響力がどのくらいかは知れませんが、決してムダにはなっていないと思ってます。
・もしブログを開設されていて、1日の来訪者数が100人を超えてるような方ですと、その辺の教会以上の影響力を持ってると考えてよいのです。特に何の組織もないのに、それだけ来訪者があるような方、大いに自信を持ちましょう。しかも、教会は実質的にクローズに近いですが、ネットはオープンで、常にいろんな人が見ていきます。

(部分抜粋引用終)

私は、毎日ノートにページビューや一日の来訪者数などのアクセス・データを記入している(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160113)。上記のサイトほどではないのは当然のことだが、無名の個人ブログ「ユーリの部屋」のユニーク・ユーザーは、データによれば、最低だった日が70名を超え、平均して一日に約100名だ。勿論、「1日の来訪者数が100人を超えてる」時もある。
それでは、「その辺の教会以上の影響力を持ってる」と言えるのか?答えは、「否」である。
教会は信仰者の集まりであり、見上げる先は神で、教会を司るのも神なのであるから、人数の多寡は問題ない。現に、イエスの名によって二人か三人が集まる所はどこでも、主の現存があると新約文書に記されている(マタイ福音書 18章20節)。力が働くのは神の業なのであって、人間業ではない。従って、ブログの集客率と同列に考えるのは間違っている。そもそも、教会で読まれる聖典と素人文章を一緒にしてはならない。

主人に何度か勧められて始めた私のブログは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101027)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151111)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160412)、もともと勉強ノートや生活記録が主眼であって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080622)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160425)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161108)、社会に影響力を及ぼそうなどとは最初から毛頭考えていない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131128)。暇つぶしや一時期流行った「自己実現」でもない。趣味でブログ開設している人達が多いのかもしれないが、私の場合は趣味ではない。
アクセス・ランキングのグラフは知っているが、滅多に目を通さない。年に一回か二回ほど、思い出したようにプリントアウトして、自分の記録用にノートに貼っておく程度である。
だが、黙ったままだと伝わらない上、大変残念ながら、全く事情を無視して間違った判断をする人が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160425)、学会や研究会(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161205)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170103)や親戚(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)等、私の周辺には少なくなかったので、それでは事実誤認として問題が大きいと考えて、書き続けているのみである。例えば、父は人に言いふらすタイプではなく、いつも黙っていたので、「あなたのお父さんが一番賢い」と親戚から言われていたのだったが、実際には黙っていたので伝わらなかった部分もあり、可愛がっていたはずの息子達によって、地上から永久に名を消されてしまった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151226)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)。個人的な電話でも、虚言や憶測によって他の人に違った風に伝わっていたり、日によって文脈によって発言がコロコロ変わる人もいたりしたので、全部、公開文章にしている。(過去ブログを、ハイパーリンクではなく、わざわざアドレス明示しているのも、内容に一貫性を示し、証拠付けするためである。)
もしかしたら少しは記憶違いなどが含まれているかもしれないが、あくまでも、自分の考えたこと、感じたこと、経験したことに基づいて、事実を書いてきた。

とはいうものの、冒頭のサイト(http://whisper-voice.tracisum.com/)には、今の低迷した時代を反映して、大胆で勇ましい文章が多いので、参考までに引用させていただく。

http://whisper-voice.tracisum.com/


(2012.11.28)
女の子に何かの習い事をさせる場合、その道のエキスパートを目指させることなんかより、あくまで立居振舞を美しくさせたり、教養・気晴らしとしてやらせるのが本意なんだということに気をつけておきましょう。

(部分抜粋引用終)

http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=396


・女性には芸事や、しとやかな日常生活が要求されていた。音曲、歌舞、読書をすることは決しておろそかにされなかった。踊り(芸者の踊りではなく、サムライの子女の踊り)は立居振舞をなめらかにするためにのみ教えられた。


・稽古は必ずしも技巧や芸そのものを学ぶためではなかった。究極の目的は心を浄化することにあった。


・さまざまな芸事も、常に道徳的な価値に従うべきものとされ、音曲や舞踊は日常生活に優雅さと明るさを加えるだけで十分とされた。それらは見栄や奢侈のためのものではなかった。他人に見せたり、それによって世に出るためのものではなかった


・家を治めることが女性教育の理念であった。古き日本の女性の芸事は武芸であれ、文書であれ、主として家のためのものであった。彼女たちが身を粉にして働き、時には、生命まで棄てるのはひとえにその家名を守るためであった


武士道の教え全体が徹底した自己犠牲の精神に染めあげられており、その精神は女性のみならず、当然のこととして男性にも要求された、ということである。


・一人のアメリカの女性解放運動家は、「日本のすべての若い女性たちよ。古い慣習に反対するために決起せよ」と叫んだ。だが、この自己犠牲の教訓が完全に消え失せない限り、日本の社会はこの軽はずみな考え方を受け入れないであろう。そのような反対運動は成功するだろうか。それによって女性の地位が改善できるだろうか。そのような性急な運動によって勝ち取られた権利は、果して現在、日本の女性たちが受け継いでいる極めて優しい気質や温順な振舞を失うことと引き合うだろうか。


・ローマの女性たちが家庭のことを顧みなくなってから、言語に絶するほどの道徳的退廃が起ったではないか。あのアメリカの解放運動家は、日本の女性たちの反乱が、彼女たちが歴史的進歩のためにとるべき真の進路であると保証できるのだろうか。


・女性は社会的、あるいは政治的な存在としては重要ではないが、他方、妻、あるいは母としては女性は最高の尊敬と深い愛情を受けていた。

(部分抜粋引用終)
上記の子女の嗜みとしての芸事については、私の祖母も全く同じことを言っていた。何歳の頃だったか忘れたが、会話は今でもはっきりと覚えている。
「おばあちゃん、そんなに女学校で成績が良くて、そんなにいろいろ習い事(琴、茶道、華道、書など)をしていたならば、教えることすればよかったのに」と私が言うと、「昔は習い事が娘の仕事。人様に教えるなんて、考えたことないねぇ。教えるとなれば、大変でしょう?」と即座に返答が返ってきたのだった。
戦後はガラッと価値観が変わり、簡単に教える職に就いて指導し始める女性が増えたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161209)、昔は、嫁候補として女教師が嫌われたものだった。

http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=251


婦人公論で威勢よく、“離婚のススメ”〈子どもはわかってくれていた。弁護士が手ほどき──裁判に勝つための「事実」の集め方。「浮気の証拠」と「不貞の証拠」は違います〉等エラぶっていた高畑淳子でしたが、その息子が強姦罪で逮捕されました


・『婦人公論』は1916年(大正5年)創刊の女性誌、元から「自由主義と女権の拡張を目ざす」がテーマのフェミ系女性誌だったが、発行部数は今も20万部を超え、これは『Ane Can』の25万部と大差なく、『Ane Can』等と変わらないくらいのミドルエイジ女性への影響力を持っている。今では中央公論新社という会社が発行してるが、実は既にここは読売系の会社で、読売のアカ化・フェミ化にも大きな影響を及ぼしてる気がする。

(部分抜粋引用終)
婦人公論』のバックナンバー(http://www.fujinkoron.jp/backnumber/index.html)を見ると、凡その傾向がわかる。

「雑誌『婦人公論』は、美しく年を重ねている女性たちのために、豊かで艶めく生き方を提案します。結婚、離婚、仕事、出産、子育て、人づきあい、性愛といった小誌ならではの特集企画を中心に、旬の芸能人や著名人のことば、話題の作家の小説、ファッション・美容・カルチャーなどの最新情報などを多彩に盛りこんで、輝く女性たちの「知りたい」に応えます。」

(部分抜粋引用終)

「豊かで艶めく生き方」「人づきあい、性愛」「輝く女性たち」等の言葉の羅列で、「美しく年を重ねている」と自認する読者層が窺える。著名人が社会の規範とは限らず、ましてや「芸能人」なんて....。また、充分に漢字で書ける箇所でわざわざ平仮名表記にしている。これは明らかに、家族解体を企図した典型的な左翼思想(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161201)。
これまでの人生で、私はこの雑誌を購読したことはおろか、書店や図書館で真面目にページを繰ったこともない。新聞紙の下欄広告で表紙のタイトル羅列を見ても、自分と全く関係がないので、そもそも読む必要がなかったのだ。

http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=280


・もちろん子供はやがて親から自立して、自分自信で生き抜けるようならなきゃいけないわけですが、この言葉だけでは刹那的、享楽的な生き方を肯定することにもつながるし、要するに「自分の人生を好きに歩め」ってことで、未来永劫の子孫繁栄という観点が完全に欠落してるわけです。


先人の思いや命を完全に無視してるわけですから、そんな奴らの跡形なんて将来は完全に消滅して当たり前と言えます。


・古き先人であった姑や舅の言いつけを、日本人が皆、忠実に守り続けていたなら、日本がここまで堕ちてしまうこと、きっとなかったでしょう。


・子供を生めない人が無意味な存在なのかというと、そんなこと決してありません。当然、その種の人も、未来の日本を守ってくれる子供たちや、子供を生んでくれる人を守っていこうという気概を持っていれば、それでいいんです。


・左翼やリベラル系、スピ系とかがよく言う、「一度しかない自分の人生、自分らしく自由に生きましょう」・・・なんて個人主義的な言葉とは、それこそ対極と言えるでしょう。


・逆に言えば、自分が今あるのは、ご先祖様がいたおかげだと、そこまで発想できるようなれば、なおいい。


自分が子を虐待、ネグレクトしたりすれば、それを子供がまた繰り返す、あるいは自分に返ってくるということをわかっていれば、それほどひどいことは出来なくなるものだと思います。近視眼的で今しか見れない人ばかりだから、愚かな事件が起きてしまうんです。


・私の従兄弟は辛うじて結婚してるのもいますが、その子供たちは既にいい歳ですが、誰も結婚してません。私が子供の頃、両親の実家に行った時、それはそれは賑やかでしたが・・・


・私の世代はまだ、割と結婚は多かったですけど、既にその後の離婚が非常に多いです。30代だと結婚してる人自体少ないでしょうが、その上、まだピンと来ないでしょうけど、もうしばらく経つと離婚するカップルが目立ってくるでしょう


・本気で真剣に子育てやっておかないと、これから先、ひどい事態が待ち受けてます。無縁仏が増えるのは間違いありません。家もどんどん小さくなっていきます。

(部分抜粋引用終)
婦人公論』で思い出すのが、『クロワッサン』という女性誌。これも私は二十代の頃から読んだこともないが、『クロワッサン症候群』という本を書いた、1947年生まれの松原惇子氏のエッセイを結婚前に一冊だけ読んだことがあり、お見合いや出会いの世相について、いろいろと考えさせられたものである。
ちなみに、最近、書店で氏の近著を立ち読みしたところ、かつては収入も上々だった「私」の社会的信用が落ちて、老後生活に困っているようだった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/


・クロワッサン症候群(クロワッサンしょうこうぐん)とは、人生の選択肢としての結婚を拒絶したが、結婚や出産適齢期を越えた年齢になり、自分の生き方に自信がもてなくなり焦りと絶望を感じている中年女性たちの心理的葛藤の形容である。1988年に刊行された松原惇子の『クロワッサン症候群』を語源とする。


1980年代日本経済はバブル期を迎え、男女雇用機会均等法が施行され、女性たちは男性と同じ条件で働き、同等の賃金を得ることが可能となった。結婚生活、子育てというコストを払わない独身の彼女たちは、有り余る可処分時間と経済財を、ファッション、グルメ、海外旅行(留学)、結婚を前提としない恋愛...等に自由に振り分けることが可能となった。そのような女性たちにとって自分たちの母親の人生は、家庭に縛られ夫や姑・舅に尽くすだけの従属的生活としか理解出来なかった。彼女たちにとってはもはや母親と同じ道を歩むという選択は不可能であり、結婚そのものを拒否するという新しい生き方を模索するようになっていった。


・女性の本来自由な生き方を可能とするはずであった売り手市場の雇用条件(とりわけ派遣雇用)は賃金の低迷、雇用の不安定化をもたらした。それに年金制度の信頼が揺らいだことが不安に拍車をかけ、単独世帯で永続的に高収入の生活を続けていくことの見通しが立たなくなっていった。


・かつて20 - 30歳代のとき、母親達が口うるさく勧めるお見合い話を拒絶することが出来たのも、同じ生き方をしている同世代の女性たちが存在し、彼女らもまた『クロワッサン』の信奉者であり同志であるという確信であった。しかしながらその確信が全て崩れたとき女性たちは言いようのない失望、虚脱感、孤独感、そしてぶつける対象を見出せない怒りを感じることになった

(部分抜粋引用終)

なぜ、このような記述をわざわざ引用するか。それは、私の経験を説明しているからではなく、私の周囲にその筋を辿った人や影響を受けたらしい人達が複数いて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)、今、とても困っているからだ。
また、私がその筋だと勘違いされて、会話がチグハグになっていたからでもある。
祖母が亡くなって五年以上、あるいは父が亡くなって三年以上経った今、盾というのか蓋が外れて、やっとさまざまなことが明白になっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161222)。
「いつかきっと、おばあちゃんの言っていることがわかる時が来る」と、祖母は私に時々言っていた。その当時は、私に対する叱責だとビクつきながら聞いていたが、今にして思えば、どうやら私にではなく、祖母の言うことに反抗した人々に対する言葉だったのだろうということも、やっとこの頃、判明した。

追記:上記は2011年1月31日付の記述だが、もっとクリックしてみると、次のようにあった。

http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=120


(2010.7.14)
現在、一日千人から多い時は三千人くらいの方々が訪れてくださっています。


(2011.10.13)
これを書いた頃は1日2000人だと多い方でしたが、おかげさまで今では1日3000人平均ぐらいです。


(2015.11.25)
さらにこの後、1日4〜5千人位のアクセスにまで増えてる時期もありましたが、今はずっと減ってしまってます。それでも1日千人を下ることはまずなく、昨日はなぜか最近には珍しく三千人近くが来られたようです。新たに読んでくださってる方も相当数おられることでしょう。

(部分抜粋引用終)
私見だが、アクセス人数やページビューだけでは、客観的に正確な影響力は測れない。人数が限られていても社会の上層に位置する有力者の目に恒常的に留まっていれば、多少の影響はあるだろうが、引き篭もりや年金生活者やアウトサイダーだと自負しているような人達にいくら読まれたって、あまり変化はないだろう。