ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

エジプト人の先生との会話から

10月22日にばったり会ったエジプト人の大学教員との会話の続きです。
(A: 先生 B: ユーリ 使用言語は英語)

A「あ、そう言えば、あんたのマレーシアの友達で、2年前、国際ワークショップで京都に来たキリスト教のリーダーがいただろう。あの、インド出身のマレーシア人のクリスチャン。会合で一緒に撮った写真、後で私に焼き増し一枚くれたじゃないか」
B「ええ、S師ですね」
A「そう。あの人と後で、メールで議論したんだ。マレーシアのイスラームのあり方について、クリスチャン指導者がどう理解すべきか。誤解もあるから、ムスリムとしては説明しないといけなくて…」
B「あ、知ってますよ。去年の11月にマレーシアを訪れたら、S師が私に言いました。‘あれから突然、長いメールが日本人ムスリムのN教授から届いた。マレーシアはイスラーム国家だ、なんて書いてあったから、こっちは、マレーシアにはかくかくしかじかこういう問題があって、決してイスラーム国家ではない、と返事してやったんだ。そしたら、ピタリと返事が止んだ。それっきりさ’って」
A「N教授とはそうだ。だけど、その議論、私は続けたかった。一度、‘クリスチャンはムスリムに聖書を配ったりキリスト教文書を渡したりするのをやめないといけない’と私が書いたんだ。そしたら、彼は‘そういう人達をこちらはコントロールできない’と答えた。でももう、向こうが返事してこないからなあ。クリスチャンは、イスラームを理解していないところがあるんだよ」
B:???


B「アレキサンドリアは、元来キリスト教の中心地だったでしょう?」
A「それは、西欧のクリスチャンから見た歴史だ。アレキサンドリアには、クリスチャンのみならず、ユダヤ人も住んでいたのに、西欧クリスチャンはそれを言わない」
B:????


A「エジプトの統治に関して、ローマ人よりも、ムスリムの方がよかった。ムスリムは上エジプトの方にいたコプト教徒達を追い出したりはしなかった。コプト教徒は、広い土地を所有していて、裕福だし、社会の上層部を占めているんだ。ムスリムは貧しい。」
B「あ、前国連事務総長ガリ氏、あの人もコプト教徒でしたね?」
A「うん、だけど、奥さんはユダヤ人だったんだよ」
B「コプト教徒ってアラブ人の範疇なんですか?」
A「そうだよ。みんなアラブ人なんだ」
B「古代エジプト人の末裔がコプト教徒だって聞いたことがあるんですけど。じゃあ、同じアラブなのに、どうしてアラブ人クリスチャンの方が、アラブ人ムスリムよりも、アラビア語が上手で裕福で教育程度も高いと言われるんですか」
A「それは、西側が同じクリスチャンだからということで、援助するからさ」
B「アラブのクリスチャンは、マイノリティで差別されているってよく聞きますけど」
A「そういう、西側に逃げた人達のプロパガンダを信じたらだめだ。もともと、西欧諸国が支配するまで、コプトムスリムも同じアラブ人。一緒にエジプトに住んでいたんだ。その事実だけが共有されていて、マイノリティだの何だの、人口構成を計算する習慣なんてなかったのさ。それに、エジプトは昔、シーア派でもあったのだよ」
B「でも、エジプトでは、ムスリムのみが身分証明カードに‘イスラム’と書いて、クリスチャン達は書けないままでいるってマレーシアの新聞で読んだんですけど」
A「身分証明書には、自分の名前に、生年月日と生まれた場所と父親の名前と宗教を書くのが普通だ」
B「クリスチャンは‘キリスト教’と書けるんですか?」
A「あ、それは、結婚する時に、もしクリスチャン男性がムスリム女性と結婚するなら、イスラーム改宗する必要があるから。あと、離婚の場合も。クリスチャンは離婚が多いんだ。その点、ムスリムは大丈夫」
B:?????


B「一度、ムスリムからだけじゃなく、コプト教徒からもエジプトについて話を聞きたいわ。先生、コプトの学者を招待してくださらない?そしたら、会合に出席してもいいですよ」
A「一度、それを考えたことがあるんだけどね、まだ実現していない」
B:??????


A「要するに、アラブでは家の尊厳(dignity)が大事なんだ。もしも、うちの娘がクリスチャンと結婚すると言ったら、私は娘を殺す」
B「クルアーンにそんなこと書いてありましたっけ?」
A「いや、それはハディースなんだ」
B「ハディースって、書いてあることがそれぞれ違うじゃありません?ある箇所では、こうせよ、とあって、別の箇所では、こうするな、と書かれてますよね?」
A「ハディースは難しい。ずっと前にハディースについて本を書いたけど、今は時間がなくてできない・・・。だけど、そんなことにはならないだろう。パキスタンにもエジプトにも、私の子どもがいて、日本の娘とは姉妹関係だから」
B「あ、別の国に住んでいるいとこみたいな感じですか?」
A「いとこじゃない、姉妹なんだ。ところで、以前、パキスタンで会ったあるクリスチャンは、自分がキリスト教改宗したのは不可触民だからだと言っていた。イスラームにはそんな考え方ないね。ムスリムはみんな一緒で平等だよ。だけど、ゆっくり考えて、イスラーム改宗したいかどうか自分で決めて、とその人に申し渡した。イスラームでは、宗教のための改宗っていうのはダメだ。キリスト教のように急かさない方がいいんだ」
B:???????


B「今のエジプトって治安はいいのですか?ルクソール事件があったじゃないですか?」
A「ああ、あんなの、昔の話。20年前のことだ」
B「え?1997年発生じゃなかったですか」(とまた混乱。だんだんこちらの頭が朦朧としてくる…????????)

ちょうどこの辺りで分岐点に来て、挨拶して別れることになりました。ふぅっ、とにかく疲れますねえ。お互いに顔と顔を合わせてニコニコと話していながら、肝心なところが率直に通い合っていない感じが常に伴うのですから。

この先生だけじゃありません。マレーシアでも、マレー人学者と会話すると、いつもこんな感じです。最初は新鮮でおもしろかったのですが、もう十何年も続くと、いい加減、飽きてきます、正直なところ…。対話は時間つぶしじゃないんですよぉ!

いわゆる、欧米キリスト教世界や日本社会の「偉人伝」なんかに取り上げるような美談とまではいかなくても、個人がイニシアティブをとって問題解決に地道に取り組むというような方向に、なかなか話が進まないのです。「そうか、クリスチャンはそう言う風に考えているのか、じゃあ、責任者の○○氏に話をつけておこう」という風景は、まず目にしたことがありません。常に、クリスチャンは誤解している、イスラームを正しく理解していない、それは本当のイスラームではない、あれはイスラエルが悪い、アメリカはもっと悪い...このオンパレードです。ふぅ!!