ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語の神の名をめぐる裁判(3)

一連の騒動を並べてみて(参照:“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090302))、ふと思い出したのが、マレーシアの州歌とマレー語の禁止用語の関連性です。
数年前、マレー語におけるアラビア語ペルシャ語サンスクリットトルコ語などからの借用語に関する言語学的な文献を読んだ頃から、不審に思っていました。
マレーシアは、全部で13の州から構成されています。そして、各州には州歌があります。そのリストを作ってみて、奇妙な点に気づきました。
この州歌には、非ムスリムが使用してはならないと9つの州法で規定されている語彙が、かなり含まれているのです。もちろん、複数の州歌では、“Allah”も入っています(参照:2008年1月27日付“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20080127))。この州歌は、定期的に学校で全生徒が歌うことになっているそうです。もちろん、非ムスリムの生徒も一緒に歌うようです。
となると、(1) 州法の禁止用語の規定とその通用範囲は、州歌には及ぼされないのだろうか (2) 今回、再浮上した騒動である「カトリック週刊新聞では“Allah”の語彙を使うな」という耳にたこのできたお達しと州歌との整合性は、どこに求められるのか、という疑問がすぐに浮かび上がってきます。

この辺の統一性のなさが、いかにもマレーシアらしいと言えば確かにそうなのですが、もしも、言語上の変な規制をせずに、曖昧でありながらも、州歌を歌ったり、国語訳で聖書を読んだり、国語でキリスト教礼拝をすることが全く自由であれば、私だって大手を振って、「マレーシアは穏やかに緩やかに多文化が共存できている」と公言したいです。

ヘラルド』編集長のインド系司祭Lawrence Andrew, sjによれば、この週刊カトリック新聞のマレー語版語法は、マレー語聖書に従っているそうです。そうであれば、本件に関する最大の問題は、聖書翻訳の基礎理論を知らない人が、聖書を最初から最後まで読み通さずに、たった一語‘Allah’だけで論じ合っていることです。かつて二度ほど研究発表したことがありますが、マレー語聖書には、‘Tuhan’,‘dewa’,‘tuhan’,‘yang’なども用いられています。それに加えて、確かに ‘Allah’も使用されています。それは、原語のヘブライ語における神概念の豊かさを、語彙の限られたマレー語で訳出するための、工夫と知恵なのです。

さらに考慮すべきは、マレーシアとその他の諸外国におけるキリスト教内部でも、‘Allah’使用について、見解が大きく二つに分かれていることです。賛成派は、(1)イスラーム発生以前のアラブのクリスチャン達の言語的伝統を受け継ぐ(2)1600年代から始まったマレー語への聖書翻訳の文化遺産を引き継ぐ(3)クルアーンの記述に合致するよう、クリスチャン(およびユダヤ教徒)がムスリムとの神の名の共有を受容する、という考え方に基づいているようです。
一方、反対派は、「ファンダメンタリスティックなアメリカのクリスチャン」が中心となっているそうです。(参照:2008年3月14日付「ユーリの部屋日本聖書協会主催の聖書翻訳ワークショップで、オランダ人教授デ・フリス先生から直接お聞きしました。)

仮に、一部のムスリムが主張するように、「神の名“Allah”をムスリムとクリスチャンが共有することで、カトリックムスリムキリスト教化を意図している」ということが事実だとしたら、次の点に一つ一つ答えていかなければなりません。
→なぜ、アラブでは、アラビア語を使用するキリスト教が少数派であり、人口も減り続けているのか
→アラブでは、クリスチャンとムスリムが神の呼称を共有していても混乱すると誰も主張しないのに、なぜ、アラブよりもより発展したモデルのムスリム国とされるマレーシアでは、ムスリムが混乱すると恥かし気もなく繰り返し主張するのか
→神の名の共有によってムスリムが混乱する可能性があるなら、なぜ当局は、一方的に間歇的に禁止措置をとるばかりで、双方で話し合いをしようとしないのか
→自分達が混乱すると声高に叫ぶことは、自分達の知性の低さを自ら公言することで、恥ずかしいと思わないのか
→なぜ、「最終の完璧な宗教」とされるイスラームを信奉するムスリムが、そんなに容易に混乱するのか
カトリックムスリムキリスト教化を意図しているという事実は、インドネシア以外にどのような事例があるのか。また、プロテスタントのペンテコスタル系クリスチャンの方が改宗活動に熱心だと一般に言われることとの連関性は、どうなのか
→私の聞いた範囲では、カトリックの人々は「私達は何もしていないが、マレー人の方から教会に来る」と言ったが、もしそれが事実ならば、なぜそれほどまでにすばらしいイスラームから、「より劣った歪曲された宗教」のキリスト教に惹かれるマレー人が出るのか
→もし、教会が自己の活動のみに閉じこもり、教会の門をたたいたムスリムをシャットアウトしたとしたら、その責任はムスリムにあるのか、または、クリスチャンにあるのか
→極小のカトリック人口の人々が、政府からの援助もないままに、マレーシア法の許可する範囲内で、限られた人材と財源のもとに一生懸命、編集し発行している小さな週刊新聞を、ムスリム当局が難癖をつけて許可しなかったとしたら、イスラームの寛容は果たしてどこに求められるのだろうか
→本当に、当局の言うとおりに、マレー語版を削除し、神の名を“Allah”から“Tuhan”に変更したとしたら、今後一切、発行許可は禁止されることはないという保障があるのか。
→マレー語はそもそも、マレーシアの唯一の国語であるのに、なぜ、英語がよく理解できない先住民族カトリック信者やインドネシアカトリックの労働者達が、マレー語でミサに与り、マレー語でカトリック新聞を読むという当然の権利に対して、それほど阻まれるのか
→日本人クリスチャン人口は、現在0.8%であり、カトリック教会のように、外国人の比率が高く、ポルトガル語スペイン語インドネシア語ベトナム語・英語などのミサも併設している大都市の教会を除き、普通は日本語で説教礼拝をし、日本語訳聖書を用いている。英語は義務教育でも学ぶが、英語で説教のできる牧師や司祭は、実は限られている。日本人クリスチャンのすべてが、英語でも聖書が読めるわけではない。この事例からもわかるように、マレーシアで、国語のマレー語を使用するクリスチャンが実在することは、まったく自然な現象である
→互いに潜在的改宗者と見なせば、緊張や競合関係が発生するが、もっとシンプルに、宗教言語文化としての聖書翻訳ととらえた場合、非マレー人による言語獲得とその発展において、さしあたって、マレー語聖書ほど可能性を秘めたものはないはずである。文法事項も、各地域のマレー語方言や変種への気づきとその体系化、教派を超えたキリスト教共同体の協働作業、世界中で最も多くの言語に訳されている書への理解の進展、そして威信と誇りが付与されるわけである。インドネシアでは1950年代に既に帰結が見られ、マレーシアでも1980年代に一応の決着を見たはずの、神の名の議論について、先行研究文献を吟味せずに、自分達の次元で勝手に発言することを「言論の自由」と称するのであれば、確かに、混乱を招くであろう。

マレーシアのキリスト教共同体全体から見れば、タミル語使用のクリスチャンより少ない人口を占めるマレー語使用のクリスチャン達が用いている神学用語について、マレーシア当局が繰り返し主張する、「ムスリムが混乱する」という言い分の当否を、もっとまじめに考えていただきたいものだと思います。