学問としての聖書の存在意義
今日で、住んでいるところの鉄骨外枠が外され、覆いも取り除かれ、外壁塗り工事がようやく終了に向かっています。2か月の工事でした。中が暗くて外の天気もわかりにくかったのと、布団や洗濯物が干せなかったこと、多少は騒音に悩まされたことなど、いろいろありましたが、終わってみると、なんだか懐かしいひと時でもあったように思えるので不思議です。
さて、今日は朝一番の配達で、あしながおじさまから第三回配本の『前田護郎選集3 真理愛の拠点』教文館(2008年)と月本昭男先生の『古典としての旧約聖書』聖公会出版(2008年)が送られてきました。久しぶりに前田護郎先生の話題ですが、特に楽しみにしていた配本でしたので、とてもうれしく思いました。月本先生のご著作もメーリングリストからメモしてあり、読めたらいいなあ、と思っていたところでしたので、本当にお心遣いがありがたかったです。ご親切にかえって申し訳ない気もしますが、その分、大切に読み、精一杯吸収して、有形無形の支えとしつつ、歩みの上に活かせていければと願っています。
日本の文化土壌で育ち、聖書を学問的に研究しようとするならば、並々ならぬ高度な知力とたくましい精神力が必要なのだろうと思います。日本でこれほどの業績が聖書学の分野で上がっていたということは誇るべきで、大切に継承されるべき問題だろうと思います。
この歳になって、やはり聖書に触れていたかどうかで人生基盤が大きく違ってくることを痛感します。マレーシアの問題でも、政治面や文化面で論じられがちな私のテーマですが、根底に聖書があったからこそ、ここまで続けられたのだと思いますし、勉強や関心も広がったのだろうと思うのです。
いずれにしても、イスラーム圏内での聖典理解やムスリムによるキリスト教への論駁の内実を知ると、やはりこのような先達の諸先生方が、聖書の背景や思想を学問的にきっちりと書き残してくださったことが、いかに重要かつ必要か、身にしみて感じられます。特に、ここ数週間は、イスラーム絡みの重苦しいテーマのものばかり読んでいたので、殊のほか、学問的な聖書の営みを知っておいてよかったと思うのです。若い人達の中でキリスト教の雰囲気や教会制度についての反感からオールタナティヴとしてイスラーム改宗する人がいるのを見るにつけ、もしも聖書の本質を少しでも知っていたなら、選択が違ったかもしれないのに、と密かに思うこともしばしばです。You Tubeなどで、イスラーム改宗者の話が出てきますが、どうもはっきりしないのです。この先、彼女達がどんな人生になるかを想像すると、(うーん、もっと日本のキリスト教会も、文書活動や学問的活動をしっかりやっていかなければ...)と責任のようなものも感じます。中東の学校教科書分析を見たり、紛争や暴力の絶えないムスリム地域を思うと、少なくとも現状では、(イスラーム棄教は難しいですよ。ムスリム同胞との付き合いは、日本人同士の付き合いとも異なる面がありますよ)などと、おせっかいながら口出ししそうになります。
カトリックの『ヘラルド』新聞が今日も無事に届きました。相変わらず、‘Allah'の語使用問題についての投稿があります。また、ヴァチカンと英国国教会の長同士が面会し、その時の主な話題がムスリム・クリスチャン関係の対話問題であったとの記事が掲載されていました。こういう話題は、まず一般の日本の新聞では、ニュースにすらなりません。儀式的な宗教間対話の会合や何か事件が起こった時だけです。国内では宗教問題が少なくて平和につながるのでしょうが、一方で、世界観の上では、その理解の上で大きな損失なのかもしれません。
例えば、最近、ミンダナオ島でイスラーム過激派と呼ばれるモロ・イスラム解放戦線グループを監視する役目を負っていたマレーシア部隊が、嫌気がさしたのか何なのか、撤退してしまいました。そのために和平が後退したというところまでは日本の全国紙でも取り上げられるのですが(例えば、2008年5月11日付『朝日新聞』朝刊「比・ミンダナオ停戦監視団:マレーシア隊が撤退」)、その後が空白なのです。実は、マレーシア部隊が引き揚げた途端、その地域のクリスチャン1200人ほどが「ここから出て行け!」と追い出されたとの由。むしろ、その方が重要なのに、日本ではその手前で報道が終わっているような感じなのです。もちろん、先週届いたマレーシアのカトリック新聞『ヘラルド』は、この事件を報じていました(11 May 2008, Vol.15, No.18, p.1‘Islamic rebels drive more than a 1,000 Christians from their land')。わが身に迫るような思いがするからでもありましょう。
今日は、久しぶりに池内恵氏の『アラブ政治の今を読む』中央公論新社(2004年)を読み直していました。当時はスカッとするような思いで読みましたが、今は時間が経過しているのと、自分でもブログで文章を綴るようになったせいか、情報源の傾向やマークされていない文献なども読み取れるようになり、多少は自分なりに成長したのかなあとも思いました。それにしても、かなり精緻な文章で配慮された書き方なのに、数年前には、どうして一部のイスラーム研究者やキリスト教神学者を名乗る研究者まで、池内恵氏をこき下ろしていたのでしょうか。私は知らずに、たまたまこき下ろしの会合に出席してしまったことがあります。非常に嫌な気分でした。ご本人がいないところで、徒党を組んで非学問的な悪口を唱和するなんて、大人のすることじゃないのではないか、と思うのです。「池内さんだって、一応は学者なんですよね。国立機関にお勤めなんですから、もっと責任を持って発言していただかないと困りますよね」とか何とかおっしゃっていました。(は?研究者としての良心にかけて、あのような文筆活動を盛んになさっていたのが池内恵氏だったと私は理解しているのに...。言論や思想の自由はどこにあるんでしょう?)とだんだん混乱してきました。幸いなことに、この著作は、イスラエル在住の日本人研究者やその他の一般読者の間で、非常に評価が高かったのを覚えています。
結局のところ、思想信条に関しては、持つか持たないかではなく、その内容をしっかり吟味し実践してこそ、なのでしょう。