ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

先入観と捻れ現象

昨日書いた一酸化炭素中毒のことは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)、まさかと思われた読者もいらしたかもしれない。だが昨晩、書く前に封印記憶を取り出すように話したところ、主人もよく覚えていて、「そんなの、向こうの責任に決まっている。主婦のままお茶の先生になったから、物事の管理がわかっていないんだ。下手をしたら、訴訟問題にまで発展する可能性だってあるよ」と断言。「せっかくお茶を習うならば、本当にいい先生を探さないと」とも言われた。
確かに、最低、四、五軒回ってみて、自分に合った先生につくことが大切なのに、時間や経費のことを優先して近場で済ませてしまっていた。不備や違和感があっても、全ては自分の責任であり、こちらが充分に実力をつければ、いずれ解消できるだろうとも思い込んでいた。
どうも、この種の捻れ現象はよくない。
どうしてこのように考えていたのか、今、振り返ることは、将来の繰り返しを防ぐためにも必要かもしれない。
第一に、自分達はれっきとした伝統校の出身だったのに、子ども達に対しては、学校は近いところで充分だというのが両親の方針だった。自分で「あの学校へ是非とも入りたい」「あの先生の元で勉強したい」という意欲そのものが、最初から削がれていたのだ。革新市長の長期政権下で社会主義的な学校制度が普及していた頃だったからだろうか、いわゆる伝統校、エリート校が否定され、学校群のように、公立校はどこでも均質のレベルを保つべしという建前の風潮ができていた。それなら、わざわざ遠方を選ぶ必然性はなくなる。「本当にできる子なら、どんな学校でもできるはず」とも言われていた。しかし同時に、時間をかけてでも自分に合った場を探す努力や、目標に向かって頑張るという達成感よりも、受け身で運命に甘んじるという消極的な態度がいつしか醸成されてしまう。また、環境が物をいうとすれば、そもそも、人生の決定打が間違っている。
その延長線上で習い事も、不服ながらも(自分には、この程度でいい)という違和感との共生が習い性となる。従って、「どの先生についても同じだ」「上達するかしないかは、自分次第だ」ということになるのだが、これが根本的に誤っていることは、このお茶事件からしばらく経って気づいた。
同様の傾向は、病院選びでも当てはまる。「近いところがいい」と、よく言われていた。近いのは便利だが、腕が悪くて藪医者ならば、全く意味はない。「治すのは医者や薬ではなく、自分だ」とは、確かに殊勝ではあるが、場合によっては命取りになる。
類似の事例として、聴きに行く演奏会でも、(下手だなぁ)と違和感や不快感を覚えつつも、(自分はこの程度の演奏会がちょうど合っているのだろう)と、安いチケットで我慢していた時期があった。必ずしもお金がなかったからではなく、(高価なチケットはまだ早い)と勝手に思い込まされていたり、「贅沢は禁物だ」と、周囲に言い続ける人がいたからでもある。これも根本的に全く誤っている。本当の感動が生まれないし、最初からいいものに触れていなければ感性に影響してしまい、その後の生涯でどれほどマイナスになるか、計算してみればぞっとする。

これは、自尊心が育つかどうかの問題である。もし、不備にも問題にも気づかず、満足のいくものであれば、そこが自分に合っているといえる。また、どう頑張っても、金銭的に余裕がなければ仕方がない。しかし、他の選択肢が可能であるにも関わらず、常に周囲との違和感を覚えつつ、不満を感じながらその場を甘受するということは、忍耐の訓練に他ならない。まさかとは思うが、何事も「お金をかければ良質だとは言えない」と、ずれた浅薄な反論をする人が時々いるので、ここに一言追加した。

元に戻ると、「京都の人は他地域の出身者を見下げているとか、序列をきちんと守っているから、よそ者は入り込めない、という先入観は正しくない」とも、主人に言われた。
話は少し逸れる。昨日、曼殊院から地下鉄駅に向かって歩いていたところ、政党ポスターがあちらこちらに貼られていたのだが、民主党やら共産党やら、お隣同士でも支持政党はバラバラだった。長年の公家文化に抵抗して、一般市民は個人主義なのが京都の特徴で、従って革新政党の支持者が多いのだ、と三十代初め頃に読んだこともある。
それなら、最初から私とは合うはずがない。そして、それは私の問題でもない。
また、十年ほど前に、新島会館での会合出席に招かれてタクシーに乗った時、いきなり姿勢を正して急に丁重になった運転手さんが「生粋の京都の人は何もしていないけれど、よそから来た人達が京都文化を発展させてくれた」と言っていた。そういう物の言い方をされる文化なのだろう、と思った。

PS:もう一点、重要な捻れ現象を記す。
今ではさすがにそういうことは滅多にないだろうとは思うが、私の世代だと、戦中戦後の家運の分かれ目から、お茶の先生にもいろいろな背景があるので、祖母に「先生が不愉快になることをしないように、何でも従順に」と言われていた。暗示すれば、同じくお茶の先生でいらした中原中也のお母様などは問題がない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140723)、ということである。
実は国文の出身なので、掛け軸などは、本来読めて当然の基礎訓練だけは施されていたはずなのである。興味があるのは、見栄でも何でもなく、若い時期の専攻ゆえである。しかしながら、先生に生意気だと思われてはいけないから、注意して振る舞うように、と言われた。
つまり、「私は何も知りません、わかりません」とおとなしくせよ、ということである。それこそ世渡り上手な社交のうまい人のように、本当は読めて知っていても、「せんせ、私、さっきのご説明、よくわからなかったんですけど、もう一度、教えていただけません?」という会話ができた方が、通りがいいとも教えられた。確かに。
しかし、大学や大学院では「批判的精神」を訓練され、自立して率先して新たな地平を開くことが望まれ、奨励される。一方で、嗜みとしては「わかりませんから」と控えめに振る舞うよう、躾けられる。
一体どうしたら、というのが迷いの原点であった。
決して笑い事ではない。これと併行線に位置する有名な事例がある。かつて、茶道のお家元がビデオや写真入り本を販売して普及させ、皆伝までは誰でも一様に作法を知ることができるようになった時、お茶の先生方から「それでは失業してしまう」と不満が出たという話がある。その証拠に、今でも茶道雑誌を見ると、「○○ではこうこうと教えられましたが、△△では違うと教えられました。どちらが正しいのでしょうか」という質問コーナーがある。その場合、「どちらも正しいです」というのが最も無難だが、誤った方を教えていることが雑誌で判明した場合、お茶の先生の顔がつぶれることにもなる。
この塩梅ないしは案配が、実に難しい。私の場合、お稽古場では黙って従順に。気になったことや気づいたことは、自宅に帰ってノートに逐一記して、自分で図書館で調べる、という作業を繰り返していた。
その延長線上に、換気が悪いことに確かに気づいていたのに、黙って従順に振る舞い、結果として一酸化炭素中毒になってしまった自分がある。