ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

フランシス・フクヤマ氏の講演会

2007年10月22日午後2時半から4時半まで。フランシス・フクヤマ氏の講演会概要(於:同志社女子大学栄光館ファウラー・チャペル)

400名ほど出席。入り口で、パンフレットと感想用紙をいただきました。これはもちろん、メモ用紙に早変わり。ところで、随分前に朝日新聞のコラムで、フランシス・フクヤマ氏の写真付きインタビュー記事が掲載されていたのを切り抜いておいたのですが、それから考えると、この同志社の行事ってちょっと遅れをとっていません?今回の記念行事は、ご母堂が同志社と縁が深かったこともあり、この度、名誉博士号授与の運びとなったそうです。

蛇足ですけれども、伝統的な私学では、単なる実力のみならず、係累や同窓のつながりも優先されることが多いようです。私見では、それも善し悪しかもしれないと思っています。その環境に浸ってハッピーで、規定ルートで留学したり就職したりする人生に満足できるならば、問題ないのかもしれませんが、もし校風に合わない面があったとしたら、それこそ災難ともなりかねません。また、ブランド名に寄りかかって、どこか甘えが出てしまうこともありますね。実力一本でいくより、縁故で何とか潜り込んでしまうみたいな…。いわゆる、看板で仕事をするケースです。例えば、教会学校時代から礼拝だけは欠かさず出席していたのがとりえで、学力は二の次であっても、牧師推薦で神学部にストレートで入ってしまうとか。その挙げ句、牧師になってから、つまらない説教しかできずに苦労するなど…。「昔の同志社出身の牧師はすごかったのに、今の世代は何だ。聞いていられない説教をする」と陰で言われている人も、残念ながら知っています。また、聖書学をきちんと勉強しない副牧師がいて、ある隠退牧師が「苦労しました」と私に言われたことがあります。

「祖父母も両親も○○大学で」と、親戚一同で同窓会を形成している家系もあり、それはそれで誇り高いようなのですが、主人も私も家族親戚含めて皆、完全にそこからはみ出しています。今とは違って、AO入試のなかった時代ですから、学力試験のみを経由して国公立の学校と大学院で学んだので、母校と密着した誇りやプライドなどは、有名私学ほどないと言えばないのかもしれません。

第一、「名古屋大学?あ、そ」で終わってしまうのが関西なんですから。実弟も「東大に行けなかったから、自分は京大に進んだ」とよく言っていました。本当のところは、早慶にも合格していたのですが、マレーシアにいた頃、進路相談の電話をかけてきた弟をけしかけて、「勉強したいなら、東京の大学ではなくて京都へ」と私が促したのです。名古屋に近いため、両親も安心かと思って…。上を見上げながら地方の二番手で努力している方が、精神的には楽だし、独創性も伸びるのでは、というのが私の考えです。ノーベル賞だって、東からは出にくいそうですし…。

さて、話を元に戻して、講演会の内容に入りましょう。現在、フクヤマ氏は、ジョンズ・ホプキンス大学教授ですが、この大学には、マレーシアの前副首相アヌワール・イブラヒム氏の長女であるNurul Izzah Anwar氏が国際関係の勉強のため、一年半留学していました。もしかして、師弟関係だったのでしょうか。

講演要旨(自分のメモから)2時35分から4時15分まで(最初と最後の各5分、挨拶が主催者からあり)

〔注〕以下の講義内容は、英語でフクヤマ氏が語られたものと、通訳氏の日本語訳の両方を聞き取りながら作成したメモから、帰宅後、ユーリが文章化して入力したものです。あるいはミスが含まれているかもしれません。自分自身の覚え書きと復習のつもりですので、その点ご了承いただければ幸いです。

講演内容は、1992年の著書とほとんど同様である。自由民主主義の障害となるかもしれない4つの要因を次のように考えている。

1. 政治的イスラーム
2. 国際レベルにおける民主主義の不足
3. 貧困と政治的発展
4. テクノロジー

導入

ヘーゲルマルクスにヒントを得て、自著に『歴史の終焉』と名付けた。しかし共産主義のように、歴史的プロセスの最後は、社会主義ユートピアで終わると考えたのではない。近代化の過程は、ブルジョワ・リベラル民主主義で終わると予言したのである。しかし多くの人は、まとまった近代化はあり得ないという理由から、私のこの考えに否定的であった。しかしながら、「近代化への道」というものは、確かに存在する。自分達の足で、有権者として行動するのである。
近代化の過程で、伝統的な優れた価値観のうち、失われたものもあるため、近代化前の社会をノスタルジックに懐かしむ人々もいる。だが、そういう人々ですら、発展途上国の人々のように生活したいだろうか。実際、テクノロジーや医療水準の高さや豊かな生活のある日本やアメリカなどの先進国には、何百万人もの人が、途上国から移住してきているのである。
現在、世界の中でも重要な国である中国やインドで、近代化が急速に進んでいる。英国が100年かけて成し遂げたことを2,30年で達成しようとしているのである。何億人もの人々が、この過程に参画している。今、こうして話している間にも、教育機会やアイデンティティの拡大や市民社会の台頭における変化が発生している。
一方、中国やロシアのような国では、経済的近代化の過程を辿って、本当に自由民主主義社会の方向へ向かうのかどうかは不明である。社会として、本当に近代化を遂げるには、何らかの形で民主化が必要なのである。
例えば、中国の食品やおもちゃなどは不祥事が多く、輸出してもリコールされてしまう。こういう事例から、なぜ社会が民主化しないといけないかがわかるだろう。安全性や責任者の処罰の仕組みがなければ、長い年月の間に、そのような汚染された品にさらされてしまうという悲劇が発生するのだ。中国では、共産党上位幹部への責任説明はあるが、一般人民への説明がない。これでは、環境問題や安全性の面で、対処できるかどうか問題である。

1. 政治的イスラーム

私の師の一人であるサミュエル・ハンチントンの問題は、「統一性」ということであった。単一のグローバル的近代化の過程というものがあるのかどうかである。例の有名な『文明の衝突』では、世界は決して一つにまとまったグローバル化という過程を辿らない。それどころか、各地の文明が分離したまま進んでいくというものであった。自由民主主義は、西洋キリスト教文明のみが有するが、それは普遍的価値ではなく、支配力を持ち得ず、他の地域では共有しない。ヒンドゥ教、ムスリム儒教文明には、それ自身の政治体制がある。これがハンチントンの考えであった。
基本的機構は、政治、経済、技術であり、近代科学は同じだが、出発点は違っても近代化に向かって収束していくのだろうか。私自身は、普遍的な価値はあると思っている。完全な形で収束することで、伝統的文化を保ち続けるのだ。ただ、均質的な世界共通の文化になることはない。それは、非現実的な考え方である。
例えば、現代社会や社会的ヒエラルキーにおける女性の問題をとってみよう。収束の一つの手段として、女性の役割は伝統的に従属的で、子育てや家庭中心の生活だった。今でもサウジアラビアでは、女性は車の運転ができない。
しかし女性は、より広い役割を果たしていたのである。近代化の論理では、伝統的社会よりも多い役割が求められる。教育レベルでは、女性は男性よりも有能だったし、今も有能である。つまり、異なる論理で違う役割が期待されるのである。
中東その他の社会におけるムスリム文化をみてみよう。過去一世代の民主化過程の唯一の例外は、ムスリム社会である。トルコやインドネシアでは、比較的民主化に成功している。しかし、アラブ世界では少ない。過激派イスラームは、反現代であり、反自由主義である。また、それを実現しようとしているのである。
おとといと昨日開かれた、同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)の会合では、イランの博士が一つの矛盾を感じていると述べていた。イランが追求しようとしているイスラーム的民主主義は、国家機構であり、西側の自由民主主義とは差があり、イスラームの教義と矛盾するというのである。イスラームの中に、自由民主主義を妨げる要因があるかどうか、あるいは、自由民主主義に対するものは、一時的なのかどうか。イスラーム自由民主主義については、いろんな考えがある。
私自身は、共有しうる考え方は可能だと思う。歴史上、意志決定は可能であった。イスラームの中に、それを否定する要素は見られない。それは、その考えを採用しているムスリム国家があることからも明らかである。
ただ、複雑な文化体系には、解釈がいろいろある。かつてリー・クアンユーは、日本や韓国や台湾でのアジア的価値ということを提唱していた。それは自由民主主義とは両立不可能だと述べていた。しかし、蓋を開けてみると、東アジア諸国には民主主義が機能しているのである。
ただし、ムスリムの伝統では、国家との統一があるので、それが最も難しい。宗教と国家の統一を前提とした制度の世俗化は、困難である。今日の政治的イスラームに投げかけられているものは、急進的イスラームが誤って解釈されているのではないかということだ。伝統的価値を破壊するのでは、ということだ。
近代化する社会は、常に痛みを伴うものである。伝統的になじんできた価値観が切り離されていくからである。そういう時には、ヨーロッパなど、非常に不安を抱えている。例えば、1930年代、アイデンティティ喪失に対する巻き返しの運動として、ドイツのナチス国家主義や日本のナショナリズムがあった。
オサマ・ビン・ラディンは、今日、過激なイスラームの抗議を実行しているが、これは、日本が三世代前に経験したことが発生しているのではないだろうか。つまり、アイデンティティ・ポリティクスというものである。理論上は、市民が中心で、個人に権利があるというのが自由民主主義である。しかしここで、自分はシーア派だのどこそこのルーツだのという集団認知の間で、対立が起こるのである。現代社会において、この対応は難しい。集団間対立につながるからである。
アメリカでは、集団毎のアイデンティティの展開がある。例えば、ゲイ、女性、ラディーノ、アフリカ系、先住民族の集団である。これを突き詰めていくと、アメリカの中の小さなアイデンティティが国のバルカン化へと進む。例えば、フランス、オランダ、英国にはムスリム移民の子どもが暮らしているが、その状態を見てみるとどうだろう。

2. 国際レベルにおける民主主義の不足

次に、イラク戦争では、アメリカの行動に疑問が出されている。国民国家の枠組みでどう考えるかではなく、国家主権がまたがる立場の人々については、どのように対応したらいいのか。
アメリカ一国の軍事力は、世界の他の国防予算全部を総計したものに等しい。ローマ帝国以来のものである。だから、この圧倒的軍事力をもってすれば、8000マイル離れたイラクやアフガンの政権は簡単に倒せると当初は考えた。しかし、それができなかった。アメリカ大統領の権力は絶大で、説明責任は国民のみであった。反米感情や反発が大きかったのである。
国連は、一つのグローバルな機構を達成した。しかし、制度が弱体化している。主体性や正当性に疑問符がつけられている。イラク戦争に至るプロセスで効果がなかった。不備があるのである。
グローバル化とは、民族や国境を超えて、情報、商品、アイデア、人々、武器、お金、投資などが不規則的に流れるものである。そして、各国の国民主権が弱体化する。流れを規制するには、新しい国際機関が必要になってくる。より強い国家機構が必要なのだろうか。
国民国家を超えるEUは超国家的であるが、これは20世紀の歴史解釈に共通性があり、文化に共通の歴史を有するからである。国民国家は、紛争の種であるという考えからきている。ところがこれは、日本や韓国や中国のような東アジアや東南アジアになると不可能である。文化的相違が大きいし、歴史的解釈に隔たりがあるからである。
この点で、アメリカは責めを負っている。アメリカは、自己の主権が大切で、他国から指示されたくないのである。他の国に主導権を握ってほしくなかったのに、主導権を発揮できなかった。
従って、私は自分の学生達に申し渡してある、「丸々一世代使って考えろ」と。今のところ、新しい様式に対する回答はない。またそれは、世界政府のようなものではない。

3. 貧困と政治的発展

発展途上国における貧困の問題に移ろう。
この夏日本を訪問した時、最も繁栄した東京から、飛行機に乗って7時間で、世界で最貧国のニューギニアに到着した。オーストラリアから独立して以来、この国の水準は下がり続けているのである。サハラ砂漠以南も同様である。また、インドや中国でも、全員が恩恵に与っているとは言えない。世界の十億人は、一日一ドル未満の生活をしているのである。
経済成長では、国民所得が六千ドルを超えると、民主的に動くようになる。よい政府のある所では、経済成長が起こる。つまり、政治的発展につながる経済成長が見込まれるのである。
ここでの根本的な問いは、政治機構の質である。良い意味での統治というものは、ラテンアメリカやアフリカ諸国のような途上国にはない。国民自身はそのように感じていないかもしれないが、日本や韓国や中国には、歴史のはじめから、かなり強力な政治体制があった。例えば、北京には科挙制度があり、きっちりとした官僚体制が整っていた。それに対して、パプア・ニューギニアは、部族・種族の社会で、それ以上の統治はない。
ヨーロッパやアジアでは、何世紀にもわたって国家を造り上げた。その後、経済発展が起こり、民主化していった。それを、数十年で途上国はやろうとしている。
グローバル化の暗い側面は、統治能力の弱い国では、それがより劣化していき、マネーロータリングやテロや犯罪や麻薬や武器やマフィアなど、よくないものまで入ってくることだ。良い意味では、貿易や投資が可能になるのだが。
日本、アメリカ、英国、フランス、旧ソ連、ドイツでは、高度に強力な政体を有していた。19世紀から20世紀までの古典的国際学では、領土の中で中央集権関係のある国を扱っていた。現在では、大変異なる種の国際政治学となっている。アフガン、ソマリアイラクレバノンパキスタン、中国、太平洋諸国のような破綻国家の方が、難民を作り出し、麻薬がはびこる原因を作っているという点で、影響力を持っているのである。従って、政治的な指導力ワシントンD.C.だけというのは不充分なのだ。

4. テクノロジー

現在は、ますます混沌としている。アメリカは軍事力で圧倒的であっても、イラクやアフガンでは無効だった。よい社会的効果を与える近代化の要素は大切であるが、将来への保障はない。例えば、1945年以降、危険なテクノロジーとしての核兵器大量破壊兵器などは、予測されたスピードほどの拡散はないが、徐々に着実に拡散していることも事実である。流出を食い止めることが充分できていない。また、バイオテクノロジーの悪用例として、遺伝子組み換えからキラーウィルスを作り出すことは、安いコストでできる。地球温暖化の問題もあるが、京都議定書は、既に陳腐化してしまっている。
20世紀の共産主義は、集団労働によって社会変革を試みたが、将来はもっと高度な遺伝子組み換えや向精神薬などによる人間改良や人間操作があるかもしれない。それに対処するには、国際協調しかないのである。中国やインドの台頭により、新しい枠組みが必要となってきた。

まとめ

カール・マルクスは、社会のある段階が次の段階にとってかわり、発展するという機械的な見方をしていた。私はもっと異なる見方をしている。近代化のパターンとして、個人の選択が重視される。私は以上に述べた4つの難題について、解決できると約束はできない。

主催者から補足説明の挨拶
スケールの大きな話だった。フクヤマ氏は、元々はネオコンに属していたが、イラク戦争を契機に、軍事だけではダメだということで袂を分かった。おとといと昨日のCISMOR会合では、自由民主主義は普遍的なものであるというフクヤマ氏に対する、イスラーム側からの非常に厳しい議論や批判が交わされた。イスラーム社会にとって、民主主義は共通するが、リベラリズムは普遍ではない、というのである。リベラルは一つの価値観にしか過ぎないもので、反宗教的で宗教破壊である。つまり、アメリカとイスラーム社会は、厳しい緊張関係にある。宗教否定の世俗化社会と、国家と宗教が分離していないイスラーム社会である。イエスかノーかは、時間がかかる。善し悪しの問題ではなく、事実として、イスラーム社会では啓蒙時代がない。現実的ウィルソニズムとフクヤマ氏はおっしゃった。ある国のことを、時間をかけて丁寧に見ていこう。(講演会終了)