ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

伝統に見守られながら

前回のブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161118)の続きを書きたいが、時間の都合上、簡潔に要点のみ。
19日には、地元の神社の宮司さんから、講演を伺った。その具体的な内容を書くと、居住地がわかってしまうので、この辺りで留めるが、一言。
もしトランプ次期米国大統領が世の中の潮流を変えるとするならば、当然、日本でも、戦後長らく続いた左派潮流を抑える流れが起こることだろう。その際、戦時中の国家神道の反省を踏まえた上で、やはり日本伝統を支える宗教としての神道の重要性が、再び浮上するのではないだろうか。
私の住む町は、中世の三名の上皇天皇と縁のある神宮があり、名水百選にも指定されているので、土地柄としては良いと言われている。海以外は全部揃っている町である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070902)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080419)。ところが、いわゆる高級住宅街ではないからなのか、東京の某国立大学では、2000年頃、「郡なんていう所に住んでいるんですか」と笑われたことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080407)。そうおっしゃった方は、後に大学の長にまで上り詰められた。
実のところ、私はその先生に研究計画書を褒めていただいたのだが、その一言で、予算が余ったからという追加の研究費を受けることを遠慮したのだった。「ここには資料はありません。ゴミの山からダイヤを探すようなものですからね」と言われて、頭が朦朧としたせいでもあるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080718)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091230)、より大きな理由としては、いくら価値観の相違とは言うものの、実力主義とばかりに伝統を破壊していくのは、いかがなものかと思ったからでもある。また、日本人ならば自国を理解することが先決であって、もしそれができていないならば、外国、特にアジアの研究など、充分にできるはずがないと思う。
その神社は、お参りというわけではないが、時折、石段を登ってお散歩している場で、御由緒など、もっと出されればいいのにと、結婚後、居住するようになった19年前から感じていた。701年に行基が建立したとのことで、長い歴史の生き証人なのだから、いろいろとお教えいただければと願っている。
主人の同居の祖母は、岡山の美作の神主の娘さんだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161024)。私は自転車に乗って講演を聴きに行き、宮司さんが「おねむですか、皆さん」と呼びかけられる中、相変わらず黙々とメモを取って学んでいるのだが、主人に説明しようとすると、物心ついた頃からの親戚の話としてよく知っているので、まるで暖簾に腕押し(?)だった。
歴史文化資料館の展示も、しばらく前までは物足りなかった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100214)。だが、今回、宮司さんのお話を聴きに、大勢の方達が集まっていた会場には、新たな貴重な展示が増えて、興味深かった。
恐らく、社民党民主党などの勢力が強かった時期には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100328)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150908)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160715)、遺跡などの歴史伝統を証拠づける展示が政治的に憚れていたのかもしれない。だが、今後は軌道修正されていくことだろう。
20日には、農業祭ということで、役場の前で長い行列を作って、地場の農作物(レモン、薩摩芋、瓶詰め筍の水煮、地酒)を買った。これも、19年居住して初めての参加。やはり、地元に住む者が地元の野菜や果物や花などを積極的に購入することで、農業を支援していくことの大切さを痛感した。お礼に甘酒を買って飲んだが、とてもおいしかった。
夕食には、いただいた新米をさっそく炊いた。
お茶の作法の話だが、重要なことに気づいた。お辞儀は深々としなくてもよい、ということだったが、二十年ほど前のお稽古ノート(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)を久しぶりにめくってみたところ、私に割稽古から教えてくださった女性の先生は、松尾流という名古屋で広まった流派を長くされていたそうで、後になって裏千家に移られたのだと記してあった。また、「滅茶苦茶教わっている」と私におっしゃったもう一人の女性の先生は、お家元に十年通って正教授の免状をいただいた方だとも書いていた。私がその先生に見ていただいた日は一度だけだったが、後で「今日は凄い言われようだったね」「来週、説明の紙を持ってきてあげる」などと、他の人から慰めていただいたようだった。こちらは、きつい叱責など、家では日常的に慣れていたので何とも響かなかった上、何を言われたのかさえ、忘れている。
他方、一酸化炭素中毒で私が倒れた町内の先生からは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)、「名古屋の先生は、本当にきちんと教えてくださったのね」「姿勢がいいわね」と褒めてくださったとも記している。但し、私のように、いろいろと質問するのは素人がすることだ、ともおっしゃったらしい。だが、「恥を捨て人に物問い習うべし」と利休百首にもある。
不立文字、教外別伝の世界ですから、何事も臨機応変に、ということでしょうか。
研究作業では子どものように素朴な追求心を、お茶の時にはあくまで従順に、を心掛けている。
それにしても、メモ魔の癖が思いがけず、役立った。
そして、私に初歩の基本を教えてくださった名古屋の江口先生は、必ずしもお家元から遠い距離にあるということではなく、表千家に近い流派から裏千家に変わられたのであれば、仕方のないことでもあると、私は思う。なぜならば、お茶の先生の集まりの時、先代の鵬雲斎お家元からお声掛けがあると私におっしゃったことまで覚えているからだ。
難しい世界だが、それも勉強だと思う。私は本が好きなので、頭でっかちで世間知らずだと、子どもの頃に言われたこともあったので(しかし、子どもが世間知らずなのは当然ではないか?)、特に世間の荒波に揉まれるのは良い訓練だと、既婚である今でも思う。
そして、「お茶を習うといい」と私に勧めてくれた祖母が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)「お稽古用に」と作ってくれたお道具入れを持って、今も私は習いに通っている。ちょうど、9月に英語圏の旅団と一緒に欧州へ行った時、大学院で副指導教官だった仏文学の教授の白井成雄先生ゆかりのネックレスを付けて行ったように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161026)、齢半世紀を過ぎても、初孫の私は、おばあちゃんの手作りに見守られてお茶を習っているのだ。
すっかり忘れていたが、主人の父も(会社の茶道部で)お茶を嗜んでいたことが、お稽古ノートに書いてあった。また、主人の母は、田舎から送られてきた(が着るチャンスが殆どなかったという)着物を、私に全部譲ってくださった。
色合いが地味だと言う人もいるようだが、それこそ戦前の校長先生の堅実な家だった証拠である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151010)。私には大切なお宝である。見守られながら、これからも学びに励もう。