ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

事の終わり

東大イスラム学科「後輩」の池内恵氏は、同志社神学部とN氏について、次のように総括する(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf)。

「彼が文章で明確にしている原理主義的な真意を読み取れずに、「中田先生は過激派を批判してくれる本当のイスラーム法学者だ。彼こそ「対話」の相手だ」と思って彼を鳴り物入りで迎えたが、彼には別のアジェンダがあるので、やがてジハードに参加するために自主的に辞任して旅立ってしまわれた」。

しばらく封印していた10年前の記憶を引っ張り出してみると、確かにN氏は、最初の頃、現地赴任中にたまたま気づいたマレーシアのキリスト教問題に関して、国内にまともな一次資料もなく、指導教官も見つからず、長年、孤軍奮闘していた私に対して(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091230)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)「(日本人の)非ムスリムとしては、好意的に見ている」というメールを寄こされたことがある。断るまでもなく、研究姿勢に関する「好意」であり、愛妻家だったN氏に他意はなかったと思う(し、「胸キュン」だの何だの、サブカルチャーには無関心のこちらにも、もちろん全くない)。だから、「高く評価していましたよ」というキリスト教専攻の教授の最初の頃の言葉も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)、ひょっとしたら、短期的には嘘ではなかったのだろう。
その後まもなく、私の授業を観察した結果(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)、「あれぇ?」と素っ頓狂な疑問の声を上げたN氏を、今でも思い出す。
N氏のイスラーム言論について、頭で論理を追うことは可能である。でも、私の知るムスリムは、それに沿って生きている人達ばかりではなかった。また、あの見解を実践しようとすれば、相当の困難や混乱が伴うことは容易に予想できた。何よりも、私はムスリマではなく、ムスリマになる予定も意志も断じてない。
さらに、曲がりなりにも私は、マレーシアのキリスト教問題がイスラーム復興に伴うものであることを、現地経験および文献リサーチで痛感しており、困ったものだと手詰まり状態を経験していたので、結局は、自分が培ってきた人生観に沿って、自己の本意に素直になる道を選んだのだ。
(池内氏のフェイスブック上の言葉を無断借用して)「暴力・権力・コンプレックスの塊のような学者先生方に悩まされて」「嘘つきの左翼学者、転向した偽イスラーム学者とか、欺瞞とうそがいっぱいある」大学にどうしても残りたい、という邪心があったならば、あるいはN氏に沿う忍従の道を選んだのかもしれないが、要領よく世渡りすることのできない私の性格もあって、このような方向性になった。
その結果、思いがけない巡り合わせでダニエル・パイプス先生とも知り合うこととなり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120115)、知的世界が広がり、勤勉性から刺激を受け、二年以上の文通の末、面会の機を得て「日本の友達」にもなったのだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)。もともとユダヤ文化やユダヤ史に関心があり、子どもの頃から知らず知らずのうちに、クラシック音楽や世界文学などを通して惹かれるものがあったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110327)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)、驚きつつも、本当に幸せな、大切にしたい貴重な出会いだと思っている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)。
というわけで、誤解なきよう、業務上、かつて三年ほどN氏と接触のあった者として、締めくくりに、以下の文章を誠に勝手ながら、部分引用させていただく。

http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-740d.html
「ハッサン中田さんのこと」
(前略)
ハッサンさんは敬けんなムスリムで、うちで話をしていても、礼拝の時間になると、ちょっと失礼します、といって部屋のすみでお祈りをするのだった。温和で、いつもにこにこしているのだが、話してみると、かなり過激なイスラム主義者で、それでいて、カイロのアパートの本棚には大量のアラビア語の本にまじって、少女マンガとプロレスの雑誌がずらりと並んでいたりした。
ハッサンさんの語るイスラムの話は面白かった。イスラムを外側から知識で語るのではなく、その内側に入り込んで、その目で世界を見ると、世の中はこんなにもちがって見えるのか、とおどろかされた。話に夢中になって、気がつくと明け方近くになっていることもあった。ちょうど湾岸戦争のはじまる前年で、イラククウェートに侵攻したころだった。世界が終わる前に、田中さんたちもイスラム教徒になっておいたほうがいいですよ、そうすれば世界が終わってもちゃんと天国へ行けますよ、とずいぶん勧められた
ハッサンさんの部屋で、ときどき目つきの鋭い若いエジプト人に出くわすことがあった。挨拶をすると、すぐさま別室に入って扉を閉め、出てこなかった。街場の人なつこいエジプト人とはずいぶん雰囲気がちがった。気にしなくていいですよ、かれはわたしの家庭教師なんです、とハッサンさんはいった。かれはイスラム過激派のジハード団のメンバーだった。サダト暗殺にかかわったとのことでしばらく投獄されていて、またいつ逮捕されるかわからないという。ハッサンさんの部屋は、そんなかれの隠れ家、というかアジトになっていたのだった
(中略)
その後、ハッサンさんはアフガニスタンやシリア、インドネシアマレーシアなどに足繁く通って、あちらの宗教界の要人と交流をふかめ、正しいイスラムの振興と普及につとめている。アフガニスタンで元タリバン外相に会ったり、タリバンの政治評議会のメンバーの来日を実現させたり、シリアに学生を送ったり、今年は反アサド派に従軍したりもしたそうだ。また、株式会社カリフメディアミクスを立ち上げ、その代表取締役社長として、イスラム世界におけるカリフ制の復活をめざして積極的に活動されている。
(中略)
アサドは洗練された独裁者。1970年代にムスリム同胞団を徹底して弾圧した。密告を奨励して、国民全スパイ体制をつくった。これがひじょうにうまくいった。ハマは町ごとつぶされ、何万人殺されたかわからないが、その証拠を徹底的に隠蔽。アラブの春が始まる前には、イスラム主義者は国内から一掃されていた。密告を怖れて、弾圧の話も次世代に伝えられなかった。ところが、アラブの春でアサド政権の怖さを知らない若い世代が立ち上がってしまった。息子のバッシャールは、そんなに悪いようにはしないだろうと見くびっていた。でも、体制は変わっていなかったと気づいたときには、もう遅かった。。。
(中略)
「訓練もされていない。いま来ている義勇兵は戦争経験のない人たちばかりで、基本的にはなにも知らない人たちばかり。シリアだけでなく、アラブ世界はともかく段取りが悪い、というか段取りがない。子どものときから、段取りをつけて物事を進めるという教育を受けていないので、できるわけがない。軍も同じで、すべてがおおざっぱ。「今日はあの飛行場落とすぞー」「おーっ」というかんじでやっている。。。
(後略)

http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-e328.html
「ハッサン中田さんのこと 2」

(前略)
なにしろああいう風貌だし、いわゆる常識に照らし合わせれば、そのいっていることは過激に響くかもしれない。率直なところ、自分にも彼のいっていることがわかるとはとてもいえない。いえないのだけれども、そこに彼が長年にわたって真摯に考え続けてきた理があることを疑ったことはない。
(中略)
イスラームの知の普遍性というのは魅力的なテーマだけれど、ハッサンさんにいわせればイスラームなにより重要なのは法学だという(彼自身も法学者だ)。高邁な哲学や、あるいは美しいモスクや、旅人を歓待するホスピタリティの世界とはまったく別のリアリティをもった世界がそこには広がっていた。
(中略)
あの風貌で、テレビやネットの動画にくりかえし出演するのがイメージ的にどうかなということはさておいて、彼と会って、話したことのある人なら、腹に一物もない、慈悲深く、邪心のない人柄にいっぺんで魅せられるはずだ。まわりに迷惑をかけないために大学教授の職を退き、イスラーム関係団体の責任者をやめ、覚悟を持って一人になり、「イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士ラノベ作家、「カワユイ(^◇^)金貨の伝道師」、「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」家元」となったハッサンさんの身を案じるツイートが、ツイッター上にはあふれている。
(後略)

(部分引用終)
池内恵氏は知識人家系に生まれ育った、主流の常識的な日本人の考え方を代表する論客。方やN氏は、これまた恵まれた知性の下、とことん突き詰めて論理的に物事を考えた末に、近代の落とし子として、最も厳格かつ緻密な学派を選択して研究を極め、今では熟練した信仰者として、アラビア語を駆使して、ムスリム世界と日本の間でネットワークを実践している。これは日本人枠での話。
パイプス訳業をしていると、どれほど彼がアラビア語文献を過去に読んでいたか、どのぐらいトルコ語ペルシャ語も学んでいるだろうか、と大凡の想像がつく。カイロにも二年ほど滞在していた。英語はかなり早口だ。同じくカイロに滞在していたN氏も日本語が早口で、両者共に論理的かつ分析的で、頭の回転が極めて速い。上記のエジプトの「ジハード団」だとかシリアの「アサド」の記述については、パイプス訳文のおかげで、ピンとくるものがある(http://www.danielpipes.org/12219/)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120317)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140613)。ただし、パイプス先生が、1979年頃から原理主義的な過激派イスラームを脅威だと警鐘を鳴らし続け、今でも現状をこまごまと鋭く直視し続ける反面、N氏は、まさに人生賭けてそこに飛び込み、学んで実践するという対極の道を歩んでいる。これは中東イスラーム域内での話。
この「日本人枠」と「中東イスラーム域内」という二つの楕円形の重なりを、非ムスリムの日本人の私が、訳文で微妙につないでいるということになるのかもしれない。もちろん、イスラーム式に言えば、女なので「(ペンでの)戦闘」からは除外されている。メディア出演も含めた言論「戦闘」は、親子の学歴系譜といい、論法といい、日米両国でかなり似たやり方を(どこまで意識されているかは不明だが)文化の違いや世代差を超えて、池内・パイプス組が実践している。(後注:もちろん、池内氏は日本の立場に立脚しているので、パイプス氏のようなアメリカの共和党重視や親イスラエル派の見解を前面に出す見方はしていない上、戦略的な戦術を採用しているのではない。できる限り中東情勢をバランス良く、しかも、欧米の見解を充分に咀嚼した上で、では日本の中東理解はどうあるべきかと、筋を通そうとしている。また、大学に所属されている以上、メディア出演を積極的に業務の中に置いているのではない。)そして、大変に申し訳ないが、中東イスラーム全般に関して、理論および現状分析において、私はパイプス派、日本の取るべき方向性としては、どちらかと言えば池内恵氏寄りである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140924)。三人とも皆、非ムスリムだから当然なのだ。
今気づいたが、「かわいいおじさま学者パイピシュ先生」などと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120627)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130405)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130718)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140802)、妙にN氏の「カワユイ」と通じる表現を、何とこの私もしてしまっていた。もちろん真似をしたのではなく、一生懸命に意地になって言論で戦っている姿を見て、ごく自然に浮かんできた綽名だったのだが。でも、キャラはN氏の方が遙かに際立っている。私はごく普通の平凡人だ。だから、こうしていられるのだろう。
事は終わった。思い出に蓋をして、後は前進あるのみ。