ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

それぞれの基準や水準で....

2004年前半期にマレーシア華人の友人と意見交換していたメールを、少し読み直してみました。当時は一生懸命だったのですが、今振り返れば、何ら新規性のない当たり前のことばかり書き連ねています。シンガポールでのカトリックプロテスタントムスリムイマームとの宗教間対話の様子などは、日本の状況で考えると、(え!まさか)と思わされますが、どうやら事実らしいのです。クリスチャンであるその友人は、有名なイマームについてコーランを学び、イスラーム理解に努めていたそうですが、質問する度に、「イスラームコーランの美しさは、心のきれいな純な人だけにわかる。わからないのは、あなた自身に不純な汚れたところがあるからだ」と言われた、などと書いてありました。言うまでもなく、友人にとってのコーラン学習は、イスラーム改宗が目的ではありません。
あの頃は、日本のメディアや大学で語られるレベルでイスラーム理解を要請されているように感じていたので、現場の状況とのあまりのギャップにいろいろと混乱させられていました。時間がたってみると、さすがは多民族多宗教社会でもまれて育ち、海外も広く見てきた人だけあって、友人の方は一貫した態度を貫いています。単純といえば単純なようでも、多分、マレーシアで発生している宗教上の諸問題は、結局のところ、そういうところに原因があるのではないかと思われます。
では、文化相対主義や「異なる価値観を尊重するように」との教えは、例えば上記のような応答に対して、どのように反応するのでしょうか。「そうですねえ。汚れているからわからないんですね」と素直に引き下がってしまえばそれまでなのですが。
1998年にアメリカ合衆国で通過した「国際的な信教の自由法」によって、世界各国の信教の自由の状況を調査報告した文書が毎年5月に発行されています(http://www.uscirf.gov)。2000年以降今年分までざっと眺めてみたところでは、これまでは報告書で特に問題視されていなかったマレーシアが、今年になって4ページに及ぶ事例を列挙されています。私にとっては既知事項ですが、アメリカの水準では望ましい基準に沿っての調査報告であったとしても、当事国内で現状をよしとする勢力が強いのであれば、変化を急がずにじっくり構えるのもやむを得ないかなあ、などとだんだん優柔不断になってきますね。

今日は、午前中大学病院に行きました。予約診察なので5分で終了。秋になったら金属反応検査をすると言われました。今だと汗をかいて反応するので、とのこと。元気は元気なのですが、長引くというのはやっかいです。
その帰りに図書館に寄って、石井桃子先生の追悼文が掲載されていた『文藝春秋2006年6月号の該当ページを複写してきました(犬養康彦石井桃子さんと五・一五事件」pp.302-309)。犬養道子氏の著作を学部生時代から読んでいたため、内容には知っていた事項が多くありました。それだけに、一つの大きな穴がぽっかり空いたような寂寥感を覚えます。お目にかかったこともないのに、こうして追慕の念を抱くということは、相当の影響力をお持ちの方だったんだなあ、と改めて思います。本当によいお仕事を成し遂げてくださいました。ありがとうございました。
図書館では、いつもの習慣として、『音楽の友』の最新号を読みました。ヴァイオリニスト特集のような体裁で、これまでコンサートで直接お目にかかったことのある五嶋みどりさん、五嶋龍さん、庄司紗矢香さん、今年お目にかかる予定のギドン・クレーメル氏、アンネ=ゾフィー・ムター氏などの記事が興味深かったです。神尾真由子さんは、何やら風貌が今までの日本人クラシック演奏家にはない雰囲気で、ちょっと誤解されそうな...。演奏さえしっかりしていれば、まあよいのでしょうが。ヴァイオリンで成功し、うまく表舞台に上がるには、師の存在とつながりが重要だそうで、そのあたりの系譜も楽しい試みだったと思います。その他にも、メシアン特集で、カトリック信仰がどのように音楽に表れているかなどは、本当におもしろく思いました。ヨーロッパにおけるキリスト教の衰退とよく言われますが、そんなに簡単に消えるものでもなさそうなことは、メシアンの音楽からもうかがえます。芸術は宗教性とも深く結び付いているからなのか、軽々しい妙な宗教批判を演奏家から聞いたことがありませんが、その点、日本の大学の方が、私の周囲に限れば、なんだか変な主張でも通ってしまうようなところがあったように思えます。