ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

回顧と省察とまではいきませんが

日本語版ウィキペディアによれば、日本のイスラーム研究者には、親イスラームと反イスラームとに分かれ、その多くが親イスラームなのだそうです。内訳としては、左派、アラブ研究者、リベラル多元文化主義者などが挙げられています。
一方、2年ほど前に、ある日本人ムスリム学生から直接聞いたところでは、「中東研究者のほとんどが、イスラーム嫌いだ」とのこと。さらに、「ムスリムだと就職先も限られてくるし....。キリスト教はその点、大学もあって、教会も強くていいですね。ムスリム内部でも、仲が悪い。トルコとアラブは対立しているし、アラブとイランは宗派対立と言語も違うからうまくいっていない」などと言っていました。
「それなら、どうしてイスラーム改宗したの?」と聞きたくなるところですが、何か訳があるのでしょう。もしかして、情報過多の昨今、何かはっきりした拠り所が欲しくて、集団礼拝するイスラームに親近感を持つのではないか、と思ったのですが、その学生いわく「そうではない」とのこと。
研究者が、本音は別としても建前上イスラーム寄りになる理由は、なんとなくわかります。まず、自分が人生かけて研究する対象を嫌っていては、自己分裂や自己否定につながるのではないか、という可能性が考えられます。さらに、ある先生がおっしゃったには、「発言に気をつけないと、研究対象の国の大使館がにらみを利かせていて、入国できなくなる。その結果、生活の糧としての研究ができない。これが一番怖いこと」なのだそうです。その他にも、できるだけ親和性を保っておいた方が、当事者から情報が入ってきやすいという利点も考えられるでしょうか。
イスラームから見たキリスト教に関して、それこそキリスト教側にとっていい迷惑である歪みを伴っていたとしても、日本のクリスチャンは比較的おとなしい傾向があります。中には、はっきり説教で述べている福音派系の牧師もいるようですが、どちらかといえば少数派ではないでしょうか。対立したくないという民族性がなせるわざなのかもしれませんし、関与して問題に巻き込まれたくないという心理も働いているのかもしれません。ただ、一つだけ言えることは、そのままでは通用しないという事態になっているということです。

また、植民地時代から、ムスリム地域で聖書を頒布することは非常に困難でしたが、仮に配れたとしても、ムスリム学者が、比較宗教の名の下、イスラーム護教に逆利用するとしたら、どうなのでしょうか。また、草の根レベルでは、ほとんどのムスリムが聖書など見向きもせず、放っておくとのこと。本当の願いは、ムスリムキリスト教理解の是正なのですが、なかなかままならぬことが多いようです。それでも、過去のキリスト教文献を見る限りにおいて、宣教師や聖書頒布者達は、聖書がこれだけ売れたとか配れた、などと無邪気に喜んでいた節がうかがえます。

私の場合は、「偏見を持ってはいけない」「異文化理解に努めよう」という教育の建前を文字通り実践しようとして、かえって袋小路に陥ったような経験をしました。従って、出発点としては、上記の親でも反でもないといえるかと思います。最初は、ムスリム著者による慣れない表現の続出する本を一生懸命読んで、(へえ、そういう物の見方があるのか)とか(考え方としてはそういう主張もありうるのかもしれない)などと、好意的に受け止めようとしました。しかし、だんだん息苦しくなるというのか、反例が出しにくいというのか、(で、それで?)と言いたくなるのに先がないとか、いわく形容しがたい気分になってきたのです。知らなかったので新鮮に感じただけで、同じことの繰り返しで、しかも地域や民族の枠を超えた非常に広い範囲を扱っているようで実は限られた部分で論じられているらしいことにまもなく気付きました。
しかし、研究というのは、印象や感想だけで発言するわけにはいきません。公的に発表する以上は、きちんとした証拠を集めて、論理的に並べて証明していかなければらないのです。話は簡単なのに、これほどまでに時間のかかった理由の第一は、まずその証拠集めが困難だったということが挙げられます。
昨日、レバノンのようなキリスト教人口の最も高かったはずの中東地域ですら、高い出生率と移住によってムスリム人口が増え、アラブ統一を叫ぶ声が高まると、きちんとした統計が表に出せないので曖昧なままになっていると、あるサイトで読みました。
また、マロン派キリスト教徒のレバノン系女性が、アメリカのテレビやイスラエルのテレビに出演して一生懸命に語っていたところによれば、「ムスリムとクリスチャンとは、文化が違う。教育を最優先するクリスチャンに対して、ムスリムはたくさんの子どもを産みっぱなしで放っておく傾向がある。だから、同じ国に住んでいても、お互いに親しく交流することはなかった」「例えば、あなた方はユダヤ教徒イスラエル人、私はキリスト教徒でレバノン人。このように違いがあっても、同じテーブルに座って落ち着いて意見交換することができる。でも、ムスリムとはこれが難しいんです」とのこと。それから、Nonie Darwish氏なども繰り返しているように、このレバノン出身の女性も、「多くのアメリカ人はここがわかっていない」などと主張していました。要は、わかっているかどうかという以上に、どのように表現するか、なのですが。
こうしてみると、なんとなく、だんだん整理がついてきたように思います。東南アジア、特にマレーシアの場合は、民族問題も宗教の種類も中東以上に込み入っているのと、生態学的に砂漠地帯ではなく緑豊かな亜熱帯気候のために、暮らしぶりや人々の気質がかなり違うので、一見わかりにくい面が多々ありましたが、焦点を絞れば、なるほどなるほど、となってきます。
いつの間にかたまってしまった片づけものなどを済ませて、落ち着いて計画的に発表準備に取り掛かろうと思います。