ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

若き日に師を見極めること

去年東京で再会したマレーシア聖書協会の華人翻訳コンサルタントから、2日前、今夏出版されたCDやマレー語新約聖書に関するお返事をいただきました。
CDやマレー語新約聖書は送ってあげられるけれども、残念ながら、最新版マレー語聖書のストックは既になくなってしまい、次にいつ増版されるか不明だとのことでした。こういうことが起こるので、関連資料は、何でも早目に入手しておくに限ります。しかしその結果、ここ数日のように、超多忙の時に突然、本棚の整理をしなければならなくなるほど、資料の山ができてしまうのです。
2006年11月下旬に、マレーシア教会協議会の総幹事ヘルメン・シャストリ博士のオフィスで見せていただいた最新版マレー語聖書の表紙には、大きな金色の十字架がつけてあります。マレー・ムスリムが間違って手に取ってしまわないように当局から言われたからだそうです。ふう!一応、写真には撮らせていただきました。十字架が大き過ぎてセンスに欠ける上、あまり意味のないデザインだと思いました。(大事なのは表紙ではなく、中に何が書かれているかなのですから。世界的も歴史的にも、ごく僅かながら存在するというキリスト教に惹かれるムスリムは、自分でクルアーンと聖書を読み比べて、内容を確認しているという証言があります。)とにもかくにも、私にとっては大事な資料です。滞在期間中に入手しようと思っていましたが、あれやこれや用件が重なり、つい、買いそびれてしまったというわけです。
...とワードに入力しておいたら、不思議なことに昨日になって、上記の聖書翻訳コンサルタントから再び連絡が入り、オフィスの女性スタッフがマレー語聖書を一部手に入れることができたので、一緒に送ってあげる、と教えてくださいました。ありがたいことです!
とりあえず頼んでみると、相手によっては、最初は無理と言っていても、結局は何とか一生懸命協力してくださることもあるかもしれない、というハラハラドキドキが、マレーシア・リサーチの醍醐味といえるかもしれません。私の世代だと、日本でのビジネスライクな便利さや快適さに慣れ過ぎてしまい、約束を守り、きちんとできて当たり前、という習慣で生きているので、マレーシア赴任の当初は、半年ほど、何かとギクシャクしたり、何もしていないのに気落ちしたりしていました。そういう私の体験について、帰国後、「大変だったでしょう。疲れたでしょう」とねぎらってくださった人と、「もう、だめね、この人。あんな国にいたんだから」と見下げるような人とに大別されていました。こういう‘判別式’ができたことは、私にとって一つの宝となりました。
ところで、去年の6月頃、今後の大学ではイスラーム研究が主流になり、キリスト教研究は、もはや衰退していると聞いたことがあります。しかし、日本語版と英語版のブログ「ユーリの部屋」と‘Lily's Room’を立ち上げて、2007年10月21日以降設置したアクセス数の記録を見てみると、結果はその反対です。イスラームをより肯定的に取り上げるものよりも、ムスリムキリスト教に対して、本音ではどのような見方をしているかという話の方が、ぐっと人気があるようです。また、「調和してうまくやっているマレーシア」という外交辞令的な話よりも、マレーシアでどのような問題が具体的に発生しているかというテーマの方が、ぐんとアクセスが上がります。単純にキーワード検索でひっかかっているだけではなく、きちんと見るところは見られているんだなあ、とうれしく思った次第です。
ヨーロッパ研究をしている人達の間、特にクリスチャン研究者にとっては、「そんなこと当たり前過ぎて、何を今更...。サルマン・ラシュディ事件ではっきりしたじゃない?」ということらしいです。言うまでもなく、私もそれぐらいは知っています。知っているどころではなく、お世話になったことのある先生のお友達が、故五十嵐一先生だったのです!しかし、ムスリム多数派の地域に居住し、その後もそこでフィールド調査をし、同じフィールドの中で観察結果を持ち寄ると、必ずしも‘当たり前’とされる見方が主流の多勢になるとも限りません。だからこそ、どの教授につくか、どの会合で発表するかが肝要なのですが、私の場合、正直に言って、精一杯あれこれと模索をしたものの、地域に傾き過ぎたためか、どうも悔いが残るように思います。そうは言っても、国内で、その他に適切な場が見つからなかったのですから、(仕方がない、これも私の人生だ)と受容する他ありません。
それでも、私を応援し激励してくださる先生方は、少なからずいらっしゃいます。逆説的なのですが、マレーシアでは存在をあからさまにしにくいとされるユダヤ教の研究者や、イスラエルアメリカなどで学位を取得された聖書学の先生方です。対象地域が同じだから分かり合えるというものではなく、むしろ、もっと深い根本原理が共有できる人々との間で意思疎通がスムーズになるということの証左です。しかも、顕著な業績を挙げられた先生方の方が、厳しいけれども謙虚で腰が低くて丁重なのです。
若き日に師を見極めることの重要性を、つくづく痛感させられます。