ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(3)

引き続き、『聖書愛読』の3巻4巻から、興味深く思った箇所、印象づけられた部分を引用させていただきます。入力にはいささか時間がかかりますが(特に、正確な引用のための再三チェックが…)、一度読んで自分なりに温めておいた内容を、再度読んで精錬させることができるのは、私にとって喜びの一つです。今だからこそできる作業と、張り切っています。では、どうぞ。

・第31号 1966年(昭和41年)7月「書斎だより」(p.13)
埼玉大学キリスト教学生会の招きで“誤解されたキリスト教”と題する講演を行なった。生れてはじめての埼玉大訪問であるが、村上進・和田富起両教授や誌友の顔が見えたので話し易かった。会後の質問も活発(注:原字はサンズイに「發」)であった。わたしは無神論者です!と開き直る学生があったので、“われらは学徒です。お互いに事実と科学的に取り組みましょう。あなたは“者”すなわち人間であり、“論”じていることも事実です。しかし、“神”が何で、それに“無” の字をつけて結論的に無神ということがいえますか。今日わたくしがお話したような誤解された神に無の字をつけているのではないでしょうか”と反問したら静かに考え直そうとする態度を示してくれた。10数名と会食。先刻の無神論者は、今まであんな風に論理的に考えたことはなかったと友人にもらしたという。(5月13日)

・第37号 1967年(昭和42年)1月「勤労と安息」(p.1)
明治時代に札幌農学校に学んでおられた内村先生ら7人の基督信徒のことです。彼らは日曜に安息を守っていましたので、成績は悪かろうと他の級友から蔑視されていましたが、卒業の時に1番から7番まで皆基督信徒が占めたということです。

・第46号 1967年(昭和42年)10月
「聖書の本文を読むこと−若い友との座談―」(p.5-9)
或る大学の研究室に教授と学生の読書会があって、キリスト教関係の名著を一つずつ読んでいましたが、それは長つづきしなかったのに、聖書の本文を順々に読む会にしたら何年もつづいて、今なお活気があるそうです。教授は医学の世界的権威で、彼の研究は真剣な学的雰囲気に包まれているのですが、それだけならばどんな本を読んでも名著ならいい筈です。ことはもっと深いところ、すなわち聖書の本文に親しむことの意味にあります。わたくしも聖書の研究会を何年もやってみて、実際の体験から色々教えられています。(中略)
ドイツで勉強していた頃、或る教授が牧師志願の学生達にいっているのを聞いたことがあります−あなた方も一生懸命聖書を読んで、どこに何が書いてあるか知っていないといけません。信者の中には熱心に聖書を勉強している人が必ずあるものですから、うっかりするとやられますよ、と。(中略)
そこに自由な読書のたのしみと、聖書の内容の気高さに直接触れ得る感謝があります。また平信徒という縛られない立場にありますから、学的な聖書批判も歓迎します。不思議なことに、学的に真剣であればある程聖書の語句やその書かれた世界の背景が明らかになり、その光に照らされて聖書の真理がますます輝いてくるものです。(中略)
経典として個々の字句を絶対視するのでなく、字句に示される真理に触れると、何故それらが経典化されたかの意味もわかって来ると思います。他の宗教の経典のように人を束縛するものがない福音的なものを経典とする、という逆説のうちに聖書の力の秘儀があるのでしょう。(中略)
ナチスのドイツで数年間過した頃を思い出しますと、この世的な妥協をせずに信仰の純潔を守った人々は聖書の読者でした。キリスト教関係の学者の中でも聖書学専攻の人々に良心的な信徒が多かったという事実はわたくしに大きな示唆を与えてくれました。聖書学以外の学者も聖書に基礎を置いた学問の仕方をする人が健全な成果を生んでいたといえます。(中略)
聖書を学んで与えられたものを基礎として新しくキリスト教の名著に親しむことも大切です。(中略)
このような勉強の態度は、読書会に限らず、すべて真理を求める学問にあてはまります。学問学問といって人間の頭ですべてをなしとげようとするから行きつまるのであって、そうした人間的な行き方を捨てて聖書の真理に目ざめはじめると、すべての学問が新しい意味を持って来ます。聖書の本文に親しむ多くの学徒が感謝をもって学問と取組むとき、そこに色々な恵みが与えられるものです。パスカルニュートンらの科学者が謙遜な信徒であったことを想起しましょう。
聖書を読む会が開かれた研究室の教授も若い頃から聖書に親しんだがゆえに学徒としての仕事に打込むことが出来たのです。彼のところでの名著の読書会が長つづきしなかったのは、それが彼の専門外であったのと、来る人にいきなり外側の知識をあさる面があったりしたことなどによるのでしょう。聖書に教えられて真理を求めることは何もいわゆる学問に限らず、あらゆる仕事に当てはまります。人生のすべての面に学問的な態度が必要です。職場でもお勝手でも組織的系統的にもの事を考えねばなりません。病床に釘づけにされていても、自分の体がどうなるかを考えるのは当たり前です。聖書に親しんで祈りながら真理を求めるところに生き甲斐のあるその日その日が与えられます。(中略)
(引用終)

こうして書き写し入力ながら、ふつふつと希望の力が湧いてくるのを覚えます。前田先生は、本物の学者でいらっしゃいました。しかし、単なる学者ではなく、非常に心の温かい思いやりに溢れた方でもあられました。ある方が「でも、前田先生だけを見て、大学の先生は皆ああいう風だと思っちゃいけませんよ。前田先生は例外的です」という意味のことを他の方達におっしゃったそうです。そのことばもまた貴重だと思います。