ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

海外の先生方のお世話になって

マレーシアの華人牧師の方の説教要旨が送られてきました。1990年代の滞在中にお世話になった方です。数年前に南アの神学校で神学博士号。今は、神学校の校長先生をなさっています。
「導入ー本論ー結論」という三部構成に、本論内も三部構成の入れ子構造になっていて、文献引用も複数添えられ、大変バランスのとれた内容の、聖書的なメッセージとなっています。
先生がフィリピン滞在中に肺炎に罹患され、マレーシアの首都圏で緊急入院とのご連絡をいただいたのは、つい最近のこと。見事に癒され、無事に退院されて日本語集会での説教に来られたそうですが、その体験を元にした説得力のある説教内容でした。
(こういう説教ならば、安心して聞けるのになぁ)と、つい、関西に来てからの不愉快な経験を思い出してしまった次第(参照:2007年10月9日・2007年10月28日付「ユーリの部屋」)。なんだかいつも文句の多い私のように思われるかもしれませんが、実は私だけではなさそうです。しばらく前の某氏の講演会で、「一体、今の神学部では、説教学をどのように教えているのですか」という質問さえフロアから聞かれたことがあります。おちゃらけ話や自分の政治的信念の主張やキリスト教にまつわる講話みたいなものは、もうたくさん。そんなのはエッセイでも書いていればよろし。聞く側のことも考えてよね、と言いたくなります。だから教会に人が集まらないんですってば...。理由は簡単。
そして今日。アメリカの南メソディスト大学のロバート・ハント先生から、「マサチューセッツアマースト・カレッジで見つけたRev. Benjamin Keasberryの説教を一部入手できそうだよ」と、ご連絡がありました(参照:2011年9月20日・9月30日・10月13日付「ユーリの部屋」)。アマースト・カレッジと言えば、同志社大学と縁が深く、交流提携を結んでいる有名大学です。
何年か前、イスラエル人の専任の先生が、「ここで教えていたんだから、アマーストにも連絡取ってみたら」と話をつなげようとしてくださったのですが、当時の(日本人の)学部長に断られました。出身校じゃないからということのようです。
伝統的なキリスト教系の大学がプライド高く誇っていらっしゃるのは、お気持ちとしてはよくわかるのですが、だからといって、今のように閉鎖的な態度を取っていたら、いろいろと遅れをとってしまい、他者からの評判もよくはならず、かえって不利になるのではないでしょうか。口では「開かれた大学」「どなたでもどうぞ」とおっしゃるのですが、実際には、母校じゃないという理由で、結構、道が閉ざされることもなきにしもあらず(参照:2011年10月24日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65))。
中には、キリスト教系大学でなければ、真っ当な学校ではないみたいな勢いで喋る先生までいます。つまり、国家権力の元で官吏養成として作られた旧帝国大学に対抗して、リベラルで時勢に流されない世界的視野を持つ教養人がキリスト教系大学から輩出される、というのです。宗教心なき学問だけの人間じゃだめだ、と言わんばかり。
これも上記と同じで、私は言いたい。「聞く側のことも、ちょっとは考えてくださいませんか」と。
地域によっては、キリスト教系大学が限られている上、子どもが何人もいたら、経済的に地元の国公立へ行かせる家庭も少なくはないのです。「その代り、一番で卒業しなさい」とか何とか言われて...。裕福なお金持ちならともかく、一般家庭では、長い目で見れば、複数の子どもを遠方に下宿させるなんて、無理というもの。
もちろん、在日の方達のように、しばらく前までは国公立大学への道が閉ざされていて、やむなく、人道的観点から受け入れ可能なキリスト教系大学に進学したという話は承知しています。それとて、少しずつは改善されているのであり、もう少し双方の状況理由などもきちんと調査した上でのことでなければならないとは思います。

話を元に戻しますと、「中立」でなければならないので宗教色を排除した国公立の学校に進学したならば、聖書を読むのは自分一人。何でも自分でやるのは当たり前。しかも、宗教嫌いの人、多様な宗教的背景を持つ人々、社会経済状況もさまざまな人達に揉まれながら過ごすわけです。それが、世の中に出てから、いかに貴重な財産となることか...。
それに、いつも話を聞いていてチグハグな感じがするのは、日本人一般は聖書を読んでいないという思い込みが、キリスト教系大学出身者の一部に感じられることです。確かにそういうこともあるでしょうが、一方で、自分でさっさと何度も読み返し、ついでにギリシャ語まで勉強している人もいるのが現代の日本。私はそういうケースを知っています。そのような幅広い観点から、普遍性のある説教のできる牧師がもっと増えることを望んでいます。
ちょっと脈絡がないようで恐縮ですが、どうも日本は偽悪趣味というのか、例えば、試験前に本当は徹夜勉強していたのに「全然勉強していない」と言い張る見栄張り生徒みたいな、子どもッぽい雰囲気がまだ残っているように思います。世の中、そんなことを言っている場合じゃないのに。