ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

奇妙な符合

どういうわけか天皇皇后両陛下までバッシングの対象になっているこの頃、ブログ上のコメントを見ていると、なぜか思い浮かぶのが、学校の教科書に載っていた「朕はタラフク食ってるぞ」である。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1714.html


終戦の翌年である1946年(昭和21年)5月19日の飯米獲得人民大会(食糧メーデー)で参加者が掲げたものです。

 
 「詔書 国体はゴジされたぞ
  朕はタラフク食ってるぞ
  ナンジ人民飢えて死ね
  ギョメイギョジ」


 ギョメイギョジは漢字で書くと「御名御璽」。」

(部分引用終)

天皇陛下には、時期によって、それぞれの課題があると私は考えている。
昭和天皇は、最期まで「戦争責任」を問われ続けられながらも、黙して国体護持。平成の代になると「鎮魂と謝罪」の旅を通して、国内外での日本の地位回復。

私など、戦時中はコタバルからシンガポールまで南下して激戦地だったマレー半島へ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070722)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100312)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131208)、再び、装い新たに日本語を教えに行くというので、現地の複雑で微妙な宗教民族感情を刺激してはならないと釘を刺され、任期滞在中は本当に神経を使ったものである。
ただでさえ、四季のない亜熱帯気候で疲れ易く(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170427)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170715)、マレー・イスラーム文化に放り込まれて無我夢中で神経がくたびれ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071208)、マレー語と英語を習いに行っては頭が茫洋とし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070821)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160905)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170526)、日本の情報にも遅れないように気を配り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)、「帰国後が怖い、怖い」と駐在員の奥様方と話をしながら身が縮むような思いをし、髪の毛の先の方が茶色に変色するほど、いつでも本当にストレスで疲労困憊していた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071205)。
だが、帰国すると、「もう、この人、人生終わっているね」と言われ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100615)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)、集めた資料や本等も、「家が傾くし臭うから捨ててほしい」と文字通り処分されたものもあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)、将来の勉強のためと貯金しておいたお金も、吸い取るように取り上げられていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)。
(こんなことでは、誰も結婚してくれる人はいないなぁ)と、一人で思い詰めていたことは、以前にも記した(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161217)。
実は、1990年代の初期、天皇皇后両陛下がマレーシアの私の職場を公式訪問されるというので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170823)、日本大使館の人から事前に、事細かく予行演習もどきを指導された。
「ここを何時何分にお歩きになります。多分、天皇陛下は先を歩かれ、皇后陛下は、丁寧に御挨拶されると思いますが、予定としては何分の見込みです」。
当日、金色の入ったマレーシア模様のオーダーメイドで、手持ちの中では最も良いワンピースを着て、同僚と一列に並んで、緊張しつつ頭を下げていたが、実はその前日、実家から「お前なんかいなくてもいい」という罵倒のような手紙が届き、ものすごく落ち込んでいた時だった。両目がどうにも腫れぼったいままで、両陛下には申し訳ないという顔を、何とかお化粧で隠していた。

実際、一人一人にお声を掛けられていたが、私のすぐ左に並んでいた同僚にお話になられたので、私は素通りだろうと思っていたら、何と、おみ足を留めてくださったので、びっくり恐縮してしまった。
「あなたも日本から?そう…それはよかった。今日はとてもうれしいです」
と、透き通るような慈愛のこもったお声で、じっと見つめてくださったのだった。
その一瞬で、どんよりと重苦しかった私の気持ちは、急に晴れ上がった明るい空のようになった。
このことは、どんな時代になっても、両陛下の御足跡に誰が何と言おうと、一生涯、私には絶対に忘れられない、大切な一生の思い出である。
無責任にバッシングをしている女性達には、是非とも、国民の中にこのような者もいることを、頭の片隅に置いていただければと願っている。

https://dic.pixiv.net/a/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E


貞明皇后大正天皇の皇后)


九条道孝公爵の四女として、明治17年6月25日に誕生。本名は九条節子(さだこ)。道孝の姉は孝明天皇の女御英照皇太后で、節子姫の伯母にあたられる。


・道孝と中川局(野間幾子)の間にお生まれになり、生後間もなくから5歳の時まで、府下高円寺(現杉並区)の豪農・大河原家で養育された。


・この時代の皇族や華族の間では、我が子を里子に出して、自然の中で逞しく育てるという風潮があり、また一方で赤子を他家で養育してもらうと丈夫になるという迷信もあった。養い親の金蔵・てい夫妻は、田野の中で自由に遊ばせたので、節子姫は活発で意志の強い女性にお育ちになった。日焦けして色黒になったので「黒姫さま」と綽名されたほどである。


明治22年、赤坂福吉町の九条家に戻り、明治23年9月、華族女学校(後の女子学習院)にご入学。1年生の時に節子姫が休み時間、突然、調子外れの奇妙な歌を唄いだした。
「オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー」という、庶民の間で流行っていたオッペケペー節であった。
上流階級の令嬢である同級生たちはあっけにとられて姫を眺めた。「九条さまは変な歌をお唄いあそばす」と驚いたのであるが、それは大河原家で覚えた歌であった。どこか人の意表を突くような行動に出られるところが節子姫にはおありになった


・小学部・中学部と進み、明治32年に優秀な成績で卒業された。この年の夏に明仁嘉仁親王の妃に選ばれた。これは英照皇太后のご意向であったらしく、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮の妃に目されたようである。


・明治33年5月10日、皇太子妃として宮中に迎えられ、ご成婚の式が挙げられて、日本中は祝賀ムードに酔いしれた。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。皇太子嘉仁親王節子妃の他に一人の側室も置かれなかった。皇太子の身の回りのことは皇太子妃が大方お一人でお世話をされた

(部分抜粋引用終)

過去ブログをどうぞ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160314)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)。


「マレーシアなんかに行ったから、変な相手としか結婚できないんだ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170804)「もう顔を出すな!」「どちら様ですか」「お宅はもう結構です」「うちは格が違います」「婚約破棄せよ」「離婚前提で結婚させてやる」「子育て失敗」は、二十年前の私の結婚前に、罵倒と悪態全開で言われた馴染みの言葉である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170823)。
父の葬儀の時にも、「初めてお目にかかりましたか?」と言われた。その叔父さんの結婚式に、小学校低学年だった私は出席しており、アルバムに写真が貼ってあるのに、である。
勿論、父は「自分の人生だから、自分で決めろ」「真面目そうな男だ。歳がいっているだけあって(注:私より五歳上)、落ち着いている。ユーリが良ければ、お父さんは反対はしない」と言ってくれていたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091214)、結婚式が終わるまでは、もう何が起こってもおかしくない、疾風怒涛のような日々だった。
ここ数年、やっと立ち直れそうになったのに、眞子内親王殿下のご婚約ニュースを巡る騒動で、全く異なる文脈なのに、全く同じ言葉がネット上で飛び交うのを見て、また当時のことが思い出されて、悲痛沈痛な気持ちである。
というと、主人が何か相当に問題のある家のように思われるかもしれないが、実は、これまでブログに綴ってきた次第で、何も隠すことはない。
主人の母方祖父は戦前の校長を務め(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)、鳩山由紀夫氏の父方祖母の薫子さんと縁続きだという家から嫁に来た祖母に育てられ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B7%B0%BB%D2%A4%B5%A4%F3)、田舎に行けば、過去帳藤原氏から記されていたという(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070816)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151111)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170729)。同居の父方祖母も神職の娘として明治に生まれ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170630)、女学校卒業だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150215)。
戦時中に家が全焼してしまい、一文無しになったので、ようやく探し当てた土地に家を建てて暮らしていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)。本籍地は元の家のあった場所のままなので、新聞に掲載されている今の時価を見れば、家柄だってよくわかるだろう。
同居の祖父は、死の床につくまで、ずっと黙々と働いていたと、主人は結婚準備中に、ぼそっと何度か言っていた。祖父を診てくださったのは、後になってノーベル賞を受賞されることになる山中伸弥教授の奥様のご実家だという(追記:「お父ちゃんが怪我した時も診てもらった。僕、子供だったから、ブザーを押し続けて、先生に怒られた」)。
大学院まで、奨学金も借金もなしで、一括払いで卒業した。浪人も留年も編入もしていない。勿論、塾にも予備校にも通ったことはなく、親から強制されたことも一切なく、子供の頃から自分の得意とする道をひたすら進んできた。
披露宴の時に、首席卒業だったと大学時代の恩師が言ってくださり、(ほう〜!)と会場からため息が聞こえた。言うまでもなく、主人から言い出したことではない。
だからこそ、戦後の価値観の転換および混乱混同による、表面的な思い込みや固定観念、地域文化の違いを無視することの恐ろしさを、あえて記す。学歴や職種だけで人を判断してきた挙げ句、こんな歪な社会をつくってしまったのだ。
大学より企業研究所の方が地位が低いだとか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170804)、博士号がないから失敗学歴だとか…。工学部よりも理学部の方が程度が高いとか、医者や弁護士や教授でなければエリートではないとか…。
聞いたことのない名字だから、関西だと中国か韓国の人じゃないの(?!)とか…(ユーリ注:横浜にも地名があり、昔、高校の現代国語の教科書で見たジャーナリストと同じ名字)。

私に投げつけられた言葉そのものは、今、インターネット上で容易に見つけることができる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170821)。主人は全く取り合っていないが、この調子だと、もし私に何かあったら、事実ではないことが大きく小さく語られて、他人のように葬られる可能性がゼロではない。事実、父のケースがそうだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170730)。
それが心配だったので、電話もまともに通じない今、こうしてブログを書くことにしたのだ。
実は、職場の同期だった方も同じ敷地に暮らしているし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150408)、同僚の方達にはよくしていただいている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170621)。また、病気のために配置換えをしていただいたが、それでも上司のご配慮により、お給料は据え置きのままである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)。
それに、アメリカ留学時代に大量にいただいた名刺や書類、出張の度毎の励ましメモが付いた、いざという時のお薬セットやトラベラーズ・チェック(当時)、たくさんの会議ファイル、東海岸アメリカ人を採用した時の記録、お世話になった会社の方々のお手紙や写真が、何箱も実家から送られてきている。
お見合い話もいろいろあったのに、「まだ勉強したいから」「勉強が好きだという自分を理解してくれる女性がいいから」等と(勿体なくも)お断りしてきたらしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161022)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170107)。


結婚前に、「きちんと説明するから」と申し出た主人をハナから拒否して、勝手に親戚中にあることないことを言いふらしたり、手紙に書いたりして十数年が過ぎたので、せっかく結婚式や披露宴にも出席していただいたのに、全く歪んで話が伝わっていたのだ、ということを、数年前に祖母や父が亡くなってから、やっと私は気付いた。
だからこそ、私は弟達にも相手にされていないのだ。そして、体を張って私を守ってくれていた父は、私の結婚前から用意してあった墓地を処分されて、気付いたらアルファベットと数字のみになってしまった。


こういう話を、主人の亡父の従姉妹に当たる方と電話で話していたら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)、「え〜!」と絶句。何度も何度も「Kちゃ〜ん、Kちゃ〜ん」と、主人の名前を呼んでいた。「いい家だったのにねぇ」と。
主人の母は、いつでも私に「申し訳ない、申し訳ない」「うちに来なければ、もっといい人生だったのに」と謝ってばかりいて、長らく戸惑っていたが、この度の眞子さんの婚約発表騒動のお陰で、一部の女性達の根強い心性や身勝手な狭い思い込みに関して、やっと背景文脈がわかった。
どの結婚であっても、事前事後に人をここまで追い詰める勢力とは、一体、何なのだろう。
本当に、会ったこともない眞子さんのお相手に対して、一部報道のみで気儘に発言している人々は、慎重に自分を振り返っていただきたい。
「長女が反抗して云々」という身勝手な言い草も、一切止めていただきたい。どういうわけか全く同じことを、私も言われた。(「逆子だから親に反抗する」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170118)?)私は、反抗して主人と結婚したのではない。主人が主人だったからこそ、結婚したんです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161116)。
「反対される結婚なんか、うまくいくはずがない」と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170820)、これまた同じことを言われた。でも、そう言った人は、主人の今の年齢ぐらいで既に病の床に。小さい頃にはよく遊んでもらったが、密葬だったので、結局は消息不明。
そして、時に「おしどり夫婦」「仲がいい」と言われながら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170112)、山あり谷ありのこの二十年間を、二人で過ごしてきた。