ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

下から目線を禁止に

http://anotherway.jp/tayori/kazetayori/vol90/p4.htm


・かつてベトナム戦争が泥沼化し、アメリカの学生達が既存の大学の授業に飽き足りなくなった時、「Free University運動」を創設しました。彼らは教育の原点、生涯学習支援の原点に返って「誰が習ってもいい」、「誰が教えてもいい」("Anyone can learn, anyone can teach."*)をスローガンにしたのです。専門化し、職業化し、「タコつぼ化」し、「特権化」した当時の教育システムへの最初の異議申し立てでした。そこから「学習交換(Learning Exchange)」や自主講座が始ったのです。
(*William Draves, Free University, AP/ Follett,1980)

(部分引用終)

http://anotherway.jp/tayori/kazetayori/vol90/p3.htm


不登校も、引き蘢りも直接的原因は、「欲求不満耐性」の欠如ですが、間接的原因は、自分と他者が「対等」で、教師や親と同じように「えらい」と思っている子どもの挫折です。


・「半人前」は「半人前」の世界に押し込めておけば、世間の仕打ちや教育の強制や教師の否定に傷つかずに済んだ筈です。


・「一人で大きくなったような口をきくな!」「誰のおかげでメシが食えると思っているのか!」これらは一昔もふた昔も前の、今や時代遅れの台詞ですが、決して間違ってはいないのです。子どもにはまだ「独立」・「一人前」の資格がないことを常に思い出させることが必要です。教師や親が子どもより「えらい」のは当たり前なのです。


・子どもの個性より生活の基本を「型」として学ぶことが先です。子どもの創造性より他人に迷惑をかけない共通の規範を身につけることが先です。その指導者が親であり、教師・指導者だった筈ですが、物わかりのいい格好をしたがった教育者と法律上の子どもの人権を教育に持ち込んだ「人権主義者」が重大な間違いを犯したのです。


・教育論は「子どもはのびのびと」の発想であり、子どもの「主体性」、「自主性」を第一順位に置き、子どもの「やる気」、子どもの「興味・関心」を中心とした指導法なのです。この種の発想の問題は、子どもに「のびのびさせておいて」、「自分からやらなかったとき」の準備ができていないのです。


・一人一人に合った指導が出来るかのような「幻想」を振りまいてはならないのです。まして、他の子ども達が存在する中で、普通の教師に個別指導や一人一人に合った授業など出来る筈はありません。


・現代は保護者から政治家まで子どもの欲求と権利に振り回されています。結果的に、公立学校は「受容」の過剰な現代の「子ども観」に振り回されることになります。学校では、ひ弱で、わがままで、自己中心的な子どもの世話に手がかかり,次から次へと問題が起こります。学校外では、そうした問題に対して,受容過剰な子ども観を真に受ける保護者や政治家の教育への「異議申し立て」や「働きかけ」を止められないのです。


朝日新聞がたった一行だけ、先生方は「評価に納得のゆかない保護者に罵倒されるようにもなった」と書いていますが、この一行こそが最大の問題であることに記者達は気づいていないのです。


・現代の学校に蔓延したものは、未熟な子どもの「主体」が教室の中で教師に突きつける「対等」と「自由」と「権利」の要求です。

(部分引用終)

http://anotherway.jp/tayori/kazetayori/vol90/index.htm


・子どもにはこの世には彼らの思ったようにはならない不条理があることを教えなければなりません。人それぞれに能力や考え方の違いがあることも人生には勝ち負けがあることも人の世は必ずしもフェアーではないことも、嫌々ながらも従わなければならないことがあることも、分からせなければなりません。人の世の事実を教えるためには、子どもの意志や欲求を「全面」尊重し、「過剰に」受容してはならないのです


・教育は原理的に「抑圧」を含むのです。ルールは強制し、知識は教え込み、不可欠な技術は型として"叩き込む"場合も多いのです。社会規範を教えようとする以上、教育は子どもの欲求を抑圧し、教師はその執行者です。「ダメなもの」は「ダメ」だからです。原理的に、「強制者」となり、「抑圧者」となる教師は、子どもと「対等」になってはならず、「仲好し」も一定の条件の下でしか実現してはならないのです


・教室では、彼らの興味・関心、意志、欲求、主体性、自主性、個性などをあたかも成人と同じように、独立した人格として遇してはならないのです。

(部分引用終)
こういう話を読むと、ほっと安心し、私は真っ当に育てられてきたと確認できるし、周囲の失礼な不愉快な対応も、その人自身が非常識だったのだと納得がいく。それにしても、時間がかかった。何故なのだろう?
「上から目線」だと反発する国民の一部に対して、迎合している政治家がいる。「粛々と」を使わないと公言した事例もあったが、本来ならば、文句を言っている方を張り飛ばして黙らせるぐらいでちょうどいいのだ。
価値観や秩序が倒錯した世の中は、絶対に弱体化する。今の日本は、ギリギリで回復に間に合うかどうか、というところだ。もっと危機感を持ってほしい。