ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(2)

一昨日に引き続き、前田護郎先生の『聖書愛読−ひとり学ぶ友に−』を一年ごとにまとめた本から、ごくわずかですが一部をご紹介しましょう。私の生まれる前に、前田先生によってこのような働きが起こされ、先生がご逝去の後も今なお、立教大学の月本昭男先生の無教会の集いによって大切に受け継がれている思想の恩恵は、忙しい現代にあって非常に貴重なものと思います。ブログ日記の形をとって電子版で部分公表することは、あるいは著作権の問題があるかもしれませんが(発行者:前田道子氏 発行所:聖書愛読社)、こういう機会でもなければ知り得なかったかもしれない読者の方達の便宜を図り、そして、自分への励ましも込めて、差し障りのない範囲でお送りしたいと思います。

第1号 1964年(昭和39年)1月「創刊のことば」(p.1)
ひとり聖書の本文に親しんで、いささかなりとその意味を理解し、形式的な礼拝や複雑な教義では与えられない深い救いのよろこびを体験した人の数は測り知れません。(中略)至らないわたくしですが、学的には世界の最高水準を目ざしつつ、平信徒として、出来るだけ平易な形で恩恵のお福分けをさせていただきたいと思って筆をとりはじめます。“全き知識には及ばぬわれらのこと、たとえ少なすぎても何かいう方が何もいわぬよりはよかろう”というヒエロニムスのことばはまたわたくしの心境でもあります。

第5号 1964年(昭和39年)5月「聖書研究は後退か」(p.11)
(4月6日 NHK教養特集で鈴木俊郎家永三郎両氏(ママ)と三人で放送したときのメモの補正)
ここで、先生(ユーリ注:内村鑑三)が聖書の研究に専心されてから社会的に後退されたとか現実逃避をされたという誤解について一言したく思います。先生は隠者になられたのでもなく、表面的な伝道者になられたのでもありません。罪のゆるしの福音による信仰体験を経とし、学的研究を緯とする良心的な聖書解釈が先生の筆と口によって発表されたのであります
。(中略)聖書がもっと直接的に日本人に読まれるために、世の人から後退といわれる程研究したくも思います。その低く隠れたところに、われらの真の前進があり、目ざすところは天の高きところであります。
第6号 1964年(昭和39年)6月「信仰とつまずき」(p.10-15)
野村実・前田護郎 対談 1963年11月17日 NHK放送

(前略)
野村:(略)ごく最近ですが、ラジオで宗教について放送した結果はどうかを調査した人から話し(ママ)を伺いました。聴取する人がわりに少ないそうです。それでも中には非常に熱心な方があって反応もたくさんある。そのなかで面白いと思ったのは、教会に行ってみたいと思う方が百人とすると、その中でいつまでもよろこんでいく方が非常に少ないという統計をです(ママ)。つまり教会に行きたい気持になる方がたくさんある反面、行っても失望する例があることをみとめざるを得ないし、教会にも本当に求めている人の心を満たさないものがあるのじゃないかと思います。(中略)信仰というものがらくらくと教会に行っておればそれで解るという簡単な問題でないということを始めに(ママ)考えておきたいのです。
前田:わたくしもいわゆる教会へは行っておりませんし、その点で非常に自由に聖書を読んで真理を示されていくという生活がつづくわけですけれども、しかしそれでも、キリスト教というものがあまりに異質的存在、つまり今までの日本の風習或は考え方と相入れないものがあることを感じます。(中略)
わたくしは学生諸君に接しておりますが、学生時代に非常に熱心に聖書を勉強しておりまして、学問の成績もあがってきて、他の人が心配するようなことを聖書を読んでいれば、そんなに心配しなくてもすみますし、本当の平安が与えられているので、結果として求めなくてもよい成績が与えられたり、よいところに就職できたりして数年は過ぎるのです。
前田:そこでキリスト教のばあいに今おっしゃった外側のものと本当の内側の真理そのものとがよく混同される。(中略)就職して数年間非常に良心的な生活をしてい(ママ)お酒やタバコはのまない。従って、就職した月からその人は何千円かベースアップになっているといえますし、夜は祈りをもって休めばよく眠れる。従って健康は与えられるしその人が求めなくてもよい結果がでる。それから仕事も一生県命(ママ)やるということでだんだん同僚から嫉まれてきますと、今度は何かヘマをしたりした時に嫉妬で準備された反感がおこってきて非常な苦しい立場に置かれたり排斥されたりしてしまう。その時に上役がすこし馬鹿な人であったりすると、ことばは大袈沙(ママ)ですけれども型を変えた迫害がおこってくる。そこなのです。
野村:そこをしっかりしませんと、あんな教会のいき方だとか牧師さんのお説教だとかつまらない、気にくわないというのは自然のことだと思うのです。(中略)たとえ健康に恵まれなくても、たとえ毎日罪に泣いていても、本当に自分は生きようというしっかりした気持が聖書の信仰からは出てくると思うのですね。(中略)ですから例えばわたくしよくシュヴァイツァー博士の話し(ママ)をさせられるのですが、博士も随分欠点がある。そういうことで批判をすべきではないという気がするんですね。(中略)そこがしっかりつかめますとつまずく問題はなくなってきて先生がさっきおっしゃったぐーつ(ママ)とつきすすんでいく、真理にひきつけられると申しましょうか、他のものには目をくれないと思うのですがね。
前田:(中略)今日若い方達のいろいろのつまずきをみますと、宗教というものを19世紀に解釈されたような把握の仕方でみている人が多い。(中略)考古学が発達して古来のいろいろのものがみつかってきまして、聖書に書いてあることが歴史的にも事実であるということ、それからもう一つ歴史的に事実であるばかりでなくその意味するところ、例えばアダムとエバが楽園から追放されたということ、これは信仰の世界なのですけれども、そうした創造伝説がエジプトとかバビロニアにたくさんあった中で、何故聖書では罪をおかしたが故にということが強調されているかという神の義と人の罪の問題。或はバビロニアなど古代の強い国々がたくさんあったのに、何故一番しいたげられている貧しい小さい民が選ばれて苦労しながらも目に見えない義の神を信ずるように導かれたかという、そのところですね。

第12号 1964年(昭和39年)12月
「愛にはおそれなし」(p.7)

(前略)先がわからないので評論も沈滞し、若い人の間には打算による職業の選択が行なわれて人生の理想がなく、おざなりの技術で何とか間に合わせようとして気分的に行きつまる場合が少なくありません。虚無主義と快楽主義とが共存するわけです。早く大学へ入って早く卒業して早く就職して早く安定した生活をしたいとあせりながら早く死んでしまう人が何と多いことでしょう。家庭にしてもこの世的な幸福を目標にして打算的に話し(ママ)が進められた場合に困った結果になることをよく見受けます。(中略)聖書を読まなかった人とは違って、大体健康であり、勉強もし、まめに仕事もします。人からいじめられても祈っていますし、誰も見ていないところでそっと善いことをする場合もあり、酒も煙草も飲みませんし、平安が与えられますので病気も少なく、薬代も要りませんので何とか薄給でもあり余る感謝で生活している人が少なくありません。(中略)有利であることを求めて聖書を読むのではなく、むしろ心身の行きつまりを感じて聖書の真理を求めるわれわれですが、そこに予期しないものが与えられて来るのは不思議です。
NHK古典講座“聖書”(下)」(p.14)
聖書に親しむ人とそうでない人とはちがう。不安があっても或る平安が与えられる。自らを責める人のために祈るよろこびが生活を幸福にする。(12月30日)

(第一巻終)
こういう話をNHKで東大教授がなさっていた時代があったことを思うと、万感悲喜交々です。