ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

時を経て見方が変わる

今日は何の日か(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070722)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131208)。
日本陸軍第5師団が英領マラヤで行った抗日ゲリラの掃討作戦に伴う華人虐殺の状況について、故松井やより氏の捏造だと言わんばかりの主張が最近出ているが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160315)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)、私はそれに与しない。現地の人は、あのような話し方をすることがあり、たった一つのエピソードだけで断言できないはずだ。
左派思想には反対の私だが、松井やより氏の『魂にふれるアジア朝日新聞社1985年)を熱帯のマレーシアの自宅ベッドの上で寝転がりながら読み、大変に暗く重苦しい気持ちになったことは、ついこの間のことのように覚えている。恐らく、出版当時のシンガポールやマレーシアの裏街道では、そのような貧しい暮らしを強いられていた女性達が少なからずいたのだろうと思われる。そのような生き方が実際に「魂に触れる」かどうかは別としても、二十代半ばの私にとって、深刻に考えさせられたことは事実だ。
ともかく、マレー半島ボルネオ島昭南島(現シンガポール)で、本当に日本軍が恐れられていたことは、私は現地の人々から何度か耳にし、各種の現地資料でも見てきたのだった。日本大使館が主催する日本語スピーチ・コンテストでも、私の教えていたマレー人学生の中には、必ず日本軍政期の困難と恐ろしさを語る学生がいたことからも、わかろうというものである。念のため、私の調査テーマは、戦時下の日本軍の活動ではない。
こういう時、日本軍政期の生き残りの方々がまだ多かった1990年代前半にマレーシア赴任をした経験が、私にとってはとても貴重な証言となる。

http://tamutamu2011.kuronowish.com/12tuki8hi.htm

12月8日は何の日

対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日)



1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島真珠湾アメリカ軍基地を奇襲攻撃し、午前4時、米英に宣戦布告。3年6ケ月に及ぶ太平洋戦争(日本側呼称は「大東亜戦争」)が勃発。日本帝国海軍は米・真珠湾軍港を、陸軍は英領マレー半島に上陸。
日本のラジオは午前6時、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という大本営からの発表を伝え、終日軍歌を流した。
「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、「我、奇襲ニ成功セリ」との攻撃成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電された。
(中略)
元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていたが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、奇襲攻撃となってしまった。
アメリカは「リメンバー・パールハーバー」を戦争遂行の合言葉に「挙国一致」反撃を開始する。

(部分引用終)
昨日は、三笠宮家にまつわる三冊(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161113)を急いで読み、ノートを取り、写真を複写して、図書館へ返却した。とても忙しかったが、上記とも関わることであり、私のささやかなマレーシア研究は、是非とも何とかしてまとめなければならないと決意を新たにしたところである。
ちなみに、茶道を習うように勧めてくれた私の母方の祖母は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)、大学院を修了してマレーシアへ赴任することになった私のことを、とても喜んでくれた。忘れもしない、名古屋駅名鉄百貨店の入り口で待ち合わせたところ、従姉妹達まで連れて来て、私をぎゅっと抱きしめて、快挙のごとく喜んでいた。
赴任中は、孫達と旅行したいという長年の希望を叶えるべく、何と、本当に従姉妹二人と私の妹と弟まで連れて、マレーシアに来てくれた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110502)。帰国後、叔母からお礼状が届いたが、私にとっては、とにかく暑い熱帯のマレーシアという異文化を理解しつつ、課せられた業務を全うすることに必死だったことと、母校からも「論文、論文」と必死で追い立てられていた環境だったので、あの頃の祖母の気持ちまで「忖度」する余裕がなかった。
恐らくは、どんどん戦果が悪化していく戦時下の名古屋に焼夷弾が容赦なく降ってくる中、軍隊に夫を召集されて、必死で幼な子二人(母と叔父)を育てなければならなかったお嬢さん育ちの祖母にとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070912)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161018)、敗戦を経た平和な時代になって、今度は初孫がマレー半島へ日本語を教えに行くということが、まるで凱旋将軍のように(?)、自分の人生の取り戻しになったような気がしたのであろうか。
それに、海外については、大学の医学部教授だった祖母の兄弟(つまり私の母方の大叔父)がフランス留学をしたとも聞いたことがあるので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/comment/20110224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150405)、全く恐れがなかったのであろう。
ただ、このブログで綴ってきたように、その下の世代の間で、敗戦に伴う価値観の急激な変化や反動が学校教育やマスメディアなどで浸透し、社会矛盾を克服する‘平和’思想としての社会主義運動が一定の進展を見ていたからであろうか、私にとっては緊張を強いられる、混乱した精神環境だったと思う。だからこそ、亡父は私のマレーシア行きに「縁談の差し障りになる」と反対していたし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)、最近になるまでも、親戚の間で変なことを言われたり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140403)( http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)、勤務中にいただいていた給与の面で、勝手に通帳が引き抜かれていたりなど(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161117)、ゴタゴタが引き続いたのだった。
とても時間がかかったが、少しずつ整理がついてきたのは、何よりも主人の支えが大きい。主人の場合は、焼夷弾が落ちなかった田舎の母方の祖父母の家で夏休みを過ごして育ったため(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151111)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160227)、その点、素朴で真っ直ぐなのだ。しかも、戦前の校長の家だったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)、戦後、農地改革で土地を手放すことになり、家運がガラっと変わってしまった話も聞いており(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070816)、私の家の話なども、出会った頃から、かなり落ち着いて聞いてくれていた。
いろいろな経過を辿ったが、先月、認知症講座を受講したことがきっかけで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161116)、1919年生まれの祖母について、私の内部で見方が変わってきた。「いつかわかる時が来る」と言いながら、初孫の私に事ある毎に話してくれたことの祖母側の意図や意味が、徐々に浮かび上がるようになってきたのである。晩年は認知症で数年間、施設に入っていたが、一人で面倒を見ている主人の病気への影響も考えてなのか、父が「御見舞に行かなくてもいい、ということだ」と電話をかけてきたことを文字通り取り、私からは動かなかった。というのは、私が知らず、今でも知らない方がいい、厄介な揉め事が絡んでいたらしかったからである。
父が亡くなって防波堤がなくなったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151212)、その揉め事の火の粉が、わけも分からず私に飛んで来て、おかしなことになったのだった。私にすれば、(こんなに真面目に暮らしているのに、私の何がいけないんだろう?そんなに皆さん、ご立派なのかしら?)と反省ばかりしていたが、齢半世紀以上たった今、ようやく落ち着いていられるようになった。

お茶道具も、私が習い始めてから、祖母が一通り揃えてくれた。野点のお道具から家で点てるための木箱入り一式、瀬戸焼の黒茶碗や六兵衛の赤津焼、有田焼や蓋付き建水など、結婚前に譲られてこちらに持ってきたが、その他に、茶巾やお懐紙まで中に用意されていたのを見つけたのは、実はつい先日のことである。
先週の土曜日には、主人が選んだ中華料理店で昼食の後、北御堂と高津宮へ連れて行ってもらった。今、梅田で習っている先生から初日にいただいたカレンダーには(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)、「休んだ時や追加のお稽古をしたい時には、こちらへ」と書いてあったからだ。まだ私には一年ぐらい無理だろうとは思ったが、そもそも場所を知らないようではお話にならないため、大阪育ちの主人に案内してもらったのだった。
私は父方が臨済宗で、昔からなぜか禅の話には惹かれるものがあり、結婚後、主人が発病するまでのしばらくの間、臨済宗天龍寺坐禅会に行っていたことがある。実家は、美作の大津神社の神主の娘さんが同居の祖母だった関係から神道で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)、田舎が御室仁和寺系の真言宗だったのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070817)、主人はどういうわけか禅の本を何冊か持っていて、婚約時代から、二人で京都を見て回る時には、自然と禅宗の寺院に足が向かっていた。
だが、私の母方は(東)本願寺系の浄土真宗である。茶道を勧めてくれ、お茶道具を整えてくれた祖母と、亡くなって五年以上経った今になって、期せずして、何かご縁がつながったことになる
いろいろなことがあったが、いくら考えても、その時には理解が及ばないことも多い。だが、そこで断ち切ったり、思考停止して享楽に溺れたりせず、ゆっくりと思い巡らしていくと、何かをきっかけに意味が解きほぐれていくこともあるのではないだろうか。
三笠宮崇仁親王殿下は学者でいらっしゃり、開明的で最も親しみを覚える宮家のように密かに感じていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151203)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)。この度、彬子女王殿下のご著書を拝読し、理知的で勉強好きで努力家のみならず、ユーモアの陰に秘められた深刻なご家庭内の問題で、体調を崩されたり、宮内庁職員の扱いに対して号泣されたりなど、とても可憐で率直な方なのだと、より一層親しみを感じるようになった。
何よりも、やはり研究者の血を引いていらっしゃることは、エッセイが雄弁に物語っている。