ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教をめぐる彼我の相違

昨日の午後は、京都のとある場所へ某試験を受けに行きました。ほとんど趣味化している受験ですが、私にとって、いつかは是非とも合格したい試験なのです。これが済んだら、次に受ける試験はもう予定してあります。自分がいかにデキナイかの再認識を繰り返す意味でも、大切な試験です。受験生は20代の若者が大半ですが、50代ぐらいの壮年男性も何人か混じっていて、つい我を忘れて(すごいなあ、休みの日なのに、試験を受けに来るなんて…)と感嘆のまなざしで見つめてしまいました。試験30分前に集合なのですが、その30分前つまり1時間前には大抵の人が揃い、黙って静かに参考書を広げて勉強していました。実は私もその一人だったのですが、客観的に見ると、やはり勉強熱心な方が世間には多いんだなと励まされます。人生、最後まで勉強です!

3日前には、マレーシア神学院の図書館司書アシスタントのサクティさんから、メール添付で、また論文が送られてきました。オランダのライデンにある「現代世界におけるイスラーム研究のための国際研究所」から出ているジャーナルの一部です。アムステルダム大学、ライデン大学ユトレヒト大学などが関与しているそうです。論文というより、論説文のような2ページの文章なのですが、この原稿で筆者は「若手学者の競争賞」とでも訳すのか、そのような賞を受賞したとの但し書きがついています。いいなあ、これで賞がもらえるなら、私だって...!?

ヨーロッパやアメリカの機関では、いわゆる途上国で若い時期に一時滞在経験を持つと、それがかえって有利な条件となって、昇進していく仕組みができているようです。宣教師だってそうです。日本で一般に考えられているよりも、はるかに尊敬される存在のようです。
マレーシアに約10年いらしたアメリカの宣教師は、シンガポールを経てウィーンのアメリカ系大学で数年教え、今や母校である南メソディスト大学の教授です。それより先にマレーシア神学院で教えていらしたニュージーランドの長老派宣教師夫妻も、帰国後は奥様が大学で教鞭をとられ、ご主人の方は聖書学院の教官です。同じマレーシア神学院で教育に従事されていたスコットランドの宣教師は、エディンバラ大学神学部の教授です。1980年代半ばにサワラク州でイバン人伝道に従事されていたアメリカ人は、今ではシリコンバレーにある3000人の合同メソディスト教会の主任牧師です。
一方で、同じ頃に同じイバン人伝道に加わっていた日本人牧師の方は、キリスト教事典の翻訳や本の執筆もされているのに、今は田舎で、共生の思想を実践すべく労苦されています。ご本人の意志も働いているのかと思いますが、この違いは一体何なのだ、と考えさせられます。何かのメッセージや主張を発するにも、同じ人で同じ内容であっても、立場が違えば、聞き手の層や受け留め方に相違が出てくるからです。
「日本はキリスト教国ではないから」というのが、もっともらしい理由なのでしょうが、それにしても人材を粗末に扱い過ぎます。じゃあ、仏教や神道ならば、途上国で苦労した経験が本当に日本で生かされているのでしょうか。

私にしても、このブログ日記を始めるまでは、遠慮がちにしていたためもあるでしょうが、「聖書ってどうして翻訳を繰り返すのですか」「聖書の原語は何語で書かれているんですか」「アングリカンとメソディストってどう違うんですか」という基礎次元の質問を、研究会で由緒ある大学の先生方から出されるたびに、本当に落胆していました。(それほど低く見られているのか)と意気消沈するのです。「人を育てる」というより、「けなしてもはい上がってくる気力のあるヤツだけ受け入れてやる」ということなのかもしれません。そうだとしたら、上に立つ人の社会的責任といったものは、どう解されるべきなんでしょうか。

神学校だってそうです。日本では「神学論争」という茶化した表現がありますが、西欧では、立派な哲学的歴史的根拠を持つ、すぐれて学問的な一分野です。ですから、「神学校で教鞭をとる」ことに、‘特殊な’あるいは‘大学より一段劣る’というイメージは必ずしもないのです。かえって、伝統のある大学だった神学部の方が、現代では宗教学部のようになってしまい、イスラームなども加えると、キリスト教側は自己批判的態度をとる傾向があるので、今でも真にキリスト教を極めたいと願う者にとってかえって‘有害’ともなりかねません。

アメリカのキリスト教事情についても、日本では、高度で良質な研究からジャーナリスティックなその場限りのおざなりな論評までピンキリですが、私がアメリカの東海岸を初めて訪問した時に感じたのは、神学校に対して相応の敬意が払われているということでした。もっとも、アメリカの神学校にも教派やレベルの違いはあります。けれども、れっきとした神学校ならば、変な大学のいいかげんな宗教学科よりは、よほど優れた訓練を施して、よい人材が集まっていることもまた確かです。

2005年8月のことです。コネティカット州にあるハートフォード神学校から宿泊地のホテルへ戻ろうとした時でした。タクシーを呼んでもらって乗り込んだところ、いかにもヤンキーっぽい兄ちゃんが運転手だったのですが、「ハイ!」という気楽な挨拶の後、「君、ここの神学校で勉強しているのかい?」と真面目に問いかけてきました。それからのひと時は、態度が一変したような真剣なもので、「宗教(レリジョン)はね、科学的に説明しようとすると議論が起こるけど、だけどその教えや倫理観は、重要なものが含まれているよね。僕、宗教って大事なことだと思うよ」などと‘高尚’な会話に昇格したのです。いえ、もしかしたらこの兄ちゃん、ボストンあたりかハートフォード大学の学生か何かで、夏期アルバイトとして運転手をしていただけだったのかもしれません。そうだとしても、私に対する態度も慇懃そのもので、(いやぁ、ハートフォード神学校の威厳はなかなかのものなんだな)と思わされたのです。ご参考までに、ハートフォード神学校で学位を取得する学生のレベルは、図書館長の説明では「イェール大学神学部で学位論文が仕上がらなかった人達がここへ来る」というものです。二番手とはいっても、馬鹿にするレベルじゃありません。この神学校で晩年教えていらした教授が、英領マラヤでマレー人伝道に従事していたウィリアム・シェラベア博士なのです。

同じ頃、ハーヴァード大学やMIT構内を歩き回った時には、学生事務室の廊下に、キリスト教の各グループの祈祷会の案内が幾つも貼ってあったのを見かけました。「私達と一緒にお昼休みに祈りませんか」というものです。バプテスト、カトリック、アングリカン、メソディストなどさまざまな教派でしたが、私が見た限りでは、特に狂信的でも異端的でもなく、極めて真っ当な印象でした。「仲間で、学問上の悩みや人間関係や世界の諸事情について語り合い、祈り合って勉学に勤しみましょう」というものです。もっとも、祈ったから人生安泰なんて甘いものではありません。しかし、世界の最高水準に位置する大学の学生達が、目に見えない霊性にも関心を払い、謙虚にひざまづいて祈り合うという呼びかけは、いかにもアメリカだなあと思わされました。

こういう話になると、すぐに「大統領が聖書に手を置いて宣誓する国だから」とか「エバンジェリカルの運動だろう」と揶揄的に論じ始める人が日本にはいますが、その場合、その政治性が問題なのであって、それとこれとは別問題だろうと思います。個人レベルで祈りつつ勉学に励むことは、何を祈るかにもよりますが、ごく自然なことではないでしょうか。他人や他国を呪いつつ妙な研究をしているのと比べたら、よほど健全ではないですか。皆さんはいかがお考えでしょうか。