ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

スラバヤの思い出

もうすぐキリスト教史学会の大会発表なのに、夏休みということで、本当に勉強と準備をお休みにしてしまいました。子どもの頃の「夏休みの計画」を思い出してみましょう。「目標」の欄に「毎日規則正しい生活をする」「朝の涼しいうちに勉強する」と書き記したのに、あの頃の私はどこへ行ってしまったのでしょうか。

ところで、おとといと昨日は、ブリズベン在住のスシロ先生とのメール交換で、またもや楽しく(?)過ごしました。私(達)は至って真面目に振る舞っているつもりなのですが、主人は報告を聞く度に「何やら、楽しそうじゃないか」というのです。焼き餅焼いているのかな?おいしく焼けたら一緒に食べようね。

ともかく、サバ神学院出版の新書(“Bercambah dan Berbunga”)について、無事に届いたことの通知およびご紹介くださったことへのお礼をメールで送ったところ、「東京で見せてくれた前書(“Matang dan Sempurna”)のミスの件、よかったらもう一度教えてくれないか」とのお返事があったのです。

実はそれほど深刻なミスともいえなかったのですが、一応は学術的論文集の形をとっている本なので、東京での国際聖書フォーラムのレセプションで「これ、ちょっと違うんじゃないでしょうか」と、あえて申し出てみました。とても言いにくかったので、ことばに詰まってしまったのは毎度のことですが、こういう話は、メールよりも直接会える時にした方が効果的だと思ってのことです。その時は、こちらの気遣いが余計だったのかと感じられたぐらい、極めて気さくに「あぁ、ほんとだね。どうもありがとう。誰かが間違えたんだろうね」と大らかな調子だったので、一瞬(え?誰かが間違えたって?ご自身の原稿なのに、2004年の出版で今まで誰も気づかなかったとは?)と思ってしまいました。実はスシロ先生ご自身も、ずっと気になっていらしたようなのです。前にも書いたように、あの頃のスシロ先生は、東京の翌日すぐにサバ州コタキナバルに飛んで、重要な催しもの(カダザンドゥスン語の改訂版聖書の記念会)などに出席し、その後ブリズベンに戻って荷物を詰め直し、すぐにカイロに向かってもう一つの聖書関連の会議に出る、という超多忙スケジュールの最中でしたから、どうやら確認が遅れたみたいですね。

で、メールのやり取りから判明したのは、スシロ先生の元原稿がサバ神学院に渡ったところまではよかったのですが、どうやら、神学院から印刷に回す段階で、元原稿と参考文献のリストの間で、何やら行き違いが起こった模様なのです。「多分、神学院の誰も気づいていないだろうけど、もしよかったら、他にも気づいた点を教えてあげてください。皆喜ぶと思うよ」とのことで、思わず(うーん)と唸らされました。つまり、本は出版したけれど、誰もきちんと読んでいないということですよね、3年前の出版で。こういう時、外国人として、どのように手助けしたらいいのか、いろいろと考えさせられます。「干渉」だの「侵略」だの変な理屈をつけないで。

スシロ先生のように、首都ジャカルタではなく東ジャワのご出身で、代表責任者として、いろいろな国を飛び回り、アメリカ人やオーストラリア人などとも渡り合って、日本聖書協会からアジアの一国として‘経済援助’を受けて業務を遂行する、という立場になると、表向きは堂々とされていても、内心なかなか微妙でしょうね。自分達の文化や慣行を大切に育みつつ発展させていきたいと望む反面、外国人からは「遅いね」「いい加減だね」などと思われているのじゃないか、と。その橋渡しがコーディネーターの役割なのですけれども。

去年の国際聖書フォーラムのことです。初日の夜、知り合いの日本の聖書学の先生お二人と、ご挨拶も兼ねてしばらく立ち話をした後、「遅くなったから、四谷まで歩こう」と先生に誘われました。では、と会場を出て行こうとした時、ふと何かの気配を感じて振り向くと、少し離れた所から、私達をじいっと見つめていらっしゃるスシロ先生がいたのです。「お先に失礼いたします」のつもりで、とっさに“Good Night”とご挨拶したのですが、今から思えば、こちらのこともいろいろと気になったでしょうね。いえ、三人がこれからどこで何をするのか、ということではなくて、私がどういう先生方と知り合いなのか、マレーシアを離れた自国ではどういう風に振る舞っているのか、ということぐらいは把握したかったのでしょう。せっかく東京に来たのだから、ゆっくり話をしたかったということだったかもしれません。私としては、招待講師でいらっしゃるので、多分お疲れもあるだろうし、敬意のつもりで距離を置いた方が、むしろ礼儀にかなうと思っていたのですが。

ささいなことのようですが、こまごまと思い巡らせているのにはわけがあります。以前も書いたように、マレー半島ボルネオ島でと同じくジャワでも、戦時中、本当に日本軍は評判が悪かったからです。もっとも、イスラーム改宗して現地に留まり、インドネシアの独立を助けた日本人兵士もいました。しかし概して、戦後の経済活動についても、‘援助’を笠に着て、上から見下ろすような日本人も少なくなかったようです。

ここで、「マレー語社会での呼称について」(「ユーリの部屋」2007年7月26日付)でも紹介したスラバヤのジャワ人ムスリムの友達H(元日本国費留学生)が、私に教えてくれた大事な話を再現します。彼は高校で日本語を第二外国語として学び始め、大学では日本語専攻でした。学生の中でもとりわけ日本語が上手だというので、日系企業に雇われ、時々通訳のアルバイトをしていたのですが、ある時「僕が本当に嫌だったのは…」という打ち明け話をしたのです。

それは、私がマレーシアのマラヤ大学で教えていた任期中のことです。1990年11月の休暇に、クアラルンプールからシンガポールを経て、ジャカルタ経由でスラバヤを訪れました。目的は、同じく元日本留学生だった華人カトリックのFと上述のHに会うことでした。私のマレーシア赴任が決まったとき、二人はもちろんのこと、タイやシンガポールの元留学生の友達も皆大喜び。次々に「ぜひ、遊びに来てね」と手紙を寄こしてくれたのですが、まずは、シンガポールインドネシアに行くことにしたのです。(タイのバンコックには翌年行きました。)

「スラバヤで一番きれいな滝のある場所へ、ユーリちゃん(注:どういうわけか、私は‘ちゃん付け’で呼ばれていました)を連れて行きたい」と言って、あいにくラマダン(断食)中だったのに、HはFと二人で案内してくれました。「今がラマダンじゃなかったら、絶対にジョクジャカルタまで案内したかったのに」と言って...。その滝は一種の名所らしく、日本人観光客も、スラバヤに来た以上は必ず訪れるのだそうです。

遠い記憶を辿ると、暑い最中、とても広い道を、日本語で(!)笑ったりしゃべったりしながらダラダラと歩き通している三人の姿が浮かんできます。時々、馬がそばを通りかかったことも覚えています。馬を連れたおじさんに、二人がジャワ語で何やら話していたことも...。

その途中、民家が並んでいるような場所がありました。するとHが「ユーリちゃん、あれを見ろ。スラバヤまで来たんだし、日本人なんだから、よく見なければダメだよ」と指さしたのです。見ると、そこから、なんと、派手な色遣いで着飾ったずいぶん化粧の濃い少女達が数人、ぞろぞろと出て来ました。「なに、あの女の子達?」と聞くと、Hは「あの子達、春を売っているんだよ。まだ若いのに、あんなことして…」と唇をかんで黙り込んでしまいました。「え!」とこちらも驚いていると、しばらくしてようやく重い口を開いたHが「僕が本当に嫌なのは、日本語通訳でアルバイトしている時、会社の日本人達が、時々こういう所に連れて行けっていうことなんだ。たまには偉い人が日本から来たからっていうこともある。一応は仕事の範囲だから、学生の立場では断りにくい。料金の交渉まで、僕がさせられているんだよ。ユーリちゃん、僕の気持ち、わかる?僕は、交渉だけしたら、すぐに一人で帰ってくるけどね。こんなアルバイト、本当にしたくない。こんなこと、この辺の土地では、悪い奴だけがやることなんだ。普通のインドネシア人なら、誰もそんなことしないよ。とても恥ずかしいことだよ。ユーリちゃん、おまえは真面目だし、僕の友達なんだから、せっかくここまで来たなら、日本人としてよく覚えておいてね。ここの人間は、みんなこのこと知っているんだよ」。

その後、イスラームとムラユ文化圏の勉強をするようになりましたが、この時の話を思い出す度に、いつでも何とも言えない気分になります。当時の私にできる唯一のことは、マレーシアに戻ってからHに送った手紙で、率直な彼の態度に対する感謝の気持ちを、一生懸命に綴ることだけでした。話としては未知ではありませんでしたが、地元育ちの友達から直接聞くと、本当にショックでしたし、返す言葉もありません。

この旅行の続きを、もう少し書かせてください。スラバヤからジャカルタに戻るため、外国人枠としてガルーダ航空のファーストクラスに乗りました。さすがは当時のファーストクラスだけあって、隣の席には立派な風采の紳士がいらっしゃいました。その紳士が、どういうわけか私に話しかけてこられたのです。初めはマレー語で話していたのですが、しばらくして「あなた、日本人でしょう?マレーシアに住んでいるんじゃありませんか。話し方からよくわかりますよ」と格調高い日本語で言われました。出身を問われ、名古屋だというと、「私も一度名古屋に行ったことがあります」とのことでした。その紳士がおっしゃるには、「それでも日本人は、ゴルフなどインドネシア人と一緒にやろうとしてくれるから、まだ良い方です。韓国人は仲間に入れてくれないんですよ。韓国人はインドネシア人をいじめるんです」とのことでした。この会話は、マレーシアに戻ってからもしばらく忘れられませんでした。

もしも、この紳士の発言が事実だとしたら、一つ考えられるのは、日本側は、韓国もインドネシアも植民地支配したために、戦後、態度を改めざるをえなくなったのではないかという背景があります。それから、一般の韓国人が海外に出られるようになったのは、1988年のソウル・オリンピック以降のことですから、インドネシアのことも、まだそれほどよく理解が深まっていなかったのかもしれません。

閑話休題。というわけで、リサーチのためには下手に出ていても、本国では居丈高に振る舞う輩もいないわけではないことから、スシロ先生としても、こちらをよく観察しておかなければ、ということだったかもしれませんね。支配された側の感覚は、こちらの考える以上に、非常に鋭く発達しています。面従腹背じゃありませんけれども、しっかりと相手を見て、表向きは相手に合わせながらも、本音では自己の価値観を保つ、こうして醸成され顕現化したのが、戦後のナショナリズムです。想像するだけでも悲しくなる思いがしますが、そのように人々は生き延びてきたのです。マレーシアのマレー・ナショナリズムは、インドネシアより30年も遅れていたと学問的には指摘されています。インドネシアでは、1928年に「青年の誓い」が公表され、1945年には堂々と独立を達成した一方で、マレー半島では1957年になってようやく独立、しかも流血の惨事などなく、極めて平和に政権が移行したのです。

もうすぐマレーシアでは、独立50周年記念祭が執り行われる予定です。お祝いのカードを送りたいのですが、国歌の問題とか、宗教上のごたごた論争とか、何やらムードが今一つのようです。そうではあっても、アジアのある一国を知る機会に恵まれたことに、私としては感謝したいと思います。

私の研究は、単なる知的好奇心以上に、一種の償いの気持ちが支えているという面も大きいと思っています。