ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ようやく世代交代の兆しか

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-303.html


2015/04/11


・平日は大学事務やら、いろいろな依頼に応えたり断ったり引き受けると事務作業とか面会して打ち合わせとかこないだの講演の文字起こしを直せとかものすごい大量の雑務が積もっているのでほとんど仕事にならない。皆さん、何が重要なことか、ちょっと考えてください


・時間がなくてコメント欄にはほとんど反応できない(大部分スパム&思い込みコメントだしねえ・・・「コメントの墓標」)


・ジャーナリストとかコメンテーターっているのは、こういう水準のものなの。そういう人は日本には、ほとんど全く、いません。それはつまり、市民社会の質が低いということなのです。取材によって現象の中から支配的な論理を抽象化できないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。


・もちろんデマに踊り踊らされるコメンテーターとかも、いりません。もっと能力がある人を探してくるのがテレビ局の義務ですし、能力のない人は能力のある人に追い落とされることが、競争社会の必要なメカニズムです。


・最近は「政府の息のかかった文化人から圧力がかかった」とか言い出す人がいるんだよな、ジャーナリストを称する人たちの中に。「声が大きい一部の学者」とかね。


・言論人が内面化して備えるべき基本的な前提を身につけていないということを意味します。近代社会の言論人として成立する以前の、子供の議論。しかしこれが多いんだな。


・言論とは、「弱者」の立場になりすまして他人を黙らせる競争をするものではありません。なお、「弱者」の立場に立てば相手が仕方がなく黙る、という手法が通用するのは、弱者を尊重するという規範が何はともあれ通用しているからです。


・その規範を実質上の強者が乱用し始めれば、本当の弱者の権利は消滅します。権利というものは、市民社会が質を保つことを一つの重要な条件として守られているのです。気をつけましょう。

(部分引用終)
全くごもっとも。「思い込みコメント」というのは、言い得て妙。
多分、皆さん、池内先生とフェイスブック等でつながって、うれしいんじゃないかな?自分の意見が表明できると勘違い(?)して...私にとっては、知り合いの方の感想を読み、「こういう(勘違いをする)人だったのか」と見直しを迫られる機会として、利用させていただいている。
もちろん、池内氏の著述に関しても、私は必ずしも盲従しているつもりはない。
それは以下に。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf


・北米中東学会の大会では、毎年中東関連の映画・ドキュメンタリーを流し続ける一室が設定されていて。。。。

(部分引用終)
その「北米中東学会」なのだが、パイプス先生の過去の著述には、強烈な批判がかなりある(http://www.danielpipes.org/12184/)(http://www.danielpipes.org/13037/)。もちろん、古典的な意味での自由主義で「親イスラエル派」なので、体を張っての言論だ。それに、ハーバードで最悪の年に歴史学を学ぶはめになり、最後の正統な「東洋学者」からイスラーム史を学んだ経緯があるため、年季が入っている(http://www.danielpipes.org/blog/2004/08/harvard-celebrates-middle-east-studies)。
いろいろな文献を読みながら、かなり前から少しずつ訳しているが(http://www.danielpipes.org/392/middle-eastern-studies-what-went-wrong)、いつ提出するかは未定。
そのフェイスブックの続き。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf


・このことを感じられる学会・知的コミュニティが日本では少ない。ないわけではないが。私はそういう数少ない場にけっこういさせてもらっているので、私個人は大変にハッピーなのだが、問題は学問の世界の大勢はそうではないらしいと伝え聞くことだ。


・学生の頃に欧米ではやっていたものを数十年かけて受け入れて、それ一本を日本で売り続ける、というのが明治の文明開化以来の日本の学者のやり方。


・このやり方だと、学問の発展がリアルタイムじゃなくなるのだよ


・実際、「批判するときはそれはもちろん人格攻撃しますよ当然じゃないですか学問は権力闘争なんですエドワード・サイードもそう言ってました(キリッ)」という人たちもいる(困ったもんだ)。


・日本では、学説が属人的に、人格として、代理店機能を果たす学者に帰属するので、学者個人の言っていることが、現実の変化にあわせて変わりにくい。ネタ元は数十年前の外の世界のなんらかの現実と、それを対象化した権威的な学者・学説にあるからだ。


・世代が変わって違う人が出てくると、前のものが批判されずに、「新しい流行の学説」が輸入され(密輸の場合もある)、支配的になり、「バスに乗り遅れるな」とメディアも乗っかる。


・ごく少数の、リアルタイムで現実を見ながら理論を作っていく人は、「ジャーナリスト・評論家にすぎない」と陰口を言われる、という、ふと考えるとかなり絶望的な世界が広がっている。


・でも頑張るしかない。

(部分引用終)

その「ハッピーな」池内先生には申し訳ないのだが、いつも気になるのが「海外(アメリカやフランス)では」とやって「それが日本には(少)ない」という言説パターン。一歩間違えると「出羽の守」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140910)では?実は、アメリカもフランスもパイプス先生の顧客が存在する場だが、いずれの国にも、そのパイプス先生が痛烈に批判している学者群がある。それは、簡単に言ってしまえばイデオロギーの問題なのだが、そこを突かないで大きく国次元の話に持っていくところ、池内先生、何とかなりません?
しかし、「エドワード・サイード」に関しては全く同感だ(キリッ)。
パイプス訳文から「エドワード・サイード」を(http://www.danielpipes.org/12188/)(http://www.danielpipes.org/12220/)(http://www.danielpipes.org/12272/)(http://www.danielpipes.org/13353/)(http://www.danielpipes.org/13355/)(http://www.danielpipes.org/14382/)(http://www.danielpipes.org/15196/)(http://www.danielpipes.org/15425/)。
そして、過去ブログから「エドワード・サイード」言及を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150327)。

今年の3月の小さな学会では、まだマレーシアとインドネシアを混同している人がいた。いい加減にして!