ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシアとムスリム問題など

昨日は、京都デー。朝、ファクスを一通送り、片づけものをして、洗濯物を干してから外出。10時頃自宅を出て、帰宅は7時過ぎ。それから、干したものを取り込み、レモンティーで一休みしてから、メールチェックやら郵便物に目を通しました。

昨日マレーシアから届いたのは、カトリック新聞『ヘラルド』とコンラート・アデナウアー財団・マレーシア支部(Konrad Adenauer Stiftung Malaysia)発行の“The Initiative for the Formation of a Malaysian Interfaith Commission: A Documentation”(2007)です。2センチほどの厚さの本ですが、送料以外は「贈呈」として送ってくださったのです。ドイツ系組織は、仕事が早いし論理がしっかりしているし、事実に基づいて正確にはっきり表現するし、理屈っぽいことを除けば、本当に気持ちの良いパートナーです。私には、かつてドイツ人のペンパルが旧西独(マンハイム近くの町)と旧東独(ライプチッヒやドレスデンやベルリン)にいて、ドイツ語で文通していました。こちらが手紙を出すと、直ちに返事が戻ってくるので、一番長く続く信頼できる相手でした。その経験からすると、このKAS Malaysiaの仕事は、ドイツ人代表者にとって、結構フラストレーションのたまるものかもしれません。KAS Malaysiaの話は、また近いうちに、この「ユーリの部屋」でも書いてみようと思います。

昨日の「ユーリの部屋」で書いた通りの日程で進んだのですが、図書室は正味1時間のみ。それでも、各種ジャーナルをしっかりチェックできたのは幸いでした。コピーも両面印刷で計40枚ほど。つまり、総計80ページ分というわけです。去年から今年にかけての“The Muslim World”掲載論文には、マレーシアの事例が幾つか含まれていました。2005年8月、このジャーナルの発行責任者であるハートフォード神学校で、ウィリアム・シェラベアの一次資料を見ていた時、お世話してくださった図書館長の先生が、「私達は、コソボとかアラブとかトルコなどのイスラームに興味があって、東南アジアのイスラームは、インドネシア以外、よく知らない。マレーシアのことはわからない」とおっしゃったのですが、実は、マレーシアの事例も、以前から時々このジャーナルに投稿されています!全く、人の話ほどアテにならないものはありません。かく言う私もそうなのですが。

その後は、時間がなかったので昼食抜きで、正面にある京都御所の南の方まで歩き、時代祭を見物。さすがに開始直後はすごい人出でしたが、1時間半も見ているうちに、徐々に人が減っていき、見晴らしが非常によくなりました。毎度のことながら、ノートを取り出し、思い浮かぶままにメモをつけながら立ったまま見物。ブログ日記を開設していると、メモにも力が入りますね。時代祭については、少し長くなるので、明日以降にまとめて書きます。

その後は、2時15分頃に、同志社女子大学の栄光館に直行。フランシス・フクヤマ氏の講演会に出席しました。同志社大学の方の礼拝堂やチャぺルも十字架の飾りがないのですが、女子大の方も、少なくとも正面は十字架がかかっていませんでした。初めの頃、キリスト教主義を売り物にしている割には、十字架のない礼拝堂で、イスラームに関する講演会をしている同志社大学にやや違和感を覚えていたのですが、慣れてくると、(そういうやり方もあるのかな)などと、母校でもないためか、だんだんどうでもよくなって(?)きますね。ただ、9月中旬に恵泉女学園大学のチャペルでオルガンコンサートを聴いた時には、(やはりチャペルというのはこうでなければ)と初心に立返ったような思いがしましたので、バランスが大事ということでしょうか。講演会は、礼拝堂以外の場所も大学にはあるのですから…。

フクヤマ氏の英語は大変わかりやすく、「スケールの大きい内容」と司会者が言われた割には、非常に理解しやすいものでした。これもそれも、マレーシア経験と勉強のおかげですね。逐語通訳は、以前もお見かけした有能な女性。この方は、外見は地味で、食事も一人ひっそりと取られ、声も低めで、あくまで脇役に徹していらっしゃるのですが、とても的確な訳出をされます。本当のプロフェッショナリズム精神でお仕事をされているのです。これまで出会った通訳にはいろんな方がいましたが、こちらもいろいろと勉強になりますね。

というわけで、これももちろん、メモを取りながらの拝聴。その内容は、これまた明日以降に書きます。

終了したのは、午後4時半より10分前でした。知り合いの先生も2,3人来られていたのですが、会釈のみ。(よし、これから帰って、メモの整理をするぞ)と意気込んでいたら、なんとエジプト人の先生とバッタリ会い、「なんで国際ワークショップに来なかったの?」と声をかけられました。

「なんで」って、招待状も来ていないのに、のこのこ出かけられないじゃないですか。すると先生の方は、「日本人の出席者が少ないから、来ればよかったのに」というすれ違いの話。よくあるんですよね、この種の国際会合につきものの、連絡ミス。去年もありました。ユダヤ学の会合への招待を、私の関心を知ったある日本人教授の方は事務に伝えておいたらしいのに、事務の方は、(ユーリさんはマレーシアだから)と判断して、私に連絡を寄こさなかったのです。後で先生に申し出ると、びっくりされていました。こういう分野に対して、本当に関心を持っているのは狭いサークルだろうと思うのですが、事務連絡は多方面にわたるので、つい、混乱というのか、忘れてしまうのでしょうね。ま、いいか…。エジプト人の先生に言わせれば、ジャンクメールがたくさん来るので、多分、間違って削除したのだろうとのことですが、それもどうだか、怪しいものです。

ともかく、それから1時間ほど、いろいろとおしゃべりすることになりました。このエジプト人の先生は、マレー人みたいに、おしゃべり好きというのか、前述のドイツ人とは対極にあります。論理性もなく、思いつくままにとめどもなく話し続けるのが、社交以上にマナーのようでもあります。随分前に、マレーシアに関する私の論文を「よく調べたね」とほめてくださったのですが、「マレーシアのイスラームは成功している」と公言しているエジプト人ムスリムとしては、自分の知らなかった、腑に落ちない事件がマレーシアで発生しているので、先生なりに調べたらしいのです。すると、聖書の発禁問題は、「キリスト教の聖書発行の責任者が、聖書をクルアーンに似せた形で頒布しているので、ムスリムが聖書とクルアーンの形を間違えそうになる。それで発禁にした」という、どこかで聞いたことのある言い訳めいた説明。「でも、もう公にニュースになったから、もう発生しないだろう」とのこと。いえいえ、先生、それは甘いですぞ。同じムスリムだからってそう簡単に信じちゃあいけません。

第一、 間違えそうになるなら、ムスリムに対して、形ではなく内容で判断するように教育するべきです。それ以前に、混乱の問題が起こりそうなら、いきなり発禁措置を取らずに、まずはキリスト教の指導者を呼び出して、問題を討議したらよさそうなものじゃないですか。それに、すべてのクリスチャンがムスリムに聖書を配り歩いているのではありませんよ。それは、19世紀的宣教のやり方です。一部の熱狂的なクリスチャンは、はた迷惑にもそうしているのかもしれませんが。落ち着いて考えてみれば、自己の宗教に異常に熱を入れて宣伝して回る人って、どの宗教にもいるじゃないですか。

ただし、そのエジプト人の先生に言わせると、「エジプトでは、クリスチャンの方がファナティカルだ」そうです。これは、事実は一つでも、見方が異なることの例証かもしれません。実際に赴いて調べてみなければ、何とも言えませんね。

しかし、マレーシアの事例で、先生にも納得のいかないのが、アラビア語由来のマレー語の宗教用語の問題です。「あの件は、どうしてそうするのか、わからないなあ」。先生、マレー当局にちゃんと説得してくださいよ。また、先生いわく、「アラブでは、クリスチャンの方がムスリムよりもアラビア語が上手だ。自分も、アラビア語の聖書を持っていて、時々読むんだ。アラビア語聖書は言葉が洗練されている」。

ほらね、そうなんですよ。マレーシアでも、大学教員レベルのマレー人ムスリム学者は、たいてい「私も聖書を持っているよ」と、私に言ってきますもん。なんら珍しい話じゃありません。つまり、一方で、聖書を頒布することをキリスト教団体に禁じておきながら、他方、自分ではちゃんと聖書を保持しているんですよね。

何というのか、この種の話のわかりにくいのは、事件そのものは単純なのに、ムスリムと会話していると、「それはイスラームじゃない。政治/民族/部族/習慣の問題だ」とすり替えられたり、「マレーシアではそうなのかもしれないが、エジプトではそんなことない」とか、「それはアメリカのプロパガンダだ」などのように、他に問題があるような方向に流れていくことです。さまざまな要因が絡み合っているのでしょうが、事実を直視して分析的に解明するという習慣がないのか避けているのか、いつまでも堂々巡りを繰り返しているようで、理解しようにも、ほとほと…疲れます、ね。

この先生も、人当たりはよくて、親しみやすいのですが、それとこれとは話が別。また、奥様が3人いらっしゃるのですって。ご自分でおっしゃいました。「みんな、知っているよ」と。日本人の奥様のみならず、本国エジプトにも、長らく滞在されていたパキスタンにも、それぞれいらっしゃるのだそうです。イランの女性とはうまくいかなかったそうですが。私が男だったとしても、国境も民族も超えて家族をあちらこちらに持つなんて、そんなややこしい人生は、御免ですけれど...。

イスラームでは、妻帯4人まで認められている。私は特別じゃない。たいてい、エジプトでは二人の妻を持つことが多い。だって、結婚したけど相手の女性に問題があったら、どうするのか?イスラームでは、女性の権利が男性の半分だっていうけど、女性が別の男と結婚したら、二倍所有することになるから、それは男にとって不公平だ。じゃないか?」と、これまたどこかで聞いたような話。「ま、日本のサムライ時代と同じさ」。そうなのかもしれませんね。じゃあ、グローバル化って、人と人が接触や交流をすればするほど、困難な問題が次から次へと起こるってことじゃないですか。ね、フクヤマ先生?

そのエジプト人の先生が言うには、「日本人の男の90%は、愛人を持っているけれど、イスラームでは愛人はダメだから、結婚して妻にするんだよ」。その90っていう数字、どこから出たんですか? 少なくとも私の夫は、愛人なんか持っている暇もお金もないですよ。毎日仕事でへとへとなんですから。そういう話、高校生か大学生の頃によく雑誌で目にしましたけれど、現実には、日本人の男性といっても、皆が皆、そこまで精力抜群でもなさそうです。もっと、愛妻家が多いですよ。結婚してみて、円満夫婦が目立ちますし…。「そんなことしているの、先生の周りだけですよ」と言ったら笑われました。