ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

もみじ祭

嗜みとして茶道ぐらいは学んでおくようにと祖母に勧められたのは、遙か昔のこと。叔母がお茶室のある家に嫁いだことを、子どもの頃から何度も聞かされていたし、年下のいとこ達もやっているとのことだったので、アルバイトで貯めたお金を使って一人で習いに行っていた。結婚後も裏千家の本部に電話をかけて先生を紹介していただき、自転車に乗って週一回、町内のお宅に通っていた。祇園近くのお茶会に連ならせていただいたこともある。

今から思えば、精神的にとても若かったと思う。早く関西に馴染まなければと、独身時代の延長のつもりで、積極的に自分から外に出ていた。お茶そのものは奥が深くて興味深く、図書館であれこれ本を借りて学ぶのが楽しくて、経済的に問題がない範囲で、できる限り長く続けるつもりではあった。毎月、茶道雑誌に目を通すのも、長らく習慣としていた。

ただ、先生のご自宅でお稽古中に、換気不足から炭の一酸化炭素中毒で倒れたことをきっかけに、何となく気まずくなって、お稽古そのものからはしばらく離れることになった。今もよく覚えているが、最初から襖が一センチほどしか開けていないので、気になっていた。だが、「先生が白を黒と言っても、その通りに」と名古屋で聞いていたことを思い出して黙っていた。お点前の時、(どうして今日は、目の前がちかちかして視野が暗いのだろう)と不思議に思っていたところへ、気づいたら外の廊下でうつぶせに倒れていたのだった。

当時、車で送ってくださったご主人が恐縮して何度も謝られた上、事情を知ったうちの主人の方が驚き慌てて、「会社なら責任を問われ、労災の対象だ。一歩間違ったら、死に至るよ。もう、そんないい加減な所へ無理に習いに行かなくてもいい」と、もの凄く心配していた。ところが、当事者の私ときたら、一酸化炭素に負けた自分の体調管理にこそ責任があると思い込み、所詮、非関西圏出身の私なんて、いてもいなくても同じだから軽い扱いをされたのだと甘んじていた。

あれから十五年以上経ち、何という混乱した思考回路だろうか、と我ながら呆れる。先方の不注意によるれっきとした事故なのだから、病院で治療をきちんと受け、先生に責任を取ってもらわなければならなかったのに、おとなしく、そういう目に遭う自分の非にしていたとは…。

もっとも、しばらくしてから裏千家の事務所に事情をお伝えしたところ、「一方的な話では、こちらは何とも対処できません」とのお返事。それはその通りだろう、誇り高く複雑な序列があるのだから、どこの馬の骨かわからないような下々の生徒の一人や二人がどうなろうとも、こっちの知ったことではない、というのは当たり前である。世の中は世知辛い。甘ったれていてはならない。

関西セミナーハウスから、毎年この時期になると、もみじ祭のご招待をいただいていた。お茶席や箏曲お能などのプログラムで、かれこれ十数年になる。由緒あるお茶室があり、水の質もよいとのことで、行きたい気持ちはかねてからあったのだが、上記の一酸化炭素中毒事件のことが潜在意識で働いていたのだろうか、もし知り合いの先生方(特に大学関係)に会ったらどうしようか、京都だから立派なお着物の方ばかりで序列が厳しく、私なんて優雅に弾き飛ばされるのでは、と思って遠慮していた。

ところが、ふと気づくと、もはや齢半世紀近く。この調子でいくと、一生涯、何もしないで終わってしまう。依頼しなくとも毎年、招待状が届くのだから、お受けして何が悪いと、俄然、勇気凜々になった。それに、2007年3月のイスラエル旅行でご一緒したご婦人が、「普通の格好の人もいるし、スーツなら大丈夫。気楽に楽しめるところよ」と言ってくださったことも思い出した。また、二年以上前には、大徳寺でもお点前に与っていたのだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120215)。

というわけで、今日は暖かく穏やかな午後のひと時を、一乗寺の関西セミナーハウスで過ごした。お茶や箏曲のお着物姿を拝見し、この年になってようやく、昔必死になって覚えた帯の組み合わせや、柄の意味がすっとわかるようになった自分を見出した。野点は外国人女性からいただいた。また、広間では、上席に座った若い女性が「僭越ですが」と目上の女性(恐らくはお茶の先生をされているのだろう)に自然にご挨拶をし、落ち着いて慣れた感じだったのも印象的だった。まさに、はんなり。よそ者よりも京都人の方が、幼い頃から自分の分を弁えて、距離の取り方が上手だ。服装も言葉遣いも、その範囲内で自然にできるのだろうと、うらやましく思う。指輪を外して、アクセサリーなしで、お作法通りにしようと思ってはいても、離れていると忘れるもので、次回は気をつけなければと思った点が、幾つかある。

結局は、回数をこなして場慣れすることが必要である。それに、実際には、今まで変な遠慮をしていたのが勿体なかったほど、もっと楽しめる雰囲気でもあった。

箏曲は、小学校低学年の頃、何度か名古屋市内の演奏会に聴きに行っていたものだ。実家にもお琴と生田流の宮城道雄検校の名を付した漢字表記の楽譜があり、ピアノ以外の楽器として習いたかったが、最初からあまりにもガミガミ叱られっぱなしなので、あきらめた。雅楽同様(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091107)、箏曲は好きなことに変わりはない。今日、能舞台前の日本庭園で一時間拝聴した曲は、古典的というよりは、現代曲風で典雅だった。途中で風が吹いて、楽譜が乱れたのが残念だった。

他に、正教会のイコン展示があり、じっくりと堪能した。

お土産コーナーを見ていたら、今年4月にニューヨークでパイプス先生のお嬢さん三人にプレゼントしたもの(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)と同じものが売られていた。それほど、私のしていることは外れてもいないのだと、少し安心した。
心配していた知り合いとの遭遇だが、実はシュペネマン先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080206)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)をお見かけしたのみだった。

これからは、今住んでいる町や近辺にも有名なお茶室が複数あることだし、気後れせずに、どんどん出かけて行こうと思う。それにしても、あの一酸化炭素中毒事件、自分では大したことがないと思っていたが、実は予想以上に複雑な深い禍根を残していたのだ。体や潜在意識は正直である。

早めに切り上げ、日の暮れないうちに隣の曼殊院へ。天皇家と縁の深い場である。ヨハネ・パウロ二世やベネディクト十六世もお出でになった所のようだ。大勢の人々が訪れていた。