ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

父の命日に寄せて

父の命日(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140215)。

数日前に、母方の叔母から電話がかかってきて、かなり自由に長い時間をお喋りした。というより、叔母は父のことを心配して、様子伺いのお電話だったのだ。

今では、名古屋空襲を幸運にも逃れた、あのお蔵付きの広い家に、一人暮らしとのこと。祖母がいた頃には、かいがいしい気配りのお嫁さんとして、いつでも抜かりなくピリピリ働いていらしたので、本来ならば、子ども時代から気さくに何でも話せる間柄のはずだった関係が、ようやく今になって芽生えつつあるかと思う。

とにかく、子ども時代から発言禁止事項が多過ぎた。経済的には裕福であり、学校にも充分に行かせてもらい、いろいろと習い事もさせてもらって、暮らしそのものには困らなかった結構な家柄なのに、あの戦争で価値観がガラリと変わったためなのか、思うに任せぬ親の決めた結婚が相当に不満だったのか、何なのかよくわからない理由で、子どもの頃はいつも緊張ばかりしていた祖母の家だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110502)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)。

表面的には、初孫として、父方母方両方の祖父母や叔父叔母達から相当に注目され、可愛がられ、節目節目にきちんとお祝いをしていただいたのに、である。

そのためか、その機会が減じた妹弟などは、最初から勝手に「今はそんな時代ではない」と切って捨て、狭く幼い独りよがりの考えというのか、思いつきで生きている。子ども達には、どうやってアイデンティティや系譜の継承などを伝え、教えていくつもりなのか、私など気になって仕方がないのだが。

なぜならば、これが社会の基盤だからである。そこがぐらつくと、今の日本のように、学校だけは出ていても幼稚な精神で、自分の位置づけを見誤り、身勝手な思想に染まり、政府や世間の迷惑も考えず、再三止められても危険な場にのこのこ出かけて行き、パスポートを取り上げられると、やおら憲法を持ち出して権利ばかり主張する人や、それを支援する人々などの素地を生む。それどころか、自己責任を問われると、「日本人は冷たい」などと、変な方向から釘を刺そうとする宗教家なども出てくる始末。そういう浅薄な慰め事を、聖書やら宗教に絡めて広めるから、日本の力が低下しているんですよ!

話を叔母に戻すと、やはり事実に基づいて、問題は問題として直視し、隠したり人のせいにしたりしてはならないという結論で一致した。仮にその場はそれで済んだつもりでも、回り回って問題が拡散し、人間関係が次々と壊れていき、単純な話が妙に入り組んでしまう。そして、それは子の代、孫の代、曾孫の代にまで及ぶ。下手をすれば、社会へのご迷惑にもなり得る(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150103)。

「1は1です」と真っ直ぐ言えばいいのに、何やら「あれ?−1かもしれない」「いや、実は2かもしれないだろう」「皆が1と言っているから、自分は異なる見解も知らせよう。本当は、1のように見えるだけで、それは1−1+1なんですよ」「私は1だと思わない」となどと余計な解説を口走るので、エネルギーも時間も浪費していくのだ。

今の私が、広く海外の事例にも関心を持てるようになったのは、恐らくは、根っこがしっかりあったからだろう。日本という国土、日本語という言葉、日本の歴史という共有感覚、和食などなど。子どもの頃には、よくわからなかった大人達の話も、じっと聞いているうちに、年齢と共に突如、あるいは徐々に(あのことだったのか!)とわかるようになってくる時が訪れる。そのためにも、できる限り、親戚の中でも、さまざまな立場のいろいろな人達と、幼い頃から触れ合う経験が必要なのである。隔離したり、無菌状態にしたりするのが最もいけない。

私が小学校低学年の頃までは、父方の祖父母や叔父叔母やいとこ達と、岐阜や三重へ一緒に旅行していた。鈴鹿山脈のロープウェーが怖くて、手に汗を握って堅くなって座っていたところ、祖父が「この子は神経質だな」と声をかけてくれたことを覚えている。だから、その恐怖心を克服するための鍛錬を、父は心していたようだ。例えば、小学校低学年の頃、素手で硬式庭球ボールのキャッチをしたようなことである。

子育ては本を見て、ではなく、生の人間関係の中で、というのが重要ではないだろうか。料理ならば本を見て作ってもいいが、犬猫じゃあるまいし。

叔母との会話で、この歳になって初めて知ったのが、父の一番若い妹、つまり父方の叔母が、父と同じ高校の卒業だったということだ。これで、父と父方の叔母と母方のもう一人の叔母が、晴れて名古屋の伝統校出身者、つまり同窓生同士だったということがわかる。それのみならず、電話の叔母の近所に住む親戚のお嫁さんも、同じ高校出身だということだった。
つまるところ、お互いに娘時代からの知り合い同士の結婚であったのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071227)。皆が承知の上(かどうかはわからないが)、見守られながらの家庭生活だったはずである。

だからこそ、まだ存命中の方が多いのに、勝手に「今はそういう時代ではない」と若気の至りで切って捨てるのが大間違いだと、断言できる。それに、もし、もっと親戚同士の交流が自然なものであったならば、もっと私も自信を持って、視野広く活発に、子ども時代や青春を謳歌できたのに、とも痛感する。

今にして思えば、昭和20年代半ばの高校生というと、まだ戦後のごたごたが収まっていない最中であり、食べていくだけで精一杯の暮らしの人が多かった名古屋のことだ。中卒で働こうとしたら、成績がよいので進学するように、と勧めてくださった先生のお陰で、父も晴れて大学まで行けることとなった。そうは言っても、父の母方の叔父、つまり私の大叔父は東京帝国大学医学部を出て、戦時中は樺太で眼科教授をし、信州大学の学長まで務めたし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080806)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091229)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100726)、もう一人の大叔父も岐阜の県立高校の教頭だったか何かを務めたので、元々はそのような流れにあったのだろう。

母方の祖母が、いつのことだったか、前後の文脈を覚えていないのだが、ふと私が返した言葉に、「この子はうちの方の血ではなくて、お父さんの方の血を引いている。あんた、感謝しないといけないよ」と母に向かって言っていたことも、記憶に鮮明だ。

そう考えれば、私が幼い頃から本好きなのも、ごく自然な成り行きではある。

小学校6年まで住んでいた名古屋の家には、英語の本はもちろんのこと、ドイツ語もフランス語も辞書があり、岩波文庫がずらりと並べてあって、日本の明治文学および翻訳の独文学、仏文学、英文学のさわりに触れる環境だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131126)。親のどちらかが使った、高校時代の生物などの参考書まで置いてあった。

上等のわら半紙で製本したような彩り豊かな『女学生の友』みたいな雑誌もあって、中原中也http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071030)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140723)の詩「汚れちまった悲しみに」を知ったのも、(後に高校の教科書で学ぶことになるのだが)、それ以前に、そこに載っていたからだ。その頃の女子高生が、髪型や言葉遣いなど、いかにも品よく清楚なお嬢様風で、しかもしっかりと教養を身につけることが当然視されていたかが、よくわかった。お勉強のみならず、お裁縫や手芸などのページもあった。つまり、バランス良く何でも自分でできるように、との心得であった。

想像するに、今はなき、当時では名古屋一の伝統校だったとの誉れ故に、クラスメートには尾張徳川の家系の方々も混じっていただろうし、本物の深窓のご令息ご令嬢も含まれていたことだろう。同窓生の一人である母方のもう一人の叔母が、その昔、忘れ物を届けに来てくれた祖父の姿が、クラスメートの前であまりにも恥ずかしかった、などと言っていたことも思い出す。一方で、向学心と能力に富み、苦学しながらも工夫して、将来に希望を託して一生懸命だったクラスメートもいらしたはずだ。叔母は、その中で、教室に飾るお花をきれいに生けたいと、お稽古事を自ら申し出たとも聞いた。

だから、自分達がいかに水準の低い、平等を合い言葉に競争を煽り立てる教育制度に成り下がったかを、まざまざと感じながら高校時代を過ごしていたものだった。教室の花瓶のお花なんて、小学校の頃はよく覚えているが、私の高校なんて、入学した途端に、進学したい大学の希望を問われるほど余裕のない学校で、とにかく試験、試験の連続。色気も素っ気もない、何とも切迫雑然とした生活だった。

父の頃は、高校の先生が、今の大学か大学院に相当する程度の専門分野を持っているケースも珍しくなかった。進学率が低かったので、その分、学校に通えるだけの生活力の有無や親の理解もさることながら、皆が忙しく働いている中での勉強であれば、誇りや気概以上に、責任感も相当なものだったはずである。
「大学入試なんて、授業をしっかり聞いて、試験前にちょこちょこっと復習して、秋の修学旅行が終わってから、さぁ、やるか、程度で合格できるものだ」と、私の高校の担任の家庭訪問でも平気で言っていた父だった。「お父さん、今はそんな悠長な時代ではありませんよ」と、かえって担任の先生から窘められたほど。30年で、それほどまでに高校生の環境は激変していた。今なら、もっと早いであろう。

でも、何だか当時の高校生がうらやましい。戦後の新たな価値観で、混乱や戸惑いや親子の対決もあっただろうけれども、学生紛争以前の世代は、やはり受け継ぐものはしっかりと受け継ぎ、日本社会の立て直しに意欲を燃やし、そのための基礎作りだと、希望を持って伸び伸びと前進していたのではないだろうか。

この頃、ようやく政府が、エリート校の再建をする動きを見せている。能力別にはっきりと分けると言っている。格差だ、差別だ、と騒ぐ人も多いが、そういう不公平感や不平等感を噴出させないような賢明な塩梅ないしは采配が必要であることは当然のこととして、餅は餅屋、あるべき場にしかるべき人が収まって、責任と義務からしっかりと役割を果たす社会の方が、落ち着きがあって力が漲り、充実するのではないだろうか。

そう言えば、主人の同居の祖母は、明治生まれで女学校を出ていたと聞いている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080218)。だから、私に対して、「結婚したら勉強させてもらえないぞ!」と脅していた周囲の学校の先生達は、ご自分がそういう出身ではなかったということだったのだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091214)。

マレーシアのセピア色の古い写真を見ていると、昔のミッション・スクールや官製エリート校の生徒達の髪型や服装が、いかにも上記の日本の高校生を思わせる雰囲気で、何だか懐かしい。
イスラームの国とはいえ、1970年代以前までは、上流および中上流の都市部の家庭の子女は、マレーシアでもあんな風だった。建物も、ムーア式を混ぜた西洋風で、マレー人の女の子達も、三つ編みをしてリボンをつけたり、おかっぱ頭にヘアバンドをしたり、花柄模様のワンピースにレース飾りをつけたりして、本当に生き生きと輝いていた。複雑だとされる民族間の関係も、社会階層が似たり寄ったりであれば、マレー人も華人もインド系も、皆が一緒に学び、それぞれの民族宗教の祭日には相互訪問したりして、和気藹々としていたと何度も聞いている。
つまるところ、共時的な視点のみならず、併行して、通時的な視座が是非とも必要だということだ。
そのようなことに自然と気づくには、そのような系譜を自身が身につけている必要があるのだろうか。
もしそうだとすれば、昨今、メディアで変な「中東イスラーム解説」をしていた人達は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150209)、一体全体、どこのどういうご出身なのだろうか。