ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

良心の曇り

というわけで、コンピュータの故障によって一種の休日に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131003)。
かなり前に送ったけれどもまだ未掲載の訳文16本という貯金のおかげで、昨日と今日は、興味があってもなかなか読めなかったサイトを読んだり、昨日二冊届いたアラビストとアラブ人の歴史に関する英文書を読んだりしています。

https://twitter.com/ituna4011

Lily2 ‏@ituna4011 3 Oct
"Arabists: The Romance of an American Elite" by Robert D. Kaplan (http://www.amazon.com/dp/0028740238/ref=cm_sw_r_tw_dp_D5vtsb1WPDPYY …) arrived here today from the U.S.


Lily2 ‏@ituna4011 3 Oct
"A History of the Arab Peoples" by Albert Hourani (http://www.amazon.com/dp/0446393924/ref=cm_sw_r_tw_dp_S8vtsb10RMJG3 …) arrived here today.

いずれも『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に掲載されたパイプス書評で取り上げられていた本で、前者は拙訳がウェブ掲載されています(『アラビスト−アメリカ人エリートのロマンスhttp://www.danielpipes.org/13352/)。

「アラビスト」という語の特別な響きについては、過去にも触れました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120321)。
二冊ともなかなか重厚な内容。本の中でもダニエル・パイプス先生のお名前が入っています。パイプス先生は一冊を非常に褒めていらして、もう一方は否定的に論評されているのですが、なんとしたことか、後者の場合、パイプス書評の出だしの第一段落だけが「宣伝言葉」として都合よく本の中で引用されています!書評を読めば、「こんな本は読むな」というニュアンスがはっきり出ているのに....。
ふうん。パイピシュ先生が気難しそうなイライラした表情をしてテレビに出ているわけが飲み込めてきました。要するに、せっかく一生懸命やっているのに、自分の本意とは違うところで、勝手に他人が悪用するのですね!移民社会だからなのか、妬みやっかみの一部なのか....。それも有名税としてちゃっかり活用するしたたかさが、パイピシュ先生にもありますけれど。
しかし、遥か太平洋を越えて東洋の端っこの日本の一女性でさえ、その問題点に気づくぐらいですから、世の中、捨てたもんじゃありません。それに、そういう事例が相次ぐために、かえってパイプス人気や共感を呼ぶ一因ともなっています。
ところで、エドワード・サイードの没後10周年として、先月24日に記念行事が催されたそうですが、なんとコロンビア大学の学生達は少数のみ出席し、多くが途中退席したとの由。さもありなん。何といっても、クリスチャンのコロンビア大学教授がインティファーダイスラエルに向かって石を一緒に投げていた写真が、その本性を雄弁に語っています。それなのに、晩年近くには朝日新聞で、大江健三郎との交換書簡が誇らしげに掲載されていました。我々は、余程節穴だと軽く扱われているのか、それとも、良心を曇らされるために新聞を購読していたのでしょうか?

上記の『アラビスト』の本には、フランシス・フクヤマ氏も引用されています。また、わざわざ難しい言語を学んで家族総出で現地滞在をして福音を広めに行っても、学校や病院を建てて人道支援をする他は、ほとんど信者獲得に失敗した点で類似性のある中東と日本の比較にもなり、おもしろく読めます。しかし、はっきり述べれば、アメリカ人プロテスタント宣教師にとっては同じ異教徒の異国であっても、中東と日本では前提となる文化社会の背景や歴史が全く異なります。
最近スキャンダルの多い大衆向け福音派を除けば、ほとんどの日本人は信仰を受容しなくとも、来日した著名なキリスト教宣教師を尊敬していると思われます。一方、善意で現地社会の向上に尽くしたつもりが、中東では見事に裏切られたり、宣教師の大学長を拉致して殺害するなど、イスラームとの関係でとんでもないことになっています。それに、キリスト教のアラビストが反セム主義に傾きがちなことは、日本も影響なしとはしませんが、イスラエルと同盟を組んだ方が社会が裕福に発展する点で、日本は選択の余地があって有利だといえます。

1990年代初期の私自身のマレーシア経験と重ね合わせれば、戦争の記憶とバブル全盛期の経済格差のために、いつもこちらが控え目に振舞っていなければならず、さりとて、日本に対する深くきちんとした理解もないのに、移民系の英語圏で有利に扱われる対マレーシア政策を盾にとって、日本人を見下すマレーシア人と出会う度に不愉快でしたが、本書を読めば、良心的なアラビストも多かれ少なかれ、似たような経験だったのでは、と少し安心します。

この種の本を読む度に痛感するのが、学校選択の戦略的計画。可能性があったのに、わざわざ合わない不利な方を選んで、いつも違和感を覚えつつ、(自分を鍛える訓練だ)と無理やり納得させながら過ごしてきたことに気付くからです。

そして、いかに表面的に経済が発展しようとも、英語がペラペラ喋れても、やはりそんな態度では第三世界のままだろう、と納得がいきます。理解するとは、無理に現地文化に合わせることではないのです。違うものは違う。優秀な人が社会で優遇されるのは当たり前。全体の引き上げにつながるからです。それなのに、格差格差と言い立てて、不必要な罪悪感を抱かせ、社会および世の中の方向性を誤導してきた思想が優勢だったのではないでしょうか。